九話 束間②

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九話 束間②

 薄闇の中、スクリーンの明かりだけが自己を主張している。空間を縦横無尽に駆け回る音は、心地よく耳に響いた。  今日は珍しく静かだった。休日の劇場は誰かしら喋っていたり、携帯端末を使う者がいたり、と上映中にも関わらずマナー違反の祭り騒ぎになっていることが多かった。  いま場内を満たしているのは、音響から出る音、そして隣の席から絶えず聞こえる咀嚼音だけだ。  二階堂、椎倉、イブ。  あらゆる売店のメニューが三席に渡って並べられている。多種多様な品の匂いは辺りを蹂躙し、それは他の席にも行き届いてしまっている筈だ。  心底から嫌う劇場のマナー違反者。それを身内から出すなどと。  諦観してスクリーンに集中することを決めた。映画が面白ければ、売店で全品目を注文した時の羞恥心も消えてくれるだろう。  しかし映画の出来には、あまり期待できそうになかった。  長大なスクリーン上では、巨大怪獣とその防衛隊らしき人員らが映り踊る。  倒壊した建物に巻き込まれて一般人は次々と死に至り、隊員の数も徐々に削られていった。偉い方はその惨劇を知り、会議室で檄を飛ばし合っている。それらの描写が交互に切り替わり、時おり挟まれるのは、隊員同士の恋愛模様、吊り橋効果。場違いな接吻。  どうにも感情移入ができなかった。誰かを好きになったこともなければ、好きになるつもりもない。恋慕の感情を向けられたことは何度かあるが、応えたことは一度もない。  誰かと友人を超えた関係になる。そう自覚させられる感情を向けられると、いつも怖気を感じた。寒気がした。気色が悪くて胃から酸が込み上げた。  (まこと)の死を土台にして築く、自分の幸福を想像するだけで、気が触れてしまいそうだった。  だから、怪獣の破壊が与えるインフラや財政への影響、それと法的措置のあれこれを架空の登場人物を通して楽しむくらいしかなかった。が、これもいまいち心に響かない。  現実の世に蔓延る霊的存在と比較してしまうからだった。あからさまに街を破壊して回る怪獣に、悪意は感じられない。ただ、そういう存在だから破壊する。怪獣の意図はそれだけだ。地球は決して人類のものではないのだから、侵略されることにある種の納得を感じてしまう。  ──対して、受動的怪異はどうだ。  彼らは、星に跋扈する人類を間引くために生まれる。と、井上円(いのうえまどか)は言ったが、それにしては怪異に悪意が介在し過ぎている。  その悪意も効率的に人類を駆逐するためだと氏は言うが、間引くだけなら他にも有効な手段はあるだろう。  例えば、怪異の被害が少ない国で起こる地震と呼ばれる災害。やはり怪異の発生が少ない場所で起こる疫病。それらに手段を絞った方が効率的だろう。  何故、星は人の認識を汲み上げてまで怪異を再利用するのか。わざわざ悪意を持たせて人を殺すのか。  災害による被害ならば、人は前に進むことができる。仕様がないことだと腑に落とすことができる。前に進めることができる。  対して怪異被害を受けた遺族は、関係者は前進できない。感覚としては殺人犯による理不尽な犯罪に巻き込まれたのと、あまり変わらないからだ。  ──いや、それよりも質が悪い。  怪異に襲われた人間は原型を留めていないことが多い。場合によっては身元の特定が困難だったり、神隠しに遭ったようにこの世から存在ごと消えてしまったり。過剰な悪意を以て蹂躙される。そして怪異は、それを楽しんでさえいる。  だから映画を楽しめないのは、二階堂の性質に依るところが大きかった。胸の裡で嘆息して、目薬を差した。 「つまんないっスねえ、これ」  突如、軽薄そうな女の声が背中を叩いた。  肌を舐める紫電の感触を自覚する。  人々が次々に昏睡していく。  瞬時に背子からの紫電を受けて、隣に座るイブの手を掴んだ。次いで背子へ合図をして彼女を楔の世界に送る。力が制御されているイブは戦力外だ。  視線だけを泳がせて、辺りを観察。いつの間にか、左右の通路では怪異が列を成していた。あまりに数が多い。王女で一息に消す他ない状況だったが、超人との戦いで彼女は疲弊していた。頼ることはできない。  まさか、こうも早く見つかるとは。 「確かに。現実の超常現象の方が、よっぽど非日常的で恐ろしい」  声を張って言葉を返した。 「そうそう」  小馬鹿にしたような調子で女の声が続く。 「怪異と隣り合わせの現代人が、どうして怪獣なんかに興味を惹かれるんスかねえ。理解できません」 「自然災害が自分の身に襲いかかるなんてあり得ない。心のどこかではそう思っているからだろう」  結局のところ、頻繁に出現するわけではない怪異など、非日常に数えられない。  人間は図太い動物だ。怪異を自然災害と同列にして、被害に遭うまで知らず顔でいられる。その図太さを以て人間は繁栄した。挙げ句の果てには霊能という才能を生み出し、星の恒常性さえも武器にした。 「そうッスね。だから死ぬ。そんな誰かを助けて、無秩序に他者の人生を背負うのは、辛いと思いませんか」 「自分が救う側の霊能だとでも?」 「どうやらそうらしいッスよ──」  女は他人事のように言った。 「──箝口令を破る怪談師の捕縛が家業ッスから」 「だから兵力はあればあるほど良いわけだ」  通路を占拠する怪異を見やった。それらは微動だにせず、見事に統制されている。 「連中は割と抵抗してきまスからね。口を揃えて自然の間引きを享受しろとかほざいて」  スクリーン上で怪獣が雄叫びを上げた。 「……世間話はそれくらいでいいかしら」  椎倉が苛立ちを隠さず口を挟む。 「気絶してないってことは、あなたも霊能だったんスね」 「目的はイブなんでしょう?」 「は? 誰ッスかそれ」 「(そら)から落ちてきた怪異のことよ」 「名前なんて付けてるんスね」  背後の女は心底から呆れたといった調子で続けた。 「あの仲睦まじそうにしていた女性が」 「別に仲良くしてたつもりはないわ──」  椎倉は至極冷静な声で、 「──やるなら早くすれば?」  女を挑発した。 「いえ。私がしたいのは話し合いっス」  会議室の偉い方は小難しい顔をして、未だに話し合いをしていた。戦場は戦火に包まれているというのに。 「異物を──イブちゃんでしたっけ。渡してくれませんか」 「話し合いで折れる程度の覚悟だったら、こんな分の悪い賭けはしてねえんだよ」 「死んだら元も子もないっスよ」  愛を確かめ合った隊員の一人が、流れ弾に当たって斃れた。 「今のコイツが死んだら、イブは永遠に幽閉されるわ。それはあんたも困るでしょう」  遺された一人の慟哭がこだまする。 「幽閉されるって何処に」 「教える義理はねえな」 「厄介っスねえ──」  左右の通路で待機していた怪異が、大挙して一歩を踏み出した。 「──それがハッタリだと断定できない限り、私には手が出せません」 「でも、痛めつけることはできますし、どちらさんかは知りませんが、片割れの人は殺しても構わないわけですから」 「脅しのつもりかしら」  椎倉がわざとらしく嘆息した。 「この状況でも強気なのはアレっスか──」  怪異が更に一歩を踏み出した。通路が完全に封鎖される。 「──黒いキャップに八重歯の人」  ほとんど名指しに近い形で呼ばれて、表情筋が痙攣する。 「あなたが子飼いにしている浮遊霊を打ち消す怪異が居るからっスか?」  どうやら背後の霊能は王女の存在を知っているらしい。が、別段驚くことではない。浮遊霊の消去はイブを巡る争いの中で散々披露してきた。その上、王女には過去何度も頼ったことがある。それを誰かに目撃されていたとしても何ら不思議ではない。  問題なのは、それを知った上で、何故、間合いに入ってきたのかという方だ。  答えはすぐに返ってきた。 「別に使ってもいいっスよ。有効範囲がどれくらいかは知りませんが、打ち消せてもせいぜいがこの劇場分くらいでしょう」  女の予想は当たっていた。正確には、劇場よりも更に狭い範囲しか打ち消せない。そもそも王女は疲弊していて、呼び出せない。無理に顕現させれば、存在力が尽きて消滅してしまうだろう。それを一番理解している王女が力を貸してくれることはない。 「怪異は劇場の外にも、各階にも、サノバの外にも待機していまス。あとは言わずとも」  消去されなかった怪異を呼び出されたら終わりだ。言外の意図を察した。浮遊霊の消去はやはり諸刃の剣で、紫電を使えない無防備な状態で怪異と対峙するのは自殺行為に等しかった。  接近戦に持ち込み、速攻で本人を無力化させる以外に道はないだろう。持ち前の膂力を以て、瞬時に女を気絶させる。  失敗すれば敗北は必至。脳裏で動きの予測を行った。  紫電の強化を限界にまで引き上げて瞬時に振り向き、女の所在を確認。  明らかに昏睡していないのが居たら、それが該当の霊能だ。座席の踏み越えて接近し顎を狙う。本人を気絶させれば自ずと怪異も消えるだろう。  相手の距離にもよるが、声の反響から推測して、そう遠くはないと感じていた。おそらく五秒もあれば十分な筈。  合図はしない。警告もしない。視界は急転し、背後の光景を映した。昏睡していない霊能と思しき人物を探す。  しかし。  該当する人物は一人も見当たらなかった。  怪異のうち一体が、女の声で喋る。 「……わざわざ現場に行くバカが、何処に居るんスか」 「……それもそうだ」 「交渉決裂ならそれでもいいっス。他にもやりようはありまスから」  怪異が一斉に動きだした。 「何やってんのよ、筋肉女!」  紫電を纏った椎倉が叫ぶ。 「いいから動け、根暗泣き虫!」  怪異は見事に統制されていた。昏睡する観客には被害が及んでいる様子は見られない。  紫色の老婆を殴り倒し、包帯で全身を包んだ男を蹴り飛ばした。  波のように迫る怪異の群を各個撃破するのは現実的ではない。紫電を暴発させて、腕や脚に纏わりつく怪異を吹き飛ばした。観客の何人かが、その煽りを受けて宙を舞う。  このままでは死傷者が出る恐れがあった。 「根暗、とにかく外に出るぞ」  足場も視界も悪い劇場では不利だった。 「言われずとも」  背中に椎倉の声を受けて、通路に飛び出す。  襲い来る多種多少な怪異の間隙を縫い、劇場を出る。と、視界は明るさを取り戻し、当然のように構える怪異の集いを捉えた。 「背子……!」 『こっちにどんどん寄越せ』  除霊は背子の役割だった。経路を通じて怪異を次々と背子の下へ送る。  怪異に触れては送り。触れては送り。繰り返しながら売店の前に到達した。   券売機広場でも人々は倒れ伏していた。おそらくサノバ中が同様の状況だろう。 「ここを戦場にする腹積りらしいわね」  椎倉が追いついてくる。 「とにかく本体を見つけるしかねえな」 「アテがあるの?」 「いやない。虱潰しに探す」  追跡してきた怪異に触れて、背子の世界へ送りながら答えた。 「あったま悪──」  椎倉は口をへの字に曲げて毒を吐くと、 「──まあそこは任せない」  鼻を鳴らして言った。 「お婆様」  椎倉は両手を合わせると、ぶつぶつと譫言のように何かを呟き始めた。 「その状態、しばらく続く感じか?」  撃ち漏らした怪異を背子の下へと送りながら椎倉の準備が整うを待つ。晴明の時と同じく降霊を試みているのだろう。 「状況は理解している」唐突に椎倉が口を開いた。  姿は変わらず彼女そのものだったが、纏う雰囲気が先刻までとはまるで違う。湛えた笑みはどこか不敵で、細められた瞳には積年の経験が宿っているように見えた。 「二階堂とやら」  椎倉の姿を借りた誰かに名指しされる。 「お前のやり方じゃあ本体は見つけられん」 「じゃあ、どうすれば」 「怪異を撃破し続けろ。儂みたいな能動的な霊とは違い、受動的怪異は使い回しが利く」  椎倉の裡に居る者は、屈伸したり腕を回したりしながら続けた。気泡の弾ける小気味の良い音が響く。 「つまりは本体に戻る。その経路を辿れば特定は容易だ」  曲げられた椎倉の首がぱきぱきと鳴った。 「除霊とかできねえんだけど」 「馬鹿モンめ。除霊したら戻らんだろう。撃破して術者の下へと戻さないかん」  受動的怪異の撃破。それは言葉ほど容易なことではなかった。これまでも怪異排除の依頼は背子頼りだった。彼女の世界へと怪異を送る。それが対怪異の基本姿勢で、純粋な撃破という非効率的な手段は採ったことがなかった。何せ背子と対峙させてしまえば、この世で彼女に勝る者など居ないのだから。それが対怪異の最も有効的な手段だった。  しかし。 「……やるしかねえか」  エスカレーターの狭い空間から大挙してくる怪異を見て呟いた。  押し出される心太のように溢れるそれらは一体いったいが人を間引いた過去を持つのだろう。 「無論、儂も手伝ってやる。それに全部を撃破する必要はない。適度に倒して、意図を術者に悟られんようにしろ」 「因みになんだが、この会話を聞かれているリスクは?」 「知らん。その時に考えればよかろう」  会話はそこまでだった。  やがて広場は怪異で埋め尽くされ、異形の咆哮で満たされた。  そこには笑いがあった。嗤いがあった。微笑いがった。誰も彼もが下卑た笑みを浮かべていた。  胸の裡がおそろしく冷えていく。  怪異とはどこまでいっても相容れない。所詮は悪意を以て人を間引き、果てには消えるか、今こうしているように霊能の傀儡になるか。二つに一つしか選べない下劣な怪物に与える情など一切ない。  単純に襲いかかってくる怪異は、背子の下へと送り── 「手を貸してくれんかね」  乳母車を引いた老婆が訊ねてくる。 「手は渡せない。明日、執筆に使うから」  答えると、老婆は唖然と口を開いた。  紫電を手に集中させて、老婆の顔を掴む。怪異を成す繊維を一つひとつ解いていった。初めて試みる手法だったが、上手くいったようだ。老婆は弾ける紫電の中で、慟哭を響かせながら霧散していった。  ──対処できそうな個体は退治した。  しかし一筋縄ではいかない。怪異の繊維を解いている最中は隙だらけで、その間は何らかの攻撃を受けざるを得なかった。買ったばかりの夏服は破れ、紫電の防護を越えた魔手は肌を切り裂いた。鮮血が迸る。  二体、三体を撃破したところで、椎倉の裡側に居る者がかかと笑った。 「拙い。拙い。拙いのお。二階堂とやら」  場違いな喜色をはらんだ声が広場に響く。 「強力な個を持つ大怪異はそうもいかんが、脆弱な個体ならほれこの通り」  機を窺い声の方を見やると、裡に居る者はナイフで怪異の喉を心臓を抉っていた。一般人にはおそらく不可視だろう赤い飛沫が辺りに舞う。それにしても末恐ろしく油断ならない女だ。ナイフを隠し持っていたとは。 「人の認識を汲み上げた故に、人と急所は同じさね」  初めて知る事実に瞠目しつつ、彼女に倣い怪異の一体、その急所を手で貫く。  と、胸に風穴を開けた女の怪異がたちまち霧散した。 「うわホントだ」  問いかけをしてくる性質の怪異は、対処可能な場合を除き、出来得る限り背子の世界へ送った。回答を誤ると、怪異の持つ法則に巻き込まれかねない。  しばらくの間、そうして怪異を退治して回った。時には切り傷を貰い、時には強烈な打撃を受け、時には噛まれたりしたが、果たして、広場の怪異を全て退かせるに至った。  やはり一般人への被害は皆無だった。  冷酷な霊能にしては妙に配慮が行き届いている。思わず舌を打った。胸の中に忌避したくなるような感情が渦を巻く。 「そんで、場所は、わかった、か?」  息も絶え絶えに訊いた。 「三階の何処か。近づけば、もうちょい詳細にわかると思うがの」  対する裡に居る者は、息切れ一つ起こしていない。小児的な悪態をつく女だが、やはり能力は一級品のようだった。 「よし、行こう」  先刻まで怪異が飽和していたエスカレーターから階下へと降りた。  道中、立ち塞がる怪異を撃破しながら、該当の階に辿り着く。眼前にはブティックが構えられていた。右手にはエレベーター、左手には雑貨屋。やはりどこかしこにも人が臥せていた。 「……んで、場所は」  咥内に溜まる痰を飲み込んだ。 「厄介だの」 「は?」 「彼奴(きゃつ)め、気付きおったわ」  無言のまま続きを促す。 「怪異を使い捨てにする方向に切り替えたようでの。経路が辿れん」  裡に居る者は椎倉の顎を撫でながら、眉間をきつく絞りこんだ。 「まあ、フロアがわかれば十分だ」 「アテがあるんか」 「拙いなあ、婆さん」  意趣を返しつつ、口角を上げた。 「人は無意識に自分を守ろうとするもんだ」  霊能と対峙した過去は、一度や二度ではない。その中には、怪異を操り本人は身を隠すというケースもままあった。そういった場合の対処として最も有効な手段。それは敢えて怪異の守りが厚い方向に向かうというものだった。  手駒頼りの霊能は、接近戦が不得手でかつ臆病だ。身を隠す場所が露呈すれば戦況は一気に傾く。それだけで戦意を喪失する者さえ居た。手駒を配置するということは実のところ、隠れているようで自ら場所を教えているようなものだ。経験上、遠方から怪異を操ることができる霊能は稀で、これだけの数を揃えたとなれば尚更、術者の距離は近いと思われた。  眼前のブティックに跋扈する怪異を背子の世界へと送りつつ数を確認。三体。  左手の雑貨屋を見やる。フロアの三分の一ほどを占拠するテナントは確かに広いが、配置された怪異の数が極端に少ない。わざわざ向かうまでもないだろう。  エスカレーターの位置する中央広場に並ぶ服飾雑貨に移動し、怪異の数を確認。おそらく六体程度。これではまだ少ない気がする。  更に西の方へ進み、サノバキッチンと呼ばれる飲食エリアに足を踏み入れる。 「ここだ」確信が走った。  フロアの角を占拠する形で複数のテナントが入ったその場所には、十を数える怪異がひしめいていた。あからさまに過ぎて呆れる。 「なるほどな。犬みたいな奴だの、お前」  裡に潜む者も理解したのだろう。どこかで聞いたことがあるような台詞を吐き、得心いった表情で頷いた。  あとは昏睡していない女を見つければいいだけだった。あるいは、怪異を通じて女の声で喋らせていただけであって、男かもしれないが、どうであれ見分ける他ない。  邪魔をする怪異は背子の世界へ送り、裡に居る者はまるで獲物を解体するような手つきでナイフを振るった。  ガラスを通して、店内を舐めるように見ていく。その中はどこもひどい有様だった。皿の中に顔を突っ込んだまま白目を剥く者や椅子から倒れている者。盆を持ち立ったまま気を失っている者さえ居た。  誰もが動かず、まるで時間が停止したかのような現状は、最初から全員で示し合わせてそうしているかのような錯覚に陥らせる。  キッチンフロアの怪異を全て排除し終えた頃。丁度足を止めた店先で立ち止まった。  赤文字で『イタリアン』、黒文字で『パスタひとさら』と書かれた看板が掲げられた店内。そこには列を整理するためのポールが幾つか立てられていて、赤いテープが規則正しく巻かれていた。セルフサービスで料理を供され列を出て、奥のテーブル席で食事をする形式のものだ。  辺りに散らばったパスタやドリンク類を踏まないようにテーブル席へと向かい、霊能らしき人物がいないか瞬時に見渡す。  ずるずる。  聞こえる筈のない音を耳朶が捉えた。脳裏を過ったのは、誰かしらが麺類を啜る姿。ここはパスタ屋なのだから、啜られるのは当然パスタであって、気絶せずそれができるということはつまり、店内には霊能が居ることを暗示していた。  視界の端で影を捉える。 「まさか──」  影は言った。 「──こんなに早く見つかるだなんて。流石は絵梨花先輩を倒した奴っスね」  軽薄そうな話し方。劇場で聞いた女の声そのもの。視線の先に座っているのは間違いなく。怪異をけしかけた術者本人だろう。  足を組みパスタを頬張る黒のジャンパースカートの女は、視線をこちらに向けることもせず悠然と座している。 「絵梨花ァ? 誰だよそれ」  物怖じしていないことを示すために、語気荒く返し笑みを浮かべる。それは強がりではなかった。対面で甘く見られれば相手に余裕が生まれ、対して自分は緊張に呑まれることになる。余裕は隙を生むこともあるが、大抵の場合は戦局を冷静に分析する目となり、自分に不利となる。余裕綽々に構えることは二階堂なりの生存戦略だった。 「知らねえとは言わせねえよ」  突如として口調の変わった術者の女は、ようやく視線を上げた。鋭い眼差しが刺さる。広い額に粒のような瞳。可愛らしい顔に反して、口から飛び出した声には尋常ではない敵意が宿っていた。 「軒下絵梨花。あんたがボコした人の名だ」  言われてすぐさま脳裏に浮かぶ。糸目の虫使い。軒下の才女。 「アイツ、そんな名前だったんだ──」  おそらく偽名だろうが。 「──そんで、お前は軒下の身内か?」 「後輩」 「あっそう」投げやりに言って距離を測る。  既に紫電を纏った身体。強化された膂力は瞬きの間に女との距離を詰められるが、それは相手も予測している筈。持ち前の移動速度は常人では捉えることは困難で、霊能だろうと振り切れる自信がある。それでも動き出すことができなかった。劇場での対峙から続き女の余裕からは、揺るぎない自信が感じられた。  気づけば背中には汗が滲み、冷房で冷えて気色悪いシャツとの張り付きを殊更に意識させた。汗が傷口に染みて、身体のあちこちで痛みが走る。  ふと袖を引っ張られた。  悠々と座したまま口元を拭う女から視線を外さず、 「なんだよ」  訊いた。  裡に居る者は小声で「影」とだけ答えた。  何かに気づいたのだろう。目を泳がせてそれらしきモノを探す。在った。  座る女から伸びる影は、異常な色をはらんでいた。赤と黄と青。水にそれら三色を溶かしたかのように薄く混じり合っている。  女は既に何かを呼んでいるのだ。あるいはそれこそが、自信の表れなのかもしれない。 「使わないんスね。浮遊霊の消去」 「……」 「いや使えないんスね。あれだけ怪異をぶつけられてボロボロなのに。あるいは回数制限があるのか。ブラフなのか。使ったところで範囲外の怪異に襲われるだけだからここぞという時まで取ってあるとか?」  術者は捲し立てるように言葉を並べた。 「さあな」  わざわざ答える必要もない。吐き捨てるように返した。王女は呼び出せないが、勝手に警戒して消耗してくれる分には構わない。 「来ないんスか? だったら、こちらからいきまスよ──」  女は水を一気に煽ると、 「──無色」  舌なめずりして唱えた。  術者から紫電が弾けて、揃えられた前髪が浮いた。  椅子がひとりでに吹き飛び、窓ガラスが割れて、冷やされた空気は暴発し、全身を叩いた。  顕れたのは青い巨躯を持つ怪物だった。半人半馬。顔面には無数の目。同じく数本の腕が釈迦のように生えて、大量の五指を蠢かせている。  半人半馬が、その場から動く気配はなかった。ただ夥しい眼球を右往左往させるばかりで、ひたすらに不気味なだけだ。  が、こちらから仕掛けるのも憚かれる。道中屠ってきた有象無象の怪異とは違い、半人半馬からは異様な気配が放たれていた。 「例えばそれは、禁足地の蜘蛛」  術者が更に言うと、半人半馬は応えるように唸った。  怪異が変貌する。粗放に扱われた粘土のように形を崩し、再構成されたそれは、もはや別種の怪異と成った。  黒と黄が織りなす警告色。得物のように鋭利な昆虫じみた数本の脚。蜘蛛の腹から生えているのは裸身の女で、その顔は黒幕のごとき長髪で隠されていた。  蜘蛛が金切声を上げる。空気が震えた。 「厄介だの」裡なる者がナイフを構えた。 「背子」彼女から更なる紫電を受け取る。  杭のように尖った脚が縦横無尽に動き、蜘蛛が迫り来る。  一先ず店外へと逃げて、中央広場にまで戻った。比較的人が倒れていない場所に陣取り裡なる者に訊く。 「アレも急所は同じか?」 「見て分からんのか。あれはおそらく恒常性としての位が高い。確実に多くの間引きをするために産み落とされた個体だろうて。急所を潰した程度じゃ死なんだろう」  蜘蛛はすぐに追いついてきた。悲鳴のような、あるいは嬌声じみた歪な声を上げながら両腕を彷徨わせて駆けてきた。  横に跳び突進を避ける。と、瞬時に振り向き蜘蛛を視界に収めた。違和感に気づく。脚が動かない。いつの間にか、粘性を持った白い塊が纏わりついていた。糸だった。蜘蛛という捕食者が獲物を狩るために編み出した生存戦略。それが脚を捕らえて離さない。既に仕掛けてあったのだ。  蜘蛛は踵を返して再び迫り来ると、鋭い足の先端を掲げた。死。紫電の防護では足りない。杭のように尖ったそれは、間違いなく身体を貫く筈。確信が走る。  止めるしかなかった。持ち前の膂力も手伝い、蜘蛛の脚を両手で掴み取ることが叶う。「背子!」成り行きだったが、触れてしまえばこちらのものだ。彼女の世界へ送ればそれで終わり。  しかし背子は切羽詰まった声で、 「無理だ! 怪異があり得ないほど術者と強く結びついてる」  と結んだ。 「うそ、だろ」膝が曲がる。  中途半端な姿勢で脚を取られているから思うように力が出せない。汗が次々と頬を伝い顎から落ちた。膝を突き首が曲がる。熱い汗が眼球に染みて、視界を濁らせた。背子の舌打ちが頭に響く。王女からの応答はない。 「く、おおお!」  横腹に百足のような怪異が噛みつき、頸筋にも激痛が走った。群がる怪異は留まることを知らない。このままでは蜘蛛の脚が届くより先に食い殺される。  腕の筋肉が限界を告げる。が、諦観の念を抱くより前に、重たくのしかかる質量は悉く霧散した。次いで蜘蛛の悲鳴。  杭のごとく鋭い脚を押し出していた方向に身体が倒れて、糸が全身に纏わりつく。泥濘を踏むような下劣な音が立った。  瞬時に紫電を手繰り、脱出に要する最低限の糸を焼き切った。這いつくばり拘束から脱すると、糸を引く捕食者の網を引き千切り、纏わり付く怪異を背子の下へ送った。 「煩わしい……!」  蜘蛛を見た。  脚を二本。間接から切り落とされた蜘蛛はけたたましい叫びを上げながら、人の腕で髪を掻きむしっていた。  裡なる者の助力だった。彼女はいやらしい笑みを浮かべながら、 「ここは戦場。足下くらい気をつけんとな」  蜘蛛の脚を全て切り捨てていった。  巨躯を持つ蜘蛛が腹を地に着け、無数の脚を関節から蠢かせた。鼓膜を破りかねない慟哭がフロアに反響する。  足裏に力を込める。前屈みになり、膂力の全てを乗せて。弾けるように。  駆け出した。  視界が凄まじい速度で切り替わり気づいた時には、無防備な裸身の女。その心臓部へと右手を突き立てていた。紫電を指先に集中させて放ったそれは、怪異を貫き素質のない者には不可視だろう黒い体液を噴水のように漏出させた。次いで蜘蛛の身体をよじ登り女の頸椎に腕を回すと、一息に骨を折り曲げた。木の枝を手折るような音が虚しく響く。半回転した女と視線が合う。  それでも蜘蛛は死なず。脚を蠢かせ暴れた。  裡なる者がナイフを構えた。それを視界の端で捉えて、飛び退く。  一閃。紫電が走り抜けた。  まるで居合でもするかのようにナイフを振り抜いた裡なる者の薙ぎによって、蜘蛛は完全に絶命した。警告色の腹から裸体の女が切り離され、辺りは黒の血で侵された。それは明らかに、刃渡の短い得物で出せる威力ではなかった。  しかし。  蜘蛛は粗雑に扱った粘土のように形を崩すと、またしても半人半馬に戻った。 「例えばそれは、田園の狂気」  怪異のうち一体が女の声で言った。  眼球が邪魔だった。 「ええたらいこいこ」  誰かが言った。 「おおねきさんぼう」  また誰かが続けた。  邪魔だった。眼球が。  親指で取ろう。思った。 「ふふ」  親指を立てる。 「異物の場所は?」  教えてもイイだろう。  そして楽になればイイ。 「()ね」  きん。と、耳鳴りが走った。  思考が明瞭になり、二階堂は意識を取り戻した。眼前に迫る親指の先端を止める。頭に響いた声は背子ではなかった。裡なる者でもない。王女だった。存在を消耗している筈なのに無理をする。刹那の消去。身体に纏う紫電が霧散し、視界でくねくねと蠢く何かも消えた。 「やっぱりブラフ……!」  背後から術者の声。  紫電はない。それでも膂力への自信は変わらない。鍛えた筋肉は裏切らない。  術者が立つ場所にあたりをつけ、背後を振り向きざまに蹴りを放つ。靴先は女の脇腹を捉えた。紫電の防護がない人間の肉体は実に柔く、片足を軸にした回し蹴りは、彼女を吹き飛ばすに十分な威力を発揮した。 「ふが……」女が抜けた声を漏らし、床を転がる。 『畳みかけろ』 「言われずとも!」  もう遠距離から延々と怪異をぶつけられるのはごめんだ。動く度に身体のあちこちで走る痛みと疲労で判断力が低下している。長期戦は望むことろではない。  それにまだ昼前。霊能ひとり相手に疲弊し切るわけにはいかない。余力を残しておく必要がある。  王女の刹那に過ぎない顕現で消去できた浮遊霊など数が知れている。五歩程度の距離を進むと、肌を舐める独特の感覚が戻った。瞬時に紫電が迸る。  それは相手も同じだった。  血を拭いながら、術者が口を開く。 「に……」 「させるわけねえだろ」  女の口を右手で鷲掴み持ち上げる。彼女の身長は二階堂よりも頭二つ分ほど低い。持ち上げるのは容易だった。 「やっぱり」 「う、んむ、うう」 「口にすることが条件か」  過去に対峙してきた霊能にも同じような手法を使う者がいた。  怪異を担保し顕現させるというのは、生半可な技術ではない。その上、担保している怪異も少なくないとくれば、特定の怪異を呼び起こすために編み出した手法がある筈。例えば怪異と結びつけた色を敢えて口にすることで、自分へ言い聞かせるようにして条件反射的に呼び出す、というような。 『このまま締めおとせ』 「ああ。そうだな──」  左手で首を掴み、ぎりぎりと万力のように締め付けた。苦悶の声が掌の中でくぐもって伝わる。手首を両手で掴まれ、ばたつかせた脚が胴に刺さるがどうということはない。いくら紫電を纏おうが、最終的に力の優劣を決めるのは持ち前の膂力だ。  締め上げながら横目で裡なる者を見る。彼女は蹲り何かをぶつぶつと呟いていた。未だに狂気から脱することができないのだろう。  先刻の怪異が放つ狂気はそれほどに強力だった。王女の介入がなければ、二階堂もただでは済まなかっただろう。  くねくねと蠢く当の怪異は消えていた。半人半馬にも戻っていないようだ。それどころか撃ち漏らしていた怪異の群れの姿も見当たらなかった。おそらく術者の意識が消えかかっているからだろう。このまま絞め落とせば危機は去る。 「──そうなんだが。クソ」  納得できなかった。腑に落ちなかった。許容できなかった。このまま勝負が決するのなどと。  術者の女は二階堂と同じだった。それを意識させられる彼女の行動は腹に据えかねた。  指の力が弱まり、足元に女が落ちる。 『二階堂、お前。何やってんだ』  今日という分岐点を越えるためには、少しの懸念も許容してはならない。  その筈だったのに。 「てめえ情けかよ。要らねえんだよボケ。どうせ絵梨花先輩にもそうしたんだろ。気にいらねえ」 「立てよ」  情けなどなかった。ただ目の前の女は、完膚なきまでに叩きのめさなければ気が済まなかった。胸の中に渦巻いた忌避したくなるような感情。鏡写しの自分を見ているようなこの感覚は同族嫌悪。 「目的のためなら殺しも厭わず。だれ振り構わず突き進むべき。そうだよな」  自分に言い聞かせるように言った。 「はあ? 何を……」 『本当にどうしたんだ二階堂』  背子の声が悠遠の彼方に感じられる。もはや彼女にこの感情は理解できないだろう。  術者がよろよろと立ち上がった。息の触れる距離で睨み合う。 「後悔すんなよ」 「いいから来い」  術者が飛び退き、 「霊拓三色」  条件反射の言葉を口にする。  彼女の影から赤と青と黄が混ざった黒い柱が立つ。 「さっきは油断しただけだ。二度はない」  影が言った。 「赤いマント着せましょか。青いマン──」 「赤」怪異が言い終わる前に答える。  その問いかけだけで理解した。地方の学校。その通学路で出没し、数多の子供を殺した大怪異。眼前に居るのはそれで間違いないだろう、と。怪異の特性を知っていれば対処は可能だ。 「いいいいいいいいいいッね」  三色に濁った人影が消える。次いで背後に気配。半歩下がり怪異に背中を合わせる。右肩越しにナイフの切先が見えた。振り下ろされた怪異の腕をへし折りそのまま背負い投げる。  赤いマントを羽織ったやせぎすの男が、床に叩きつけられた。怪異が当惑した表情を浮かべて霧散する。 「問いに答えたら結果だけを与える。赤なら背中を切る。青なら血を吸う。黄なら異世界へ。つまりその結果を乗り越えれば、怪異は役割を終える。それ以降の噂は存在しないからだ」 「白!」 「言え、言え、言え」  包帯を巻いた男が複数、ゆらゆらと迫る。彼らは全員、手に鈍器のような武器を持っていた。これも知っている。有害図書から広がった噂が形を成した受動的怪異。 「私はドンガラ。あなたと同じ。私はドンガラ。仲間になれない。だからどうぞお帰りください」 「ああ。そうだ。お前は俺」  対処法と一緒に認識から汲み上げられた怪異ならば、特定の文言を言うだけで済む。その対処法に免疫を持って生まれる怪異もいるにはいるが、眼前の怪異はそうではなかったようで。  果たして、二階堂の言葉を受けた怪異は霧散した。背子の世界へ送るまでもない。  悠々と歩き、徐々に術者へ迫る。血が抜け過ぎているせいか思考はひどく冷えていた。頭にあるのは女への嫌悪感とそれに結びついた自己嫌悪。 「マニアかよ、てめえ──」  女は舌を打ちながら、 「──だったら、緑」  結んだ。  どこからか羽音が鳴った。一つだけではない。大量の羽音。術者の影から大量の昆虫が溢れ出す。おそらく全てクワガタだろう。  この怪異も知っていた。  が、対処は不可能だった。 「おいてけ。おいてけ。おいてけえええ」  どこからか女の慟哭が響く。  ある森から昆虫を持ち出そうとした少年を咎めた怪異。その対処法は、森から獲ってきた昆虫を差し出すこと。裏を返せば、森から獲ってきた昆虫を持っていないと対応できない。 「これは流石に無理だろが!」 「背子」 『まったく。付き合いきれない』  だから一匹ずつ全て、背子に預ける。  時間がひどく緩慢だ。迸る自分の腕。その動きを全て目で捉え認識することができた。触れる側から消える昆虫、その羽の躍動までもが見て取れる。  そして。  全ての昆虫を捌き終えてから、刹那の間に術者との距離を詰めた。  右拳を振り抜く。  中指骨が女の頬を捉えた。柔い肌の感触を感じながら、術者を殴り飛ばす。 「ぐ、おお」  転がる女を蹴り上げる。 「これはきっと、八つ当たりなんだ」  血反吐を吐き、宙に浮いた彼女を拳の鉄槌で叩きつけた。 「殺しをしないのは、その後の人生を考えているからだ。自分は手を汚していない。その一線を超えていないから。清廉潔白なフリして、罪悪感を抱くことなく余生を過ごすためだ」  やはり自分に言い聞かせるように続けた。 「叶えなければならない願いがあるのに。その後のことを考えているから、自己満足で身勝手な未来を見据えているから、中途半端になる」  しかし人間は矛盾をはらむ生き物だ。迫害を受けその痛みを知る人間が、迫害する立場に平気で回る。貧困に窮しその辛さが身に染みている人間が、富を得た途端に貧困に喘ぐ者を虐げる。成功できない苦しさを知る人間が、成功した途端に成功できない人間を嘲笑う。他者を殺し退けてでも叶えたい夢があるのに人殺しを厭う。それもまた矛盾だった。 「持っている願いは自己満足に止められるほど、小さいものかよ」  裏を返せば、倫理の(たが)が外れた霊能という身で殺人を躊躇できるというのは称賛されるべき倫理観だ。  が、倫理程度で願望への姿勢を崩してしまうようなら、最初から夢など抱かなければいい。 「お前だって、叶えたい願望があるから、こうして戦っているんだろう」  願いを叶えるために薙ぎ倒してきた人間の山。その中から誰かの魔手が伸びて、いつか自分の喉元に届く。そうなってからでは遅いというのに。後悔しても悔やみ切れない悔恨に襲われる筈だというのに。  対峙した霊能は悉く自分の命を狙おうとしている。それを返り討ちにして、挙げ句の果てに殺したとしても。それを正当防衛だと言い訳すらできないのであれば。それでも自分の手は汚せないなどと宣うのなら。やはりその矛盾は捨てるべきで。捨てられないのであれば、最初から夢など追わない方がいい。 「ペラペラとさあ、気持ちよかったかよ。説法垂れてよお、なあ」 「そんなご大層なもんじゃねえよ」 「私は……お前じゃない」  右拳を握りしめた。掲げる。爪が食い込んで血が流れた。  這いつくばる術者を見下ろす。 「いいや、同じだね」  自分で放った言葉が、そのまま自分に突き刺さる。 「私は、できる。殺しくらい、どうってことない」 「じゃあやってみろ」 『本当に、付き合いきれない!』  背子が珍しく声を荒げた。 「お前の一番、信頼している怪異を切れ。それを破って終わらせてやる」 「言ったな、筋肉野郎」  術者が飛び退き、距離を取った。  拳を開く。じりじりと慢性的な熱を持つ掌に血の混じった痰を吐いた。両手を合わせて擦る。粘性が指の隙間を侵した。再び握る。  両腕を構えて少しだけ腰を落とすと、体を前後に揺らした。その度に息を吐きリズムを生む。踵を上げて、右拳は自分の顎元、左拳はこめかみに。 「どうなっても知らねえぞ──」  術者の頭部から紫電が弾ける。 「──焦茶」  術者の声に怒気がはらむ。  顕れたのは牛の頭部を持つ怪物だった。  赤い着物を羽織り女性的な胸の膨らみを持った怪異は、牛女。井上円(いのうえまどか)の差配で禁書として封じられた文献の中に記されている旧い大怪異だった。  その特性は事故の遭遇。牛女と出会ったら最後、必ず事故に遭う。遭わなければならない。つまりは不可避。事故に遭う日に牛女と遭遇するのではなく、牛女と遭遇したから事故に遭う。  牛女の着物がはらりとはだけた。胸元が露わになり、腹が唐突に膨らんだ。まるで妊ったかのように膨張した腹部が弾けて、その中から飛び出したのは両手で抱えきれないほどの質量を持つ岩石だった。 「落石事故、だ」  岩越しに術者の声が聞こえた。 「背子」  彼女からの返事はなかった。が、意図は伝わったようで、身体に纏う紫電は右拳の一点に集中した。 「すまん、わがまま言っちまったな」  それでも。  これから始まる新たな人生に、しこりを残したくなかった。その思考はやはり術者の女と同じで。自己嫌悪に吐き気を催した。  牛女の特性を退ける方法は、二階堂が知る限りでは存在しない。だから土壇場で思いついた方法を試すしかなかった。事故に遭わなければならないのなら、事故に遭った上で無事でいればいい。 「──ッ!」叫び。自分へ檄を飛ばし。緻密に凝縮された紫電を纏う。その右拳を突き出した。  右ストレート。  破砕音が鳴った。  中指骨が悲鳴を上げる。  肘が砕けそうだった。  それでも貫いた一閃は。  岩石を粉々に砕いた。  大小様々な石礫が舞い、視界を拓く。その先に膝を突く女が見えた。 「……出鱈目だ」  紫電を全身に巡らせ、駆け抜ける。  距離を詰めて右脚を振るった。靴先が術者の顎を捉える。さぞかし脳が揺れただろう。  彼女は膝を曲げたまま白目を剥いて、仰向けに倒れた。 「人間だったら。吐き気を催すほどの矛盾を抱えた上で開き直ってこそだろ」  紫電が解除されて、膝を折った。
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