【2】思い出

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「ごめん、遅くなった」  十八時四十五分、慧がやって来た。アーガイルチェックの大きな紙袋を下げ、ジェラート屋の店員に会釈をして地下道へ続く階段を下りていく。ほぼ私服で働いているらしく、タイを外した事、上着が麻のジャケットに変わった他は先程と同じ服装だった。  てっきりどこか店へ入るものと思っていたのに、迷いなく私鉄の改札へと進んでいく。 「電車乗るの?」 「うん。うち、ここから一駅だから」 「え、家飲み?」 「嫌?」 「嫌じゃ、ないけど…」  動揺を露わに出してしまったが、慧は全く気に留めずホームの階段を下りていく。 「発注ミスした店があってさー。色々買ったから付き合って」  紙袋の中を覗くと、総菜のパックが積み上げられていた。ビニール袋に包まれているため中身は見えないが、どことなくエスニックな香りが漂っている。  下り方面の電車は結構な混雑だった。慧は茜を扉側に立たせ、手摺に額をつけてもたれかかる。 「俺、夏場は家着いたら即シャワー派なんだよね。今日もそうするけど、良い?」 「良いもなにも、自分家じゃん」 「お客様を放置することになるから、一応と思ってさ」  瞳を真っ直ぐ覗き込まれ、どきりとする。  前髪がないだけでこうも印象が変わるのだろうか。見慣れない慧から聞きなれた声がして、なんだか落ち着かない。 「そういやどこの店で買い物したの?」 「えっと」  すっかり忘れてしまった。 「クッキー。ペンギンの絵が描いてあるやつ」 「ああ、南風亭か。人気の店だよ。きっと喜んでもらえる」  そう笑う姿がどこか誇らしげで、この人仕事が好きなんだろうなあ、と思った。直哉も自社のビールを飲む時、似たような笑みを浮かべるからなんとなく分かる。  最寄り駅を降りて、大通りを左へ進む。八百屋や金具屋など、新宿から一駅離れただけとは思えないレトロな店構えが軒を連ねていた。どの店もすでにシャッターを下ろしていて人通りはまばらだが、二階の住居部分からは明かりと住民の笑い声が零れ落ちてくる。  珍しく湿度が低く、さっぱりとした夜だった。薄雲の奥に光る星のように、僅かな心細さが胸奥に滲むのは、知らない町に慧といるからだろうか。 「慧って、地元どこ?」 「千葉の田舎の方」 「横浜じゃないんだ」 「なんで横浜?あ、中学か。あれはさ、受験してるから。親戚の家から通ってたんだよね。高校までお世話になって、大学からここ」 「ずっと同じ所に住んでるの?」 「駅はね。就職する時引っ越はしてるよ、超近距離だけど…ん?」  歩幅を緩め、立ち止まって目をすがめる。電灯の下、町内地図を眺めているサラリーマンが気になるらしい。  ところどころペンキが剥げた地図は遠目で分かるほど大雑把な造りで、道案内にはいささか頼りなく思える。だが、サラリーマンは奇妙な熱心さでその先の道を指でなぞっていた。  ひょっとして、不審者だろうか。電柱に貼られた「痴漢注意」の看板がどうにも目につく。 「ちょっと待ってて」 「え?あ、ちょっと!」  止める間もなく、慧は大股でサラリーマンに歩み寄っていく。蛍光灯の明かりが十分あたる位置に立つと、元気よく話かけ始めた。 「こんばんはー。なんか迷ってます?」 「え?あ、はい…」  サラリーマンは驚き半分、怯え半分といった様相で慧を見返した。夜道に突然声をかけられたのだから当然の反応だ。 「どこ行きたいんですか?」 「京王線の駅です」 「ひょっとして代々木上原から歩いてきました?」 「そうなんです、マップ見ながら…でも、携帯の充電切れちゃって」 「焦りますよねー。駅、すぐ近くですから大丈夫ですよ」  慧は店で見せていたのとも少し違う、人懐っこい笑みを浮かべて来た道をそろえた指先で示した。 「真っ直ぐ行ったら、不動産屋さんがあるんです。外にファイル棚が並んでるんですぐわかりますよ。そしたら右に曲がってください」 「不動産屋さん、右。…分かりました。助かります」 「じゃ、お気をつけて」  少し離れた場所で待っていた茜の元に戻り、また同じ歩調で歩き出す。 「なんで?」 「え?」 「どうして分かったの?あの人が駅までの道が分かんないって」 「案内板見てたし…ここから少し行くとJRの駅があるんだよ。ちょっと分かりづらくて」 「でも…」  でも、茜には分からなかった。同じ景色、人を見ていたのに。  もし道に迷っていると気付いても、声を掛けたりできない。多分そうかも、と思いながら通り過ぎるだけだ。  道案内の間、紙袋を右肘にかけていたせいか、加重で赤い線が走っていた。痛むだろうに億尾にも出さず、さも当たり前という風に笑っている。  重い荷物を持っていても、誰かのために自然と足を止める。もしあの人が不安そうにしていたら、駅まで送っていくことも厭わなかっただろう。椎名慧とは、そういう人なのだ。  だから休みの日に遺品整理を手伝う。茜に対して首を突っ込む。そこに詮索する意図や野次馬心なんてなくて、ただ、相手が困っているな、迷っているなと感じ取ったから。手を伸ばせるから。 「一個持つ」  何かしなければ、と急き立てられるような気持ちで手を伸ばす。 「紙袋。重いでしょ」 「え、良いよ。もうすぐ着くし」 「…ごめん」 「大袈裟だなあ」 「この前、急に怒ったりして、ごめん」  薄明りを灯した瞳がゆるく見開かれ、伸びる影が一瞬止まって、歩き出す。 「ラインで言ってくれたじゃん。俺、妙な雰囲気出してた?」 「違う。俺がその後、返事やめちゃったから…謝る側なのに、失礼だったなって」 「律儀だなー」  慧はどこか寂しそうに笑った。 「失礼とか思わないよ、ただ、寂しいなあとは思ったけど」  さらりと付け足された言葉に、どう返せば良いか分からず口を噤む。 「ってか、元はと言えば俺の方こそ悪かったでしょ。他人ん家の物とか事情に対して、ずかずかいったし」 「…ちょっと、気付き過ぎるなとは思う」 「はは、職業病だよね。だからさ」  慧は煌々と輝く月の下、太陽のようにからりと笑う。今宵、湿度が低いのはこの笑顔のおかげだからと言われたら、容易く信じてしまうほどの清々しさで。 「俺もごめん。これでおあいこ」 
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