【2】思い出

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 蔦の絡んだ赤レンガのマンションが慧の住まいだった。レトロでありながら、やや瀟洒な雰囲気を足した具合の建物だ。 「古い分、リノベーションが自由でさ。引越しする前に何部屋か覗かせて貰ったんだけど、アトリエにしてる人とか、壁全部ぶちぬいてワンルームにしてる人とかいて、面白かったなー」 「慧も何かしたの?」 「無理無理、金ねぇもん。前の家主が好き放題してくれたのをそのまま使ってる」  駅から近いとか、築浅とか、そういったことは慧の家探しの条件には含まれていないようだった。暮らしを楽しむためには何が最善なのか、慧にとっての基準がしっかりあって、それは利便性より大切な事らしい。  部屋へ入ると、宣言通り慧は浴室へ直行した。「好きにしてて」と言われても、他人の部屋で落ち着ける性格ではない。  だが、慧が暮らしている場所だと思うと興味が湧いた。失礼に当たらない程度に部屋を散策することにする。  天井が随分高い。奥にカウンターキッチン、反対側の壁にはメゾネットへ続く階段があった。勾配が急で、直哉の様に寝起きが悪い人は足を踏み外すに違いない。慧は朝に強いのだろうか。 「うお、スパイスの香りすげー」  キッチンで総菜を温め終える頃、汗を流し終えた慧が戻って来た。前髪を下したいつもの姿が、なんだか面映ゆい。 「ん?なに」  髪を拭くタオルの間から目が合い、慌てて視線を逸らす。 「なんでもない。これ持ってくね」 「ありがとー。茜、ビール飲める?」 「うん、好き」 「ワインは?」 「ちょっと苦手」  発注ミスをしたのはタイ料理の店だった。缶ビールで乾杯し、一つずつ箸をつけてみる。  ライムの香りが爽やかな青パパイヤのサラダ、香辛料のたっぷりかかったフライドチキン、蟹の旨味が溢れた辛い卵のカレー。馴染みない味もあったが、味蕾の一つ一つが刺激されていくようで、酒のペースも上がっていく。  慧が「絶対あうから」と勧めてきた白ワインにも挑戦してみた。ワインなんて薬臭いばかりで美味しくないと思っていたのに、相性の良さに目を丸くするばかりだ。 「もうちょいさっぱりした食い物が欲しいな」  ほぼ空になったサラダの皿をつつきながら慧が言う。 「なにか買ってくる?」 「んーん、作ろ。手伝って」  頷きざま立ち上がると、足元がふわふわして驚いた。カラーボールが敷き詰められた遊び場を歩いているみたいだ。こういう酔い方をするのは初めてで、なんだか面白い。  慧はお酒に強いようで、顔色も足取りにも変化はない。冷蔵庫を覗き込みながら、玉ねぎやトマトを手渡してくる。 「料理する方?」 「一人暮らしだし、それなりに」 「えらいねー」 「慧だってしてるでしょ」  台所に並んだ細々とした調味料を見て言うと、「あ、それ元カノの」と返されてひやりとした。 「婦人服売り場の時は全然。今は食品にいるし、勉強もかねてかな。茜は彼女に作ってあげるの?」 「いないから、彼女」  小さな嘘を丸め込んでしまったことに罪悪感を覚える。素面ならもっと違う言い方も浮かんだだろうに、元カノ、という単語に動揺してしまった。 「こういうの見える場所に置いといて、今カノ嫌がらない?」 「今は付き合ってる子いないから。ってか調味料くらい良いっしょ、茜そういうの気にするタイプ?」 「…前の恋人の匂わせは嫌だ」 「なるほど、覚えとくわ」  並んで玉ねぎの皮を剥きながら、我が物顔で鎮座する瓶の群れを一つずつ眺める。細いオリーブオイルの瓶、コバルトブルーのラベルが貼られている塩。茜が普段使っている赤いパンダの蓋の調味料は見当たらず、洒落めかした瓶たちに居心地の悪さを覚えた。  二人で立つと時々腕がぶつかった。その都度慧はさり気なく距離を取る。  無意識で、体に染みついた動きだった。きっと、彼女がいる時も、こうして並んで料理を作っていたのだ。それがなんとなく面白くない。 「直哉は全然料理しないって言ってたな」  そういえば、兄に連絡をするのを忘れていた。 「うん、しない。目玉焼きも面倒くさいんだって」 「ふーん。直哉と仲良い?」 「昔はよかったけど、今はあんまり」 「そっか」 「慧、兄弟いるの?」 「いるよ、兄貴と弟」 「仲良い?」 「俺はどっちとも喋るけど、上と下は微妙。まあ、家族っつっても違う人間だし、やっぱ相性はあるよね」  慧は硝子ボウルにオリーブオイルやレモン汁を振り入れ、ペンのように細いマドラーでかしゃかしゃとかき混ぜ始める。 茜は木のまな板の上に裸の玉ねぎを置いた。指先で転がすとひんやりと冷たい。 「四分の一で良いかな。みじん切りね」 「俺、泣かないよ」  マドラーの軽快な音が止まる。視線を上げると、思いの他真っ直ぐな瞳で見られていてじわりと体温が上がった。 「バレた?」  微笑んで片目だけ瞑る、そんな仕草が本当に様になる。僅かな緊張はすぐに霧散して、知らず内に「バカ」と呟いてしまった。 「バカはないだろ。結構辛めのやつ選んでおいたんだけど」 「古典的すぎ」   ──茜、泣かないの?  ずっと、この言葉が胸に引っかかっていた。  慧の問いかけには他とは違う重みがあったから。だから、茜の心には僅かな窪みが残った。  どんな気持ちで尋ねていたんだろう。慧の目に、あの家にいる茜がどう映っていたのか知りたかった。 「なんでそんなこと気にするの?」  茜が泣いても泣かなくても、慧には全く関係がない。そんな心を見透かしたように、慧はきゅっと眉をひそめた。 「俺さ」 「うん」 「泣き顔フェチなんだよね。…ごめんなさい、包丁握りながらその目つきはやめてください」  思いっきり足を踏ん付けてやりたい。人がそれなりの覚悟で尋ねたというのに。  場を取り成すように、慧は一つ咳払いをしてから話し出した。 「この前、茜が俺置いて家出てったじゃん」 「…言い方」 「めっちゃ直に詰められたんだよ。お前、茜に何したんだって。マジ怖かった」 「なんて答えたの?」 「ちょっと余計なこと言ったかもー、って」   兄がそこまでの反応をしたことはやや意外だったが、深堀する勇気はなかった。 「またあの婆さんに出くわしたんだって?」 「遠目から見ただけだよ。こっちには気付いてなかった。…あの人さ」  話の傍ら、野菜の下処理をすすめる。串切りにした玉ねぎの刺激が瞳に届くけれど、涙が滲むほどではなかった。 「母さんとトラブってたっぽい」 「じゃ、茜は関係ないじゃん」  玉ねぎを抑える手の力が緩んだ。 「…関係、ないことはないでしょ」 「なんで?」 「親子だし」  散らばった半透明の欠片を、焦りながらかき集める。 「別の人間じゃん」 「…そうだけど」  別の人間。  その通りだ。だから、母親が死んでも茜は生きているし、こうして慧と話している。 「茜って、泣かないよね」 「この歳になってしょっちゅう泣いてたらやばいと思う」  話しながらも互いに手は休めない。玉ねぎの欠片をさらに細かく刻み終え、流水で手をすすいだ。 「そういうんじゃなくてさー。…あ、次トマト切ってもらえる?乱切りで、デカめ」 「何作ってるの?」  みじん切りのピーマンをボウルに入れながら、慧は「サルサ」と答える。 「本当は全部細かく切って和えるんだけど、サラダっぽくして食うのが好きなんだよね」  切り終えた具材をすべて合わせて、塩と胡椒を振れば完成だった。ついでにクリームチーズを冷蔵庫から出して、再び飲み食いを始める。 「そういえば、ペンギンのクッキーってこれ合わせ?」  慧がテレビに動画配信のサイトを表示させる。ペンギンのルル。 「別に、違うし」  認めるのが恥ずかしくて否定した。 「良いじゃん、一緒に見ようよ…あ、配信期間終わってる」  子供のように口を尖らせ、リモコンを渡してくる。 「見たいのある?」 「慧が好きなやつ、見たい」  ぽろりと口から零れた言葉に驚いた。正しくは、自分の言葉の持つ温度に。  飲み過ぎてるかな。ワイングラスから一度手を離してみるものの、サルサとの相性も良く、結局また口をつけてしまう。 「俺、結構重ためなのが好きだからなー。ミスティックリバーは喋りながら見るもんじゃないし…。茜は何が好きなの?」 「アクション系」  ローテーブルに肘をつく。うっかりすると、頭の重さでぐらつきそうだ。 「カンフーパンダ、大好き」 「俺、アクションシーンが続くと寝ちゃうけど良い?」 「なんで?」 「アクションシーンって話進まないじゃん。その場で、遺体が握っていた鍵はどこどこ銀行の金庫だ!つまりあいつが怪しい!とかないっしょ。寝ても支障がないって脳が判断してるんじゃないかな」 「見終わった後、自分も強くなった気になんない?俺もあんな風になれるかなーってわくわくしないの?」 「いや、しない」 「もうジャンプ読むな」 「いた、いたたた」  頬を引っ張ると、思いのほかよく伸びた。ひんやりした肌の質感と、指の熱の対比が面白くてつい触ってしまう。 「すごい伸びる…」 「…お前さ、直と飲んでもこういう酔い方するの?」  膝が触れあうほどの距離で覗き込んでも、いつもの慧だから平気だと思った。黒目の縁が淡くにじんでいることも、目尻の睫毛が僅かにカールを帯びていることも初めて知る。そうして一つ一つ辿っていくと、やっぱり慧の事を何も知らないと思う。 「おいってば」 「う」  額を突かれて指を離す。のけぞった途端、背中に回った慧の腕に引き戻された。  鎖骨に額がくっつくと、柑橘類の匂いがした。ボディソープだろうか。 「直くんとは…」 「…うん」 「たまーに、飲むけど。でも…酔わない」  正しくは、酔えない。 「なんで」  後頭部に慧の手が添えられる。なんだこの体勢、と冷静な自分が脳裏で突っ込むが、そのまま目を閉じた。だって、気持ち良い。 「酔ったら、余計な事言いそうで、怖い」 「余計な事ってなに」  母のこと。父のこと。月森の家族のこと。  アルコールは危険だ。いつもは理性で押しとどめている言葉を口にしそうになる。  聞きたくても聞けないこと。答えを受け止める勇気もないくせに、教えてほしいだなんて、図々しいにもほどがある。 「…内緒」  名残惜しさを無視して体を離すと、ソファにもたれかかってリモコンをいじった。  モノクロの恋愛映画の上でカーソルを止める。 「おい、カンフーパンダはどうした」 「これ、母さん、好きだった」  慧は口に運びかけたクリームチーズを半分に割って、茜の口に押し当てた。 「ん」 「よし、見るか」  そのまま会話は途切れ、モノクロの映画を二人で観た。  背中の熱を逃がしたくてソファに座ると、慧の後ろ姿を眺める格好になった。形の良い後頭部に、耳がほんの少し後ろ向きについている。首はすっきりと長く、筋肉に覆われた張りのある肩が羨ましかった。直哉も同じ肩の形をしている。もう随分、触れてはいないけれど。  映画は淡々と進む。一体どこが主軸で、ヒロインは何を目的に立ちまわっているのか、茜にはさっぱり分からない。 「…つまんない」 「だよな?」  慧がワインを注ぎながら振り返る。 「ちょっと高尚すぎるよな。哲学的っつうか。まあ、ファッションの系統からしたら納得だけど」  茜は背もたれから体を起こし、慧の顔を覗き込んだ。 「…納得できる?」 「え?」 「俺、全然分かんない。母さんの好きな物、何も、一つも、響いたことない」  慧はミネラルウォーターのペットボトルを茜の頬に押し付ける。 「…飲んで」 「うん」  両手でペットボトルを包み数口飲む。慧は再び前を向いてテレビを眺めた。 「お母さん、何が好きだったの」 「なんか…ぼやっとした絵とか。サビ柄の猫。無花果。…多分、だけど」 「なんで多分なの」 「訊いたことないから」  いつも傍で見ているだけで、口に出さなかった。  母さん、何が好き?そんな簡単な問いかけすら。 「俺を…そこに、いれてくれないんだって知るのが、怖くて」  温い水が、口内に僅かに残ったクリームチーズの塩気を消し去っていく。  そんなことないよ、と慧は言わなかった。茜の言葉を否定もせず肯定もせず、ただ耳を傾ける姿に、声は明るいが、眼差しは静かな人なんだと気付く。   夜の海に似た深い藍色の眼差しに、心がほどけていく。 「父親とは、俺が小さい頃、別れちゃってて。でも、いっつも恋人がいて…月森のお父さんと結婚してからも、結局、恋人がいて」  月森の父の何が不満だったのか、茜には分からない。穏やかで教養があり、社会的な地位も備えている。結婚記念日には花を贈り、常に母を思いやっていた。 「友達が離婚したから、傷心旅行に付き合うって伊豆に出かけたんだ。そしたら、警察から交通事故にあったって電話かかってきて…病院に行ったら男の人がいた。…父さんが役員になりたての時からずっと一緒だった秘書の人で、家に食事に呼ぶくらい仲良かったんだけど、母さん、その人と…辻さんと、何年も前から不倫してたんだ。会社でどう話が伝わったのか知らないけど、父さん、地方のグループ会社に移ることになった。…役職は上がったけど、左遷だってことくらい俺にも分かる」  へこんだペットボトルを床に転がし、「母さんはさ」と言葉を続ける。もう、止めることはできなかった。 「何がしたかったんだろって、思う。相手離婚させて、再婚して。それで満足ってならなかったのかな。直くんだって、転校したり、きっとたくさん悩んだのに。父さんの職場の人と不倫するとか、もう、訳わかんないよね」  女優がスカーフを市場で選んでいる。絶対にそんなはずないのに、横顔が母親に似ていると思う自分が嫌だった。 「直とあんまり仲良くないって思うことと、関係あんの」 「ある」  スーツ姿の直哉が、大学生の直哉になり、高校生の直哉になる。ぱたりぱたりと頁をめくって、あの冬を思い返す。 「俺が中一の時、直くんが家出したんだ」  玄関のドアを開けるなり、兄と鉢合わせた。青白い顔で、おかえりも言わず外へ出て行く。すれ違いざま、薄着の背中に声をかけた。 ──外、雪降ってるよ。  返事はなかった。父の靴もない。そういえば、出張に行ってるんだっけ。  リビングに入ると、母がテーブルを拭いていた。コーヒーカップを落としたらしく、床には割れた陶器の欠片が黒ずんだ液体の中に転がっていた。掃除を終えると、母は「花野井に行く」と出かけてしまった。  夕食を作り終える頃、直哉にメッセージを送ったが返信はなかった。気を揉みながら眠りにつき、明け方、帰宅した気配に心底ほっとしたのを覚えている。 「丁度その頃からだったんだ、母さんがしょっちゅう、花野井に戻るようになったの。直くんは母さんを真っ向から問いただしたんだと思う」 「目に浮かぶわー」 「で、多分…母さんが、直くんを傷つけること言った」 「例えば?」 「わかんない。でも、母さんそういうの得意だった。絶対に言われたくない事、絶対に言って欲しくないタイミングで言うのが」 「茜もやられた?」  普段の茜なら否定した。だが、不思議なほどすんなりと頷いてしまった。  慧は前を向いているから、ばれないと思ったのかもしれない。それなのに、頷いた瞬間振り返るから焦った。 「あっち向いててよ」  今自分がどんな表情を浮かべていたのか、それを見て慧がどう思ったのか不安だった。 「なんで。俺の家だぞ、どこ見たって自由だろ」 「うるさい」  膝をかかえて両手で顔を覆う。  話し終えて一秒、すでに後悔の嵐に苛まれている。同情を引こうなんて気はさらさらない。けれど、じゃあなんで話したのかと問われれば、自分でも分からなかった。アルコールが言い訳にならないことだけは理解している。  ただ、聞いて欲しかった。慧になら、話して良いと思った。 「誰にも話した事なかったのに」  くぐもった声で言う。体中の血液がすべて顔に集まったかのように熱い。 「誰にも?」  体が僅かに傾いた拍子に顔を覆っていた手が外れた。  慧がソファに頬杖をついて茜を見上げている。至近距離で瞳がかち合い、頬の熱がまた一層上がる中、長い腕が茜の頭をわしわしと撫で始めた。 「な、なに」 「茜は良い子だなって」  揶揄いのない、柔らかな声だった。  今の話を聞いて何故そう思うのかさっぱり分からない。でも「どこが?」と訊くと褒めて欲しがっているみたいで口には出来なかった。  違う言葉を探す間に、慧は「ありがとう」と続ける。 「…なにが?」  これには尋ね返すことが出来た。 「話してくれてありがと」  まさか感謝をされるとは思わず、戸惑いながら俯く。 「…重いだけじゃん、こんな話」  ソファの布地を意味なく指でなぞる。呟いた声は、いじけ混じりに聞こえたかもしれない。 「話すの、勇気がいっただろ」 「…うん」 「俺だから話してくれたんだろ」 「そう、かな」 「そうだよ、自惚れさせてよ。だから嬉しい」  優しい声が心臓を揺らす。  自惚れさせてって、なんだ。全然嫌じゃないけど、むしろ、嬉しいけど。  嬉しいから困る。喜んでしまう自分に動揺する。  だって、そんなの、俺が、この人のこと。 「茜」  そんな切なそうに名前を呼ばないでほしい。 「こっち向いて」 「やだ」 「お願い。顔見たい」 「やだ」  首を左右に振る。息の仕方を忘れてしまったのかと思うほど、胸が苦しい。 「じゃあそのまま聞いて」 「…うん」 「俺が茜に泣いてほしいって思ったのは、茜は泣いた方が良いと思ったからだよ」  ゆっくりと慧の熱が離れていく。ほっとしたような、寂しいような、どちらが大きいか判断がつかない。 「…なんで泣いた方が良いと思うの?」  ソファから降りながら尋ねた。隣に座って正面を向いていれば、視線を合わせなくて済む。 「悲しい時人は泣くものだから。海の上に風が吹けば波が立つでしょ、それと同じ」 「悲しくないのかもしれないじゃん」 「そうかなあ」  慧は茜が飲んでいたワイングラスを揺らして言う。肩に触れるTシャツ越しの体温から意識を逸らしたくて、缶ビールのプルタブを起こした。 「悲しんでるか、そうじゃないかの判断がつくくらいには、茜のこと見てるつもりだけど」  冷たい金属の丸みに口をつける。泡を唇にまとわせただけで、上手く飲み込むことが出来なかった。  慧は、人を見るのは職業病だと言っていた。きっと、今の言葉にも特別な意味なんてない。そう言い聞かせながらも、眼差しが茜の胸の内をかき乱す。慧のつけた浅い跡がどんどん深くなり、体の奥深くまで侵食されそうで怖かった。 「あの袋ってさ」  アーガイルチェックの紙袋を指さす。その方向を追い、慧の視線がそらされる。 「何種類かあるの?俺と会った時に話してたお爺さん、別の袋だったよね」  あからさまに話題を逸らしても、気を悪くする素振りもなく微笑んでくれた。  逃げ場を持たせてくれたことへの安堵と、思い上がりじみた考えを戒める羞恥心で、頭の中がぐちゃぐちゃになる。なんでこんなこと考えちゃうんだろう。 「袋にも用途があるんだ。あの人の買い物は仏事だから、地味な袋で渡すのが正解」 「なんだ、VIPかと思った。馴れてる風だったし」 「結構長いお付き合いをしてる人だから」  そう言って、ワイングラスに口をつける。茜の唇が触れていた場所とそっくり同じ位置だと気付き、胸の奥がむず痒くなる。 「俺が婦人服から異動してしばらく経った頃に声をかけてくれてさ。名前を言うわけにはいかないから…なににしよっか」  そう言われても、頭が回らない。よちよち歩きのペンギンがぽんと浮かんで、苦し紛れに呟く。 「…ルル」 「はは。ルルさんはね、麻屋のあんみつとか、ロビンソンのサブレが好きな人に喜んでもらえるお菓子を探してるって声をかけてきたんだ」  品の良い背広に、女物の縮緬のポーチ。鶴堂に来るのは初めてのようだが、店の名前に詳しい。奥様のお使いだろうと思い、数店を案内したところ、檸檬ケーキの店を気に入ってくれた。 「食後のデザートか、友達の家の手土産を買いにきたのかと思ってたら、五千円の箱を十箱配送したいって言うからびっくりしてさ。会計の時にポーチから株主優待とか友の会とか、クーポンをわんさか出して眺め始めるんだ。今日はこれとこれ使いましょうって仕切って、ついでに併用できない優待の組み合わせとか、期限が近いものをメモに書いてポーチに添えた。奥様は全部ご存じかと思いますが、念のためって」 「そんなことまでするの?」  ルルさんはすでに買う物も決めているのだから、販売員としての役割は終えているのに。 「別に大したことじゃないっしょ」  慧はうんと伸びをした。 「その方が後々楽だろうなあ、って思ったからしただけ。ああいうのって仕組みが複雑でさ、俺も入社したばっかの時てこずったんだ」  慧らしいと思った。目の前の人の困り事に気付いて、当たり前のように手助けをする。茜と知り合うよりもっと前から、慧は慧なのだ。 「ルルさんはなんて?」  慧は伸ばしきった腕を頭の後ろで組んで、顔を仰向けた。 「ありがとう、って言ってくれたよ」 「でしょ?大したことあるじゃん」 「妻が突然いなくなってしまったから、僕はこういったことが全然分からないんだ、って」 「…え?」  慧は天井の隅、ワイングラスが作ったプリズムを見つめている。 「…いなくなっちゃったっていうのは、どっちの意味で?」 「亡くなっちゃったって意味で。ルルさんは奥様の香典返しを買いに来てたんだ」  腕をほどいた拍子に、頬にかかる髪が僅かに揺れた。茜の髪は淡い茶色で、直哉の髪は漆黒。慧は、ちょうど中間の色だ。 「内心焦ったよ。檸檬ケーキって香典返しにありか?とか、俺、一人めでたい空気だしてなかったかな?とか」 「…うん」 「お会計の間、先輩捕まえて聞いちゃったもん。今からでも海苔とか鰹節を提案した方が良いですかね、って」 「決まりってあるの?」 「四十九日を開けて渡すってことだけ守れば基本大丈夫。あとは消え物かなあ。後々聞いた話だけど、ルルさんは奥様が好きな物を送りたかったんだって」 「ふうん」  母さんの香典返しは何にしたんだろう。  葬式は身内だけで済ませたし、父方の親戚とは再婚の時軒並み縁が切れていた。香典を送ってくれる人がいたのかさえ思い出せない。あの年の春は、嵐のように過ぎ去っていったから。  荷ほどきを終える前に入学式を迎え、まだ名前も覚えきっていない同級生達と、机を並べて。  母が死んでも、当たり前に日々は続く。  夜が明けて朝が来る。桜が散れば青葉が揺れ、紫陽花が咲いて、梅雨が始まった。 「百貨店っていうのはさ」  意識を引き戻したのは、慧の体温だった。  いつの間にか茜の肩に頭を乗せている。驚いたけれど、甘えるような仕草が可愛く思えてしまい、膝を抱えたまま好きなようにさせた。 「基本、ハレの日に来る場所じゃん?結婚した、子供が生まれた…店は年がら年中クリスマスみたいにキラキラしてる。でも当然、真逆の理由で買いに来る人もいるんだ。皆その場の空気に合わせて、よそ行きの顔で歩いてるだけでさ。思ってることとやってることが捻じれたままじゃ、心って何倍もしんどくなるだろ」  慧の言葉が、一つ、また一つと茜の心に足跡を残していく。ぽん、ぽんとリズミカルに、軽やかに。 「その場で泣いてほしいとは言わないけど、悲しんでる人に、ハレの日の振舞いをさせるような接客はしたくない。その日会ったきりになるかもしれないお客様でも、しっかり向き合いたいんだ」 「…俺に泣いて欲しいっていうのも、同じ?」 「同じような、違うような」 「なにそれ」  むっとして唇を尖らせる。 「茜をお客様と思ったことはないし」  視線を逸らし、慧はゆっくりと身を起こした。耳たぶがほんのり染まっていることに気付き、茜の方が照れてしまう。 「他にも印象に残ってるお客さん、いる?」 「ん~。保育園の先生へのプレゼントを選びにきた人とか?」 「どんな人?」 「俺と同い年くらいのリーマンだよ。さんざん悩んだ後に、ツレ呼んできまーすって店を離れたんだ。薬指に指輪してたし、子供の保育園に持ってくんだろうなって思ってた。十分もしないで戻って来たんだけど、お連れさんは男性で、同じ指輪を嵌めてたんだよね」 「…わお」 「奥さんを連れてくるって思い込んでた自分の浅はかさを恥じたねー」  え、そこ?と思ったが口にはしなかった。墓穴を掘りたくなかったし、苦笑いを零す慧に見蕩れてしまったから。 「…気持ち悪いとか、引いたりしないの」  結局、言葉を変えて尋ねた。傷つく覚悟もあったが、慧は「全然」と言い切る。 「なんで?茜はひくの?」 「ひかない、けど…」 「けど?」 「…びっくりはすると思う」  担任の先生への淡い恋心が、母の再婚に伴う引越しであっけなく終わった時、自分の恋愛対象は同性なのだと気付いた。  カミングアウトはしていないし、するつもりもない。女の子二人は風景に溶け込めるけど、男はどうしたって浮いてしまうから、もし恋人が出来ても堂々と百貨店で買い物は出来ないだろう。周囲から向けられる視線を気にせずにいられる程、おおらかな性格ではなかった。 「まーマイノリティではあるけど、好きになっちゃったら男も女も関係ないでしょ」 「そうかなあ…」  少なくとも、茜は女性に性的な欲求を抱くことは出来ない。友人が当たり前に振る恋話を躱すのも四苦八苦している。 「別館の方行ってみた?」 「ううん」 「あっちってメンズ専門店なんだよ。だから男性同士のカップルがデートに来るんだ」 「ああ…」  木を隠すなら森の中、というわけか。 「婦人服の時応援に行くことも多かったから、交流も生まれるじゃん?だからあんま抵抗ないんだよね、俺」 「じゃあ、男の人好きになったこと、あるの?」  後先を考えない質問だった。問い返されたらどうしようと焦る間もなく、慧が答えてしまう。 「あるって言ったら、どうする?」 「え?」  声音は変わらない、けれど、雰囲気が違うと思った。揶揄いや試す気持ちは一ミリもなく、まだらな雨露に濡れた紫陽花のように、幾重もの色が混じっている。  中途半端に投げ出された指先に、慧の手が触れた。人差し指と、中指の爪同士。  関節一つ動かせば離れられる距離だった。そうするべきだと思う。見つめ合っていてはいけない。それなのに。  もう少しだけ近付いたら、この人はどうするんだろう。  猛烈に知りたいと思った。人の心を何もかも見透かした上で、向き合うことを恐れない慧を試したい。でも、そんな事をすれば取り返しがつかない気がして怖い。思いとは裏腹に、縫い付けられたようにその場から身動きが取れない。  慧が手を伸ばす。当たり前にキスはされなかった。ただ、頬を撫でられた。一回、二回。  全身の血がさざめくような、濃密で、繊細な動きだった。嫌だなんてちっとも思わない、それどころか、もっと、と願ってしまう自分がいる。  着信音が鳴りだすのがあと数秒遅かったら、絶対に後悔する言葉を口走ってしまうところだった。 「…出ないの?」  慧の鞄から音が鳴っている。 「出た方が良い?」  低い声に揺らぐ心をせき止めたのは、視界の隅の買い物袋だった。もし仕事先からの電話だったら、邪魔は出来ない。  掌をきゅっと握って、俯いたまま頷く。  慧は数秒黙ったあと、茜の頭を乱雑に撫でて電話に出た。 「もしもーし」  漏れ聞こえる低い声にはっと面を上げる。──直哉だ。  携帯を確認すると、着信が一件、ラインが三件。やってしまった。 「うん、一緒。おれん家。えー…あ、そうなんだ、お疲れ。うん。……いや良いっしょ、もう時間も時間だしさ」  話しながらクローゼットを開き、バスタオルやTシャツを引っ張り出して放り投げてくる。順番にキャッチすると、指先で廊下に続く扉を指さした。 「明日遅番だし、全然良いって」  風呂場に駆け込むや否やシャワーのコックを捻った。瞬間、激しい鼓動を自覚して、まだ温みきってない水を頭から浴びる。  なにあれ。なにあれ。なにあれ。  丸めた背中を打つ湯の温度は決して高くないのに、当たった傍からじゅうじゅうと蒸発させてしまいそうだった。  さっき、もし電話が鳴らなかったら。電話に出ないでって言ったら、慧はどうしてたんだろう?俺はどうして欲しかった?  意味深な眼差しや触れた指の感触を思い出す。酔っただけ、ただの悪ふざけ。その方が助かると考えてしまう自分は、ずるいだろうか。  そもそも、男を好きになったことがあるって…言ってないか。それならどうするって訊かれただけだ。  台所の洒落た調味料が湯気の中に浮かぶ。女の子と並んで料理を作っている慧を想像したら腹が立って、打ち消すようにボディーソープのポンプを連打した。  手をすり合わせ、過剰な液体で弱々しい泡を作り出す。ミントとオレンジが混ざった香りは、さっき慧から漂っていたものと同じだった。変な事を考えないよう慎重に、いつも通り、首、肩と撫でていく。  二の腕についた痣も大分薄くなった。泡に包まれればほぼ見えなくなる。慧と初めて会った日についた傷跡と思うと、消えてしまうのが名残惜しかった。  江間が襲ってきた理由を隠そうとしたら、諫めるように向けられた視線。茜が尖った感情を向けても、からりと笑いかけて寄り添い、知らずぶしつけな物言いをした友達を諫めてくれた事。  どれも茜には出来ない。構わないでくれと示唆されれば、ただじっとしているだろう。友達が誰かを傷つけても波風を立てずに場を納める手腕もないし、自分の思いを正確に伝えられる自信もなかった。  一つだけできた大きなシャボンをつつく。無音のまま弾け、ふわりとオレンジの残り香が漂う。  もう終電は間に合わないけれど、タクシーなら捕まえられる。シャワーを浴びて寝間着まで借りながら、帰る方法を探すのは矛盾以外の何物でもなかった。  二人の会話が盛り上がってることを願った。散々馬鹿話をして、さっきまでの空気をかき消しておいて欲しい。  そうじゃないと、また、あの感情が胸を満たして、口から零れてしまいそうになる。  
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