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【1】泣かない子供
柱の傷はおととしの。そんな歌を昔習った気がする。
大学生になった今も、音楽室の僅かに甘い木の匂いや、窓硝子越しの光は覚えている。歌詞やメロディーは曖昧なのに、聴覚よりも、視覚の方が記憶に残りやすいのだろうか。
身長を柱に刻む、翌年もまた。茜もやってみたかったけれど、頭のてっぺんに印をつけるのは自分一人じゃ出来ないと気付いてがっかりした。
母さんに手伝ってもらったのかな。
ふと浮かんだ考えに苦笑いを浮かべる。そんなわけない。あの頃にはもう、彼女に母親らしさなど期待していなかったのだから。
「茜、これどうする?」
男の澄んだ声と共に、視界を薄黄色の光が覆う。あの日の陽光ではなく、シルクの布が目の前を遮断しただけだ。
「イニシャルが入ってるから、買い叩かれちゃうと思うけど。柄も数年前の流行りだからなー」
「慧さんの好きにしてください」
布をかきわけ、出来るだけ平坦な口調で返す。端正な顔立ちの青年が目を丸くしていた。
「お母さんの形見なのに?」
「他にいくらでもあるので」
リビングに散らばる衣服や小物を見渡し、慧は「まあ、確かに」と同意する。
部屋の真ん中には「いる」「いらない」と書かれた段ボールが一箱ずつ。未だ「いる」に納められた品物はない。茜はバニティバッグを拾い上げ、「いらない」に入れた。
「え、それも?」
「使いませんから」
会って数時間の相手だ。どんな態度で接すれば良いのか分からず、つい必要最低限の言葉数になってしまう。
この家を売りだしてしばらく経つ。なかなか買い手がつかなかったのに、いざ決まると物事が動くのは早かった。
二か月後には新しい住人に引き渡すと言われ、家財道具の処分のため週末の度に足を運ぶこと数回。猫の手も借りたいとぼやいていた兄が連れてきたのは、夏の日差しをぎゅっと凝縮したような、明るい笑顔が眩しい大きな猫だった。
頼みの綱である兄は、「中学の同級生。暇人」と紹介したきり、どこかへ出かけてしまった。コンビニなら車で数分の距離にあるが、未だ帰ってくる気配はない。
「じゃ、これは一旦保留ってことで」
慧は段ボールを組み立て、側面に「保留」と書いて丁寧にストールを仕舞いこんだ。兄と同じ二十五歳のはずだが、外見も動作も若々しかった。
黙って次の品物の検分を始める。赤い硝子が土台になったアルコールランプ。イチゴ飴のようなとろりとした光を手に透かし、「いらない」に置いた。母が気まぐれに買い集めた宝物は家のあちこちから掘り起こされ、全てこの箱の中へと消えていく。
「慧さんって」
「慧で良いよ。敬語もなし」
「…この近くに住んでるんですか?」
後半は聞き流すと、慧も当然のように、「いや、東京だけど」と続けた。
「なのに、わざわざ?」
「お前の兄貴が頼み事すんの珍しいからねー」
それだけで足を運ぶものだろうか。茜も家は都内だが、ここに来るまで二時間半はかかる。
「それに結構良い所じゃん。マディソン郡っぽい」
「どこですか」
「アメリカのアイオワ州」
縁も所縁もない。
「とうもろこし畑が一面広がってんの。のどかで良い場所だよ」
「ここら辺の畑は全部さつまいもですけど」
「あ、あれさつまいもか。ってか映画だよ、見たことない?マディソン郡の橋」
「いえ」
慧は革のショルダーバッグを検分しながら「見て損はないよ」と言う。
「不倫ものなんだけどさ、名作なんだよね」
カチリ、と鞄の留め具のはまる音が響く。だから、茜が僅かに力を込めた拍子に、指の関節が鳴った事にも気付かれなかったと思う。
他意はない、はずだ。兄が月森家の込み入った話を漏らすとは考えにくい。ましてや、そんな人間を遺品整理に付き合わせるはずもない。
些細な動揺がじわじわと広がり、段ボールに放り込んだブローチが跳ね返って膝に落ちて来た。自然な仕草で拾ったつもりだけど、視線の在りかを探ってしまう。
一度意識してしまうと駄目だった。慧の明るい声も、リビングに満ちる甘い木の匂いも、母の残物も、全て蔦のように纏わりつき、地中に引きずり込まれそうになる。
じわじわと広がる焦り。知っているんだぞ、と無言で責められているような。
表に面した窓から物音がした時、茜は目を伏せたまま立ち上がった。
「直くんかな?」
大学で演劇部に誘われていたけど、断って正解だった。三文芝居にも程がある。
スニーカーをつっかけて玄関扉を押した。一刻も早く外の空気を吸いたかった。家中の酸素を慧がすべて奪ってしまったように、吸っても吸っても息苦しい。
「…あれ?」
眩しさに、掌で庇を当てながら左右を見渡す。駐車場に兄の車がない。じゃあ、さっきの物音は一体?
私道と砂利道の狭間に、見知らぬ老女が立っていた。杖を片手に、皺の寄った目を真ん丸にして茜を見つめている。
「…こんにちは」
軽く頭を下げて挨拶をすると、女性がよたよたと近付いてきた。危なっかしい歩き方に、咄嗟に体を支える。抹香の薬っぽい匂いがサマーニットから漂っていた。
「あんた」
「は、はい」
顔を近付けられ、反射的に背中を反らして距離を取る。
一瞬後、眩しさを忘れた。杖をふりかぶったからだ、と気付いた時には、腕に鋭い痛みが走っていた。
「どの面下げて、この、疫病神!」
「いたっ」
後ろに下がると、支えを無くした老女がよろめく。支えようと伸ばした指も再び杖が打ち付けられ、また距離を取った。
「帰れ、出ていけ!」
「ちょ、ちょっと、危ないから、やめて!」
杖はリーチが長く、茜の手の甲を激しく叩く。
「出てけ、消えろ!」
「やだ、怖いってば!」
「また嘘つくのかい深雪!」
「え?」
どうして母の名前を?
思わず顔をガードしていた腕を下すと、一層強く杖が打ち付けられた。この一発はかなり効いた。骨まで響く痛みにうずくまると、背後から物音が聞こえる。
「何騒いでんだお前……って、え?」
慧は杖を振りかぶる老女と茜を見比べると、獣のような俊敏さで茜の前に立った。
老女は突然現れた慧にひるんだのか、背中を向けて歩き出す。後を追おうとする慧の腕を力一杯掴むと、邪魔をするなと言わんばかりに見下された。顔が整っている分、迫力がすごい。
「良いから、放っといてあげて」
痛みに顔を顰めながら言うと、慧はしゃがみこんで茜の腕に触れた。
「良いわけないだろ。知り合いか?」
「早く、家入ろ」
慧は不服げにため息を零してから、玄関扉をあけて茜の背中を押した。無言のままリビングに戻ると、素早く二の腕を露わにされて驚いた。
「ちょっと」
「折れてないよな?」
「平気平気」
眼差しの真剣さを柔らげたくて、「ほら」と腕を上下にして揺らす。
「馬鹿、動かすなって。知り合いなのか、さっきの人」
「いいえ」
後々嘘になるかもしれないけれど、今はそう答える他ない。
「ここに住んでたの、小三までだから。知り合いだったとしても覚えてないんです」
つい言い訳を足してしまったのは、怒りと心配が混ざった口調に、居心地の悪さを覚えたからだ。
「警察」
「大袈裟」
「どこが。立派な傷害事件だぞ」
「ちょっと!」
携帯を取り出す姿に焦って声を上げる。だが慧は一切ひるむことなく、携帯を耳に当てて「もしもし、直哉?」と話しだした。
電話の相手が兄だと知ると、別の不安が胸をよぎる。
「お前なにしてんの?…うん、いや良いけどさ、近くにドラックストアない?買ってきてほしいもんがあるんだけど。馬鹿、湿布だよ。…そう。茜が怪我したから…」
咄嗟に慧の右腕を掴む。
慧が何事かと茜を見下ろす。お願い、と声には出さず伝えた。
直くんには、言わないで。
唇の動きだけで、慧は察してくれたようだった。赤く腫れた手の甲に自身の手をそっと重ね、会話を続ける。
「いや、知んない。…えー、今さっき会ったばっかなのにそんな距離詰めらんないっしょ」
安堵しながら指を離すと、慧のシャツの袖に皺が寄ってしまっていた。気まずさに、そっと生地を伸ばしてみる。
その仕草を見て、慧は小さく笑ってくれた。
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