九話 束間③

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九話 束間③

 裡なる者は未だ狂気に囚われ這いつくばっていた。  彼女の頬を叩き正気に戻してやる。と、虚ろな瞳はみるみる光を取り戻していった。垂れ流しになった唾液を拭い立ち上がる。 「……手間をかけたの」 「いや、私もアレの狂気に当てられて負ける寸前だった。仕方ねえよ」 「そうか。そんで、あの術者はどうした」 「ああ。それなら──」  雑貨屋の方で気を失ったままの術者を指差した。 「──終わったよ」 「なら、私の役目も一先ずは終わりかの」  裡なる者が呟くように言うと、彼女の体から積年の気配が消えた。 「随分と手こずったみたいね。お婆様の手にすら余るなんて、想像もしていなかったわ」  椎倉の口調が戻る。お婆様とやらが退去したのだろう。 「とりあえずここを離れましょうか」 「ああ。そうだな」  踵を返して、重たい脚を駆動させる。  霊能が騒ぎを嗅ぎつけて集まってくるかもしれない。連戦は避けたかった。 『後で説教だからな』背子が思い出したように言った。 「……」返す言葉もなかった。  楔を打ち、王女と二人きりの世界で長い間過ごしてきた背子の執念は、二階堂でさえ推し量ることはできなかった。目的を同じくしているとはいえ、彼女の世界からは見守ることしかできないのだから、背子には二階堂の身勝手な行動に怒る正当な権利があった。  足早にエスカレーターへと向かい、一人寂しく駆動音を鳴らす自動階段に脚を踏み入れた。緩慢とした動きはもどかしく、駆け足で降りていく。二階に着きそのまま更に階下へと降りようとした。その時。 「呼び声が、聞こえる」頭上から声がした。  刹那。 「に、二階堂!」椎倉が叫んだ。  右半身に甚大な衝撃が生まれる。  背子が瞬時に紫電を展開したからよかったものの、それがなければ間違いなく死んでいただろう。  身体が宙に浮き──壁に叩きつけられた。  痛みに喘いでいると、椎倉も倣うようにして側で転がった。 「この、タイミングで、新手かよ」  霊能と思しき人影を探す。見つかったのは術者の女だった。 「……まだ動けんのかよ」 「呼び声が、聞こえ、きこ、キコキコきこきこき」  壊れた蓄音機のように同じ単語を繰り返す術者。痙攣した首がおよそ人間ではありえない速度で左右に動き、 「おおねきさんぼう」  意図の結ばない言葉を吐き出した。  術者の口から夥しい深緑の触手が這い出す。 「な、何よあれ」 「さあな」  どうあれ戦う他ない。術者に正常な命が宿っているようには見えなかった。もはや今度こそ殺すしかない。覚悟を決めて立ちあがろうとした。  しかし、 「うそ」  膝が笑い尻餅をついた。  どうやら椎倉も立てないようだ。痙攣しながら床を這っている。それほどまでに先刻受けた一撃は重たかった。余力を残しておいた筈の肉体が麻痺している。 「おい、動けよ、頼むって」  喉を震わせ膝を叩く。  視界の端で女が──かつて術者だった触手の怪物が一歩を踏み出した。  彼女の右腕が裂けて、中から筋骨隆々な緑の巨腕が現れた。同じく左腕も丸太のように無骨な腕へと変貌した。 『怪異じゃない』 「じゃあ、なんなんだよ」 『わからない。でも、出ようとしている』 「ど、どっから!」 『わからない。クソ、どうすればいい』  背子が珍しく狼狽した。 「なに独りごと言ってんのよ。おかしくなった?」  椎倉は再び直立を試みるも、健闘虚しく床を這った。  触手の怪物が更に迫る。絶望が支配した。  近くで見ると確かに。触手の怪物は怪異ではないようだった。  紫電を纏ってすらいない。怪異特有の淡い漂うような気配もない。怪物はただ物理的に存在していた。  ならば王女の権限さえも意味を為さないだろう。霊能も怪異も浮遊霊の交信を経て力を得る。それを打ち消せるから王女の顕現は有効打になり得た。  つまり。  万事休す。  進退ここに極まれり。  為す術がない。  上半身だけが異常に膨張した怪物が五指を開く。頭部を掴まれた。 「おいおい、ホントに終わりかよ──」  自虐的に笑い、 「──真、ごめん」  かつての親友に謝った。  走馬灯などという贅沢な時間はなかった。有るのは純然たる死の事実。そしてこめかみに走る痛みだけ。  紫電の防護をこじ開けて万力のように締まる怪物の指。耳障りな椎倉の嘆き。頭の中で鳴り響くのは恐慌状態に陥った背子の啜り泣きと王女の嘆息。  全てが耳に届いている筈なのに、脳は言葉を認識できなかった。それは水中から外の喧騒を聞いている感覚とよく似ていた。水の中に届く喧騒は濁っていて、その言葉の一つひとつを捉えることはできない。  尋常ではない頭痛に襲われ吐き気がした。  死を覚悟した。  瞬間──轟いた。  激鉄を叩く音。鉛玉を放つ銃声が。混濁した意識に水をかけられ世界が明瞭になる。椎倉の困惑した声が、背子の鼻を啜る音が、王女の呟きが、全て詳らかになった。視界が歪む。泣いていたのだ。らしくもない。  頭から痛みが消える。  男の怒声がフロアに反響した。 「馬鹿野郎! 能田! 白昼堂々ぶっ放してんじゃねえ!」 「だって、これは使命でしょうが! 市民を守るための権利を今ここで使わずしていつ使うんですか! 目の前の怪物ですよ! この惨状を招いたのは!」  若い男の掠れた返しが駆け抜ける。  銃声。銃声。銃声。  凶弾を受けた怪物がよろめいた。物理的に存在しているのであれば、通常兵器は面白くらいに有効だ。それは怪物も例外ではないようで、青色の飛沫を撒き散らしながら両手を床に突いた。 「それはわからんだろうが! 倒れてる市民に当たりでもしたらお前……」 「だからいつまで経っても警部止まりなんですよ、あんたは──」  若い男が遮った。 「──有能で実績もあるくせに、ここぞという時の判断ができないから! 俺はあんたなんか、すぐに抜かしますからね!」  銃声。空打ち。  怪物は膝立ちになり触手を蠢かせた。空気が暴発する。咆哮。すぐ側でそれに曝され身を竦ませた。耳を塞ぐ。 「この野郎、好き勝手言いやがって」  中年の男も銃を構えて、呪文のように唱えながら、 「警察官職務執行法第七条。犯人の逮捕もしくは闘争の防止……自己もしくは他人に対する防護または公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合」  発砲した。  銃声が轟く。次いで怪物の悲鳴。  怪物は未だに倒れず。ゆっくり這いながら二人の男の方へと向かった。  激鉄が連続で叩かれ、その度に怪物は青の飛沫を噴いた。凶弾のいくつかは外れてどこかで跳ねた。鉛が空気を裂く。  そして。  五回目の銃声が鼓膜を震わせた時。怪物はようやく動かなくなった。青い海が床に広がり嗅いだことのない異臭を放つ。  それは見ようによっては呆気なく。二階堂からすれば全く腑に落ちない。戦いの終わりだった。  サノバから出ると、すぐにタクシーを拾って目的地に東静岡駅を指定した。とにかくその場から離れたかった。  五キロ程度移動したところで気休めにしかならないだろう。術者のように怪異を手繰り追跡が得意な霊能はごまんといる。  が、今すぐに襲われることはない筈だ。イブの正体を看破したのは、現状で術者の女だけだ。背子の世界に担保してあるから誰にも手は出せない。サノバでの争いをイブと結びつける霊能がいてもおかしくないが、それも考えづらい。霊能同士の戦いなど至る所で起きている。  と、そこまで考えたところで二階堂の思考は停止した。  怪物から貰った一撃が予想以上に効いている。辛うじて歩くことはできるが、しばらく戦うことはできないだろう。何も考えたくなかった。今はただ休みたかった。  柔いシーツに背中を預けて、車窓の外をぼうと眺めた。  先刻の死闘など知らず顔で世間は回り続けている。俯瞰的な視点で見れば、イブを巡る争いなど至極小さなことなのかもしれない。そう思うと少しだけ気が楽になった。  血まみれの女二人が乗車してきて、早急に東静岡までなどと言われたら、誰だって不審に思うだろう。  時おりルームミラー越しに送られてくる運転手の奇異な視線を避けるために、目を閉じて車両の駆動音だけに集中した。 「それで? この後はどうすんのよ」  左隣の椎倉が訊いた。 「服買って着替えて飯食って力つけて」  頭に浮かんだ台詞を咀嚼せず垂れ流しにしたあと、 「そのあとは第二プランだ」  と結んだ。 「予想していたが、襲って来るのは怪物ばかりだな」  両替町の少年はある種の抑止力になっていると思われた。彼とぶつかるくらいなら争いから身を引く。そんな霊能の方が多いのだろう。イブの力だって生半可なものじゃない。調伏できるだけの実力を秘めている者はそう多くない筈。  それらの要因に濾過された結果、それでもイブを狙いに来る霊能は身の程知らずか怪物かのどちらかだ。術者は後者だった。 「……静岡に限った話じゃない筈よ。仮令イブが地球のどこに落ちようと、同じような顛末しか待っていなかった」 「ああ、そうかもな」 「そうかもじゃなくて。そうなのよ。晴明様が未来を占いイブという特異点を見出して、そこなら道摩法師を捕らえられると考えたほどなんだから。そうして彼は積年の時を待った。イブはそれだけ希少な存在なのよ。どこに行っても同じ。同じよ」 「わかってるよ」  騒ぎが起きてから早々に出発したおかげだろうか。渋滞には巻き込まれず道中はおそろしく静かだった。  タクシーを降りて、東静岡の北口から少し歩いた。ぼろ雑巾のような二階堂らは常に道ゆく人の奇異の視線を集め、時おり囁くような話し声が耳朶を打った。  辿り着いた先はマークアップ。サノバと同じく大型商業施設だ。  道路に囲まれるようにして聳え立つ建造物は、同じ区内で起きている騒ぎなど知らず顔で二階堂らを見下ろしていた。  東静岡まで来ると途端に緑が増える。マークアップ越しに悠然と構える沓谷(くつのや)の森が、街の大部分を占拠しているからだ。豊かな自然は人の営みと調和するかのように、あるいは人の領域を侵すようにして広がっていた。ガイアの恒常性を考えれば後者の方が適切だろうか。 「ま、静岡なんて観光地を除いたら何もねえからな」 「地元を悪く言わないでよ。そろそろイブを出してあげたら?」 「そうだな」首肯して、「背子」彼女の世界と交信した。  駐車場の陰でイブを呼び戻す。  彼女は開口一番に、 「二人とも、怪我は平気なのか」  訊いた。  背子の経路を通じて、イブも状況は知っている筈だ。円な瞳には心底からの憂いが宿っているように見えた。そう感じるのは独りよがりで勝手だろうか。 「依頼人が私の怪我を気にする必要はない」 「私は気にしてよね。無関係で哀れな被害者なんだから」  椎倉の言い分は無視した。彼女は自称晴明のために自らついてきているのだ。どうなろうと知ったことではない。内心で毒を吐く。 「すまんが、イブ。まずは服を買わせてくれないか? また商業施設で悪いんだけどさ。それが終わったら予定通り鰻を食わせてやる」 「構わない」 「あんたって、食に関する要望ばっかりね」  椎倉が存外に覇気のある声で言って、駐車場の陰から出た。霊媒師の感覚は二階堂の知るところではない。  が、肉体的にはともかく、誰かを降ろしている間は精神的な負担が軽減されるのだろうか。なんとはなしに考えながら、同じく一歩を踏み出そうとした。  刹那。  血飛沫が舞った。  眼前の椎倉がよろめき、地に倒れ伏す。それまでの時間がひどく緩慢に見えた。  通行人の悲鳴が巨大な駐車場に反響した。  背子から紫電を受け取り警戒体制を取る。  瞬間、何かが横切った。 「うぐ、に、かい、どう」  背後から苦悶の声。瞬時に振り向く。  と、そこには刀で串刺しになり、宙に持ち上げられるイブが居た。貫かれた腹のあたりが乱れた映像のように歪んでいる。  イブを突き刺したままの怪異が口角を上げた。  着物に身を包んだ侍風の男は思考を咀嚼するように片方の手で顎を撫でて、 「試しに串刺し興が乗らん。やはり首を落とすに限る」  ひとりごちた。  その怪異には見覚えがあった。 「クソが、めんどくせえ」  強気に言ったつもりだったが、喉から出た声は消え入るように弱々しかった。 「簡単すぎて、笑えてくるなあ」  またしても声。今度は若い男と思しきものだった。  その声にも聞き覚えがある。  最悪の光景が脳裏を過った。怪異に轢き潰された人の群れと血の海。あらゆる攻撃を無効化し、怒声を撒き散らした少年。  視線を巡らせた先には学生服の少年が立っていた。やはり彼は間違いなく。  両替町の怪物だった。 「まあ、介入するならこのタイミングが一番だよねえ」  少年は腹を抱えて、堪えきれないといった様子で笑った。 「あ〜あ」  彼はひとしきり笑った後、 「いやね。特異点がどこかに消えた時は流石に肝を冷やしたよ」  誰に話しかけるでもなく、 「でも観察を続けていたら、まさか弱体化して帰ってくるだなんて。そこで潰してもよかったんだけどさあ。真怪を使う女が付き纏っていたから迷った。下手をすれば鏡の特性を貫きかねない。だけど一向に異物を使う気配がないから、しばらく静観していたらこの顛末だ。まさかここまで労せず特定点を獲得できるなんてねえ」  捲し立てるように言葉を並べた。  少年は隙だらけのように見えた。が、安易に動けなかった。彼から立ち昇る異常な圧力が脚を捕らえて離さない。  横目で倒れる椎倉を見た。首から大量に血を流しているものの、まだ息はあるようだ。弱々しく背中を上下させている。  逃げる他ない。両替町で見た時から確信していた。少年には絶対に勝てない。だからこそ早急に背子と一体になる必要があった。 『接近をまるで感じ取れなかった……』  紫電の後押しを受けた膂力であれば、イブを奪取し、ついでに椎倉を抱えて走ったとしても十秒あれば逃げられる。  脳内で未来の動きを予測した。  予備動作を極力減らして駆けるために、緩慢な動きで腰を小さく落とした。少年に気取られないようにするためだ。じりと靴先を動かす。  と、「三番」少年が呟いた。  次いで腹に衝撃。肺から空気が抜け出し胃の中身が逆流した。足元に勢いよく吐瀉物を撒き散らす。眩暈がした。  何も見えなかった。事実、状況が変化しているようには見えない。一体どんな攻撃をどこからされたのか皆目見当もつかなかった。戦意がみるみるうちに萎んでいく。やはりこの少年にはどう転んでも勝てない。疲弊した今の状態では尚更だ。 「紫電は実に不思議な現象だ」  鈍器で殴られたような衝撃が頭部に走る。思わず膝を折った。 「不可視で、反物質を生み出す源になる」  背中に先刻と同じ痛みが走る。  蹲って呻いた。地を這い頬に冷たい感触が染み渡る。耳鳴りがした。 「紫電は解釈の仕方によっては怪異と捉えることができる。つまり使役可能だ」  後頭部に靴裏の無骨な感触が襲う。耳朶の奥でじりじりと厭な音を立てた。髪が巻き込まれ抜けていく。 「ま、凡人には無理だけど──」  後頭部から重量が消えて、 「──ね!」  今度は横腹に鈍痛が走った。蹴り飛ばされたのだろう。面白いくらいに身体が跳ねて椎倉の側まで転がった。  視界の端で通行人が何人も殺されている様を見せつけられる。現状を目撃するか悲鳴でも上げるかすると、人々は直ちに潰れた。文字通りだ。  両替町の惨劇。その再来だった。 「君たちは殺す」  少年はそれが当然であるかのように、 「特異点はもらう」  宣言した。  ごぼごぼ。  耳元で不快な音が鳴った。椎倉だ。直前に紫電の防護が間に合い即死を免れたのだろうが、間違いなく致命傷だった。抑えられた喉元からは夥しい赤の海が広がり、顔はおそろしく青ざめていた。 「ぜ、び、めい、ざ、あ」  赤黒い椎倉の言葉は正常な意味を結ばなかったが、意図は伝わった。  安倍晴明。椎倉に宿っていた超人。今は背子の世界に身を置き、悲願を燻らせている霊体。彼を呼び出せ、と言っているのだ。  その存在は眉唾物だが、実力は本物で。確かに少年を退かせることが可能なのはあの超人だけだろう。  超人と再び対峙することになれば、確実に勝ちは拾えない。それに瀕死の椎倉の肉体に戻ったところで意味はあるのか。様々な思考が脳裏を過ぎる。  それでも。  超人を呼び起こす他なかった。
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