【2】思い出

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 新宿駅に着くと、東口方面の地下通路へと降りていく。丸の内線の改札を通り過ぎ、十分程歩いた頃に鶴堂の入り口が見えた。地下一階、丁度目的のフロアだ。  なんとなく予想していたが、店内に茜と同じ年頃の男性客は見当たらなかった。居心地の悪さに、さっさと用事を済ませて出ようと決意する。 「あの、これください」  幸い、目的の店は入口からすぐだった。携帯を差し出して直哉から送られてきた画像を見せると、それまでにこにこしていた店員が眉根を下げる。 「申し訳ありません。そちら、今期の販売は終了しておりまして」 「え」  白小豆の抹茶餡と、ほうじ茶の琥珀餡を使い、夜に光る蛍をイメージした水羊羹。八月下旬まで取り扱い予定。 「今日って、八月三日ですよね」 「下旬まで販売する予定だったんですけれど、大変ご好評いただきまして。前倒しで終了させていただいたんです」  言われてみれば、ガラスケースのどこにも蛍の水羊羹はなかった。代わりに、長方形のポップが一枚置かれ、「今季終了」のシールが貼られている。  蛍に見立てた水羊羹なんて、茜はちっとも食べたくない。でも、世の中には物好きが沢山いるようで、「分かりました」と立ち去る他なかった。  直哉に助言を貰おうと電話したが繋がらない。どうしたものかと、あてどなく店内を歩き始める。  そう広くない通路には人がごった返している。皆の迷いなく進む足取りに、すごいなあと思う。  どの人達も、ここに来る目的がちゃんとあるのだ。茜なんて、地図のないダンジョンに迷い込んだ気分でいるのに。 「ねえママ、飴は?これとか可愛いじゃん」 「お爺ちゃんが貰っても困るでしょ」  興味本位で、二人の頭越しに商品を覗く。化粧品に見立てたパッケージの水飴が、照明を受けてきらきらと輝いていた。  驚いたのはその値段だ。一個七百円。掌に収まるほどの大きさなのに。  駄菓子屋に置かれている数十円の水飴しか知らない茜にとってはかなりの衝撃だった。どんな人が買うのかと思いショーケースを囲む客に目をやると、意外にも男性客が多い。──そうか、贈り物に使うんだ。  改めて店内を眺めてみると、即決する人より、数店巡ってから思案気な表情を浮かべている人の方が多かった。それぞれが、送りたい物、渡したい誰かを思い浮かべながら時間を過ごしているのだ。  だけど茜は、西瓜をくれた人のことなんて知らない。名前を見返しても男性とも女性とも判断がつかないし、年齢も、どんな理由で直哉に西瓜を贈ろうと思ったのかも分からないままここにいる。  違う、訊かなかったからだ。  誰から貰ったの?どんな関係の人なの?西瓜を切ってる間、二人でリビングにいる時、いつでも尋ねることは出来た。でも茜は聞かなかった。どこに母の欠片が転がっていて、兄を傷つけるか分からないから。  徐々に、直哉が自分から教えてくれる事だけを受け取っていれば良いと思うようになった。それで不自由はないけれど、侘しさも残る。  被害者気どりをするつもりはないし、兄を散々傷つけたのは茜の母親だから、無関係だなんて思ってもいない。それなのに、秋風のような寂しさを消す方法を、未だ見つけられずにいる。  今更、直哉からの頼みを億劫がったことを申し訳なく感じた。役目を精一杯果たそうと気合を入れ直し、丹念に店を覗いていく。  水羊羹を選ぶくらいだから、若い人ではないだろう。そうだ、慧も知っている人かもしれない。連絡すれば、どんなものが好きか教えてもらえるだろうか。  勝手なことに、メッセージ画面を見るまで、返信を止めていたのが自分であることをすっかり忘れていた。いざ思い出すと、いきなり電話をするのは気が引ける。  ため息と共に携帯を仕舞いながら、また店内を見渡した。 (あ、かわいい)  ペンギンの絵が描かれた箱がケースの中にぎっしりと並んでいる。柔らかな手書き風のタッチで、ふくふくとした毛並みがなんとも愛らしい。南風亭、という店名が壁面にかけられている。何屋さんだろう。 「いらっしゃいませ」  店員と目が合った手前、無視はできなかった。 「えっと…これって、中身なんですか」 「スノーボールクッキーです。チョコレート、ヘーゼルナッツ、くるみの三つの味をご用意してます」  真っ白な粉に覆われたまん丸のクッキーを指し示される。昔好きだった、粒々の砂糖をまとったフルーツ飴に似ていた。 「これって、柔らかいですか?」  羊羹を贈ろうとする相手だから、咀嚼に難があるのかもしれない。 「はい。少し嚙めば、口の中で崩れる塩梅です。固目の物がお好みですか?」 「いえ、柔らかい奴が良くて」 「ナッツが入っているので多少の食感は残りますが、細かく砕いて混ぜ込んでいるので、御年輩の方からお子様までお召し上がりになれますよ」  はきはきと、だが押しつけがましくはない口調に、俺、お客さん扱いされてると密かに感動した。まだお金も払っていないのに、どう見たって客層に馴染めていないのに、この人は茜を一人の客として接してくれているのだ。  物を買うだけなら自動販売機でも事足りる。眺めて、ボタンを押せば望みの商品が転げ落ちてくる。でも、自動販売機にこのクッキーが並んでいたとして、食感を教えてはくれない。  固目のクッキーを探しているのかと尋ねた時、店員の指が僅かに動いた。きっと、その先に代わりに提案できる商品があって、茜の顔色を見て最適なものを差し出してくれようとしたのだ。  人と人だから、それが出来る。茜の選択肢は一つではなく、尋ねれば尋ねるほど枝葉は広がる。それが嬉しくて、くすぐったい。  クッキーの中身と箱の絵柄を自由に組み合わせられるのが売りらしく、色々な箱をケースの上に並べて見せてくれた。海色の羽を纏った鳥とペンギンが描かれた箱を見た時、嬉しそうに映画のあらすじを話していた慧が脳裏に浮かんだ。  これにしよう。直感を信じるのもたまには良いはずだ。 「あの、二千五百円くらいのがあれば買いたいんですけど」  配送伝票に書き込みながら、家に帰ったら、あの映画を見てみようと思った。それで、途絶えさせたメッセージを返す。謝りたくて連絡を取っていたのに、茜から打ち止めにするのはやっぱり不義理だ。  伝票の控えは、恭しく小さな封筒に納めて渡された。鶴堂のロゴがしっかりと印字されていて、百貨店の客としてここにいられる許可証を手に入れたようで気分が上がる。  役目を終えた安心感からか、先程までの寂しさはすっかり消え失せた。意気揚々と出口へと向かう。  向かっている、つもりだった。 (あれ?)  和菓子売り場から入ったはずなのに、目の前に日本酒の棚が並んでいる。案内図を求めてサイネージパネルに近寄ったが、数秒で商品の紹介に切り替わってしまった。再び表示されるまで待つしかなさそうだ。  傍を通りかかった親子が、パネルに表示された商品を見上げて指さした。 「お母さん、このタルト美味しそうじゃない?」 「さっきぼた餅買ったじゃないの」 「和菓子と洋菓子は別腹でしょ~。ね、見に行こうよ。あっちあっち」  茜と同世代の少女が、母親に甘えた笑みを向けて腕を絡める。母親は「重いってば」と笑いながらも振り払うことはせず、人混みの中へと消えていく。  二人の横顔はとても良く似ていた。  知らず内、封筒の乾いた手触りを確かめながら、大丈夫、と胸の内で繰り返す。  大丈夫。許可証があるから、ここに一人でいても大丈夫。案内図を見て、出口から地下道に行って、ルミネに寄って帰るだけだから、大丈夫。  冷蔵庫に西瓜があるから大丈夫。大丈夫、大丈夫。 「会計に行ってまいりますので、こちらでお待ちください」  鈴の音のように、男性の声が耳奥を揺らした。台車を引く音、館内放送、音なんてなんてそこかしこに溢れているのに、その人の澄んだ声だけが、ノイズを除去したように茜の耳に真っ直ぐ届いたのだ。  不思議に思って声の在りかを探す。先ほどの親子が通り過ぎた先、ショーケースの横で背の高い男性が立っていた。  あの人だ、と一瞬で分かった。理由なんてなかった。  形良い額を惜しげもなくさらし、適度に整えられた眉のアーチが表情に合わせて動く。穏やかな笑顔、少し驚いた表情。はっきりした目元。 「…慧?」  慧は颯爽とした足取りで中央の集合レジに行き、女性の店員にトレイを渡した。すぐに返され、また客の元へと戻って紙袋を差し出す。鶴堂を象徴するアーガイル模様ではなく、ダークグレイで統一されたシンプルな紙袋だった。  優し気な微笑みで会話する慧を遠目に眺める。  茜の知っている慧は、けらけらと良く笑い、胡坐をかいてコンビニの弁当に舌鼓を打つ男だった。気品すら溢れる今の姿と、あの家での振舞いは何一つ結びつかない。 (っていうか、元気そうじゃん)  返事を止めていたことを気にとめたり、映画を見て感想を送ろうとしていた自分が恥ずかしくなる。  足元に落ちた影の色が変わったことに気付き、サイネージパネルを見上げる。ようやく案内図が表示された。出口の位置を確認していると、慧と話していた客がゆっくりと通り過ぎていく。  迷いのない足取りだった。きっと何度も来ているのだろう。男性の後をついて行こうと足を踏み出した時、後方から声がかかった。 「何かお探しですか、お客様」 「…もう済みました」  そのまま歩こうとしたが、素早く前方に回り込まれてしまう。 「残念、アテンドしようかと思ったのに」  茶目っ気たっぷりに笑う姿に、いつもの慧だと安心した。砕けた口調を他の客に漏らさないためか、小声で話しかけてくる分くすぐったさが増す。 「久しぶり。なにか買い物?」 「うん、ちょっと。…ってか、ここで働いてたんだ」 「なんだ、知ってて来てくれたのかと思ったのに」  淡い色合いのジャケットに、濃紺のスラックスの制服が良く似合っている。胸元にはネームプレートがついていた。 「椎名(しいな)」 「こら、呼び捨てにするな」 「苗字知らなかったなって」 「誕生日と血液型も教えとく?」 「いりません」 「まあまあ、折角だし。十一月二十日生まれ、血液型はО型で…あ、ちょっと失礼」  胸元から取り出した携帯電話を耳に当てると、途端に仕事の顔と声になった。  子供じみた疎外感を覚えてしまうながら待っていると、通話を終えた慧が「残念」と呟く。 「呼び出しかかっちゃったから戻るわ。茜、この後用事ある?」 「ないけど」 「やった」  心底嬉しそうに笑う姿に見蕩れる。こんなに華やかに笑う人がいるなんて。 「この通路を真っ直ぐ歩いたら、右側にジェラート屋があるんだ。そこで待ってて」 「え?」 「飯行こうぜ、あと一時間くらいで上がれるから。じゃ、また!」  そう言い残し、颯爽と去って行く。  いつも通りの態度に安心しながらも、慧のペースに巻き込まれたことが悔しかった。いや、別に慧は悪くないけど。俺が勝手に気に病んでただけだけど、でも。  一方的に取り付けられた約束とはいえ、きちんと謝り切れていない手前反故にはできない。言われた通りジェラート屋に行くと、壁際にベンチが置かれていた。手ぶらで座るのは気が引けるので、キウイジュースを注文する。  ジェラート屋の通りを挟んで向かい側はお団子屋だった。紺色の和服に身を包んだ店員が、串団子を手際よく包んでいく。  初めて見た風景のはずなのに、何故か、見覚えがある気がした。  頭の奥で、何かがカラカラと揺れた。──知ってる。俺、ここに来たことがある。   ──おかあさん、あのね。  目の高さに並ぶお団子。母さんの、珊瑚色のワンピース。  昔、東京に越してくる前。何の用があったのか、その前後はまったく覚えていない。母は不倫の真っ最中だったから、父に会いに来たことは間違いないだろうが、その間自分はどこにいたのだろう。  母がお団子を選ぶ間、茜はワンピースの生地軽く掴んで、何か伝えようとしていた。  おかあさん、おかあさん。何度も呼んだ。でも、母さんは店員と話してばかりで、茜を見てはくれなかった。  何を伝えたかったんだろう。今じゃなきゃだめ、という強い衝動は覚えているのに。  ジュースが空になったことにも気付かず、あきらめがつくまでストローを噛んだまま記憶を漁り続けた。
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