十二話 背子

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十二話 背子

 自称晴明の言伝を椎倉に伝えると、彼女は困ったように苦笑いした。  二階堂には言伝の意図が読めなかった。  意味を訊いても、椎倉はかぶりを振るだけで何も答えてはくれなかった。  まるで口下手な性格に変わってしまったかのような変貌ぶりだった。  冗談を飛ばしても軽口を叩いてもまるで反応を示さなかった。らしくない。  晴明を名乗る霊の悲願。それは土御門家の悲願でもあるらしい。それをようやく達成したというのに、椎倉は意気消沈としていた。  それは積年の願いを叶えた余韻からくるものではないようだった。彼女の瞳にはどこか諦観の色が浮かんでいるように見えた。  イブを含めた三人でいくつか言葉を交わした後。椎倉は唐突に、 「もう行かないと」  静かに言って、去ろうとした。  華奢な背中は何故だか寂寞を帯びているように見えて、椎倉はそのまま陽炎に消え入ってしまいそうだった。  だから思わず、 「またな」  彼女の背中に声をかけた。  振り向いた椎倉は紙を丸めたようにくしゃと笑い、 「じゃあね」  短く言った。  夏の太陽はまだまだ旺盛で、椎倉の細い身体など間も無く眩さの中に消えていった。  大型商業施設で手早く服を買い、手洗いで着替えた。洗面台の前で顔に付着した血や煤を落とし、乱れた髪を整える。血で汚れた服は気後れしつつも道中のゴミ箱に捨てた。  両替町の怪物が作り出した凄惨な現場を尻目に、東静岡駅から北側──長沼方面へ歩き隠れ家的な鰻屋で遅い昼食を摂った。  イブは相変わらず大食いで、安くはない鰻丼を五皿ほど平らげた後、「人間は情報を食う生き物のようだ」などと達観した感想を漏らしていた。  その後はサブプラン通り街を見て回った。  道筋を用意されるのもいいが、興味の惹かれるものを自らでも探してみたい。それは昨夜のイブが出した要望だった。  食べ歩きながら、イブは子供のように駆け回った。既に知識としてあっても実際に見るのとでは違う。と、彼女は笑みを湛えて右往左往した。時には知識の突合を求め、時には自らで分析して結論を出していた。  彼女の表情は本格的に板についてきた。それが仮令作り物だとしても、発露した喜悦は本物だと思えた。  その間、当然警戒は怠らなかった。両替町の怪物──椎倉曰く道摩法師という最大の懸念が消えたとしても、他に霊能が居ないとは限らない。  正直なところ余力は残っていない。サノバでの一戦。そして両替町の怪物から受けたダメージが肉体を蝕んでいた。仮に王女が助勢してくれたとしても、実力差が開いていれば容易に殺されてしまうだろう。  などと気ばかり張っていたら、 「……かいどう、二階堂」  イブから声をかけられていたことにすら気づかなかった。 「どうした」 「大分疲れているな。どこかで休むか?」 「いや、問題ない」 「ならいいが」  流用する立場で同情を寄せる権利はないがイブには今日しかない。疲弊しているなんて理由で彼女の歩みを止めることはできなかった。  二階堂自身、無血というわけではないが情に厚い質わけでもない。しかしイブに対しては想うところがあった。  人間の悪性に曝された彼女は、基本的に被害者だ。二階堂を含め人間が身勝手で自分本位でなければ、命を狙われることもなかっただろう。悪性を持つ人間が跋扈する星に堕ちてきた。そのこと自体がイブの最大の不運だった。  イブの持つ背景は敢えて聞いていない。  余計な感情が生まれそうだからだ。何故地球に堕ちてきたのか。正体は何なのか。もはや聞いても流用の判断は変わらないが、背景を知らない方が後味の悪さも少しは希薄になる。  つまりは身勝手な自己防衛だった。流用する身でありながら、イブの事情には耳を塞ぐ。この後も続いていく人生に余計な枷を嵌めたくない。  それが本心だった。自らの人間然とした悪質な思考に反吐が出そうだ。それでも自分の人生を優先する。他者と自分を天秤にかけても傾くのはいつだって後者だ。  天秤にかける思考さえも自慰でしかない。秤に乗せるモノには予め重量が設定されていて、どちらに傾くのかも知っている。天秤にかけて悩んだという八百長を盾に、結果を甘んじて受け入れるフリをする。それが人間。二階堂という人間の正体だった。  大きな嘆息が肺から漏れ出す。  陰鬱とした気を紛らわすために口を開き、 「そういや。最後まで観られなかったけど、映画はどうだった」  イブへ話題を提供した。 「そうだな──」  イブはコロッケを頬ばりながら言った。 「──存外に面白かった」  返ってきた答えは意外なものだった。  自分の趣味を押し付けているようで、実のところ少し引け目を感じていた。 「例えば、どんなところが」 「まず映像技術が長けている。他の作品を知らないから比較しようもないが、まるで現実に怪物をそのまま投影したかのような映像には迫力があった。初めて映画という娯楽に触れる私が没入できるのだから、その技術は相当に高い部類だと伺える」 「まあ、そうだな」 「構成も悪くない。思うに映画とは、決められた時間で必要なシーンを全て展開しきらないといけないのだろう。あの映画は、必要最低限の説明だけを観劇者に提供し、考察の幅を残していた。観終わった後に余韻と共に咀嚼させるためだろう。展開からして、おそらく最後まで世界観の根底に関わる説明はされなかったんじゃないか」 「おお、かなりしっかり観てんじゃん」 「二階堂、君はどうなんだ。と言っても劇場での会話から考えるに、聞くまでもないと思うが」 「ああ。私はあんまりだったかな。どうにも自分の人生を作品に投影する悪癖が抜けなくてな。面白く感じられなかったのは、私の思考に起因している」  しかし。そんな悪癖を掻い潜って強烈な感動を与えてくれる作品と極稀に出逢うことができる。それはほんの短い間でも現実の非情を忘却させてくれる。だから映画鑑賞は趣味として根付いていた。 「まあ、お前が楽しめたんだったら、それで良いよ」 「……別に、映画だけじゃないぞ」  イブはコンビニ前で鎮座する屑籠に包み紙や串を捨てた。  落陽が強烈な朱で照らし、建物や木の影を地に焼き付けている。  イブは背中で手を組み無言で歩き始めた。  その後ろに続いて歩く。  辺りは閑散としていて、蝉の鳴き声に二人の足音だけが混ざった。 「命を狙われるばかりの数日だった。私のせいで無関係の人が巻き込まれた。やはり私はこの世界に存在すべきではないのだろう」  異物というのは言い得て妙だ。と、イブは路傍の石を蹴った。 「でもどうしてだろうな。いま私の胸中を満たしているのは楽しい記憶ばかりなんだ。映画、食事、食べ歩き。人の営みを知り、自らもその一部なのだと錯覚できた。たった一日の何でもない記憶でも、それが尊く思えて仕方ない」  イブは立ち止まると、振り返った。 「私のような存在が、どうして映画に感情移入できたと思う?」 「さあな」  答えは簡単に過ぎる。だからそれ以上は聞きたくなかった。が、彼女の言葉を止める権利を二階堂は持ち合わせていなかった。振る話題を誤ったと今更ながらに後悔した。 「ひとえに人型を採っているからだと思う。元々はこの星に根付いた力、ガイアからの恩恵を受けることが可能だったのに、今はその感覚が掴めなくなっている」  ガイア理論。それは井上円が提唱し証明した星の意思。正当防衛機能。知識として理解できても、決して腑に落とせない人生を狂わせた元凶。人の共通認識を汲み上げる悪意の機構。 「今はアカシャ側に強い結びつきを感じる。思うに人型を採るだけでも、そちらに思考や存在が引っ張られるのだろう。故に私は人類の作り出した作品に感情移入できた」 「……ああ」  それ以上は聞きたくなかった。イブが言いたいことはきっと。 「怨讐、恋慕、執着、喜悦、利己、悲哀」  落陽が世辞の句を読み、沓谷の霊園に広がる墓石へあからさまな朱色を齎している。どこかで烏が鳴いた。 「様々な感情が渦を巻いて、存在しない筈の器官──脳が、私に本能を強く訴えかけるようになった」  耳を塞いでしまいたかった。周囲への警戒に意識を向けて、平静を保つよう努めた。思い出したかのように目薬を差して、瞼をきつく絞った。 「だから私は──矛盾しているようだが、こんなことを今更言う資格はないし、自分でも図々しいと思うし、突然何を言い出すのかと驚くかもしれないが」  イブは珍しく口籠り視線を彷徨わせた。  そして意を決したかのように息を吸い込むと再び口を開いた。 「し」  唸る羽音のような轟音が、イブの言葉を遮った。  彼女の首が乱れた映像のように歪む。  イブは首を抑えて瞠目した。  瞬き。  目の中に溜まる目薬の滴が頬を伝う。  刹那。  眼前からイブが消えた。  足元に何かが転がる。  短髪。少年のような童顔。どこも見ていない虚な瞳。  それは椎倉の頭部だった。  咆哮。  最初は誰の声だかわからなかった。しばらくして気づく。それは二自身から発せられるものだった。  左肩に甚大な痛みが走る。肩口から血が滝のように流れ出した。  左腕が血の海に落ちて赤い飛沫が跳ねた。  気が触れるほどの強烈な痛み。けたたましい悲鳴を霊園に響かせた。  突如として流し込まれた受け入れ難い視覚情報と全身を駆け巡る痛みで思考が乱れる。  背後から声がした。 「本当はさ、全員一緒に殺しても良かったんだけど。サプライズは欲しいわよね」 『クソ! 二階堂、少し我慢しろ』  紫電が体を包む。肩口に激痛が走った。あまりの痛みに膝を突き、苦悶に呻きながら蹲った。意識が朦朧とする。視界が歪んだ。鼻梁が熱い。脂汗が顔を覆う。 『傷口を焼き切った。これで血は止まった筈だ。立ってくれ!』  背後の声は続けた。 「力を取り戻すのには時間がかかったわ。全盛期の一割にも満たない状態じゃ有象無象に祓われる危険があったから、各地を転々としてひっそりと人間を喰い力を溜め込んだ。屈辱だったわ」  全身を鼓舞して何とか立ち上がる。背後を振り向いた。が、そこには閑散とした霊園が広がるだけで、人影はなかった。  背中に一文字の激痛が走る。紫電の防護がまるで役に立たない。受け身も取れず倒れ伏す。頬に熱された地の感触が広がった。 「でも手っ取り早く力を取り戻せそうな手段が空から降りてきた。いい機会だと思って久しぶりに静岡へと戻ってきたら──クフフ」  下卑た笑いが耳朶を打つ。 「あなたを見かけて驚いたわ。随分と成長していたけど親友だもの。すぐに気づいたわ」  思考がまとまらない。喉を震わせて叫び、立ちあがろうと努めるが、またしても背中に激痛。撫で斬りにされたような感触が走る。片膝を突いた。  この痛みには覚えがある。忘れもしない。 「ああ、そうか。そうなん、だな!」 「そして。あなたの考えも瞬時に悟ることができた。だから空から堕ちてきた怪異を取り込むついでに、意趣返しをしようと思ったわけ」  背後の声からは心底の喜色を感じられた。楽しくて仕様がないといった様子で女の声には軽快な抑揚があった。下卑た笑いからはどうしようもなく捻じ曲がった性質が伝わってきた。  何かが放物線を描いて眼前に落ちる。細い腕だ。その切り口は乱れた映像のように歪んでいる。イブのものだろう。  もはや悲鳴すら上がらなかった。  その代わりに胸中で底冷えする感情が、鎌首をもたげて冷えていった。 「遅かれ早かれ復讐はするつもりだったけど丁度良かったわ。力は全盛期以上に戻ったし、この意趣返しが終われば私の人生はようやく始まる。屈辱の過去を打ち払い何の憂いもなく生きていける」  怒り。それでは収まりきらない、夏の熱気すらも退かせる凛凛たる感情。 「それにしても、。あの時に比べると随分衰えたのね」  そのあだ名で呼ぶのはこの世で一人しかいない。しかし今は。  剥いた歯茎から生暖かい息を吐き出し、今度こそ立ち上がる。  今度も背中を撫で斬りにされたが、不思議なことに痛みはなかった。  ただ底冷えした殺意だけがあった。  背後の気配に言葉を投げる。 「よお不細工。訊いてもねえのに、よく口が回るじゃねえか」 「……生意気。あなたも変わらないようね」 「背子、頼む」説明する余力はなかった。 『わかってる』それでも彼女には伝わったのだろう。  晴明を名乗る霊が残した言葉の意味をようやく理解した。おそらく彼はこの状況を予測していたのだ。観測していたのだ。  だから六壬などという秘奥を二階堂に託した。だから椎倉の死後を工面するなどと言い残した。  時間を止める相手に対抗するには未来を読むしかない。それは背子も二階堂も身を以て理解していた。  背子から導かれた紫電が弾ける。  未来が眼前に広がった。  幽体離脱したかのように視点が俯瞰に切り替わる。ひどい酩酊感に襲われた。  霊園前には血塗れの二階堂自身。そして背後に立つのは、歪んだ成長を果たしたかつての親友──大怪異口裂け女だった。  視界に秒数が現れる。十八時四十五分。  それから十五秒間。二階堂は死なない程度に切り刻まれる。その後、口裂け女は十八秒間喋り、命を刈り取る一撃を二階堂の首に見舞う。つまり。予め攻撃の予測地点に右手を置いておけばいい。 「来る……」  空気が唸るように振動した。次いで全身に夥しい違和感が走る。やはり痛みはない。ただ何かに切り付けられているという感覚だけが残った。眼下には落陽の朱に焼かれた黒々とした血の池が形成されていった。切られたそばから紫電で焼いて止血を施される。  十五秒。  斬撃の嵐が止む。と、背後で口裂け女が言った。 「本当に弱くなったわね。好都合だけど味気ない。なんだか萎えちゃったわ」  十秒。 「……抵抗する余力もないみたいだし、そろそろ楽にしてあげる」  七秒。 「バイバイ」  一秒。  右腕を掲げた。言わずとも背子は右腕だけに紫電を集中させた。そこが攻撃の来る座標だった。  果たして、掌に衝撃が走った。  瞬間。  渾身の力で握りしめた。  口裂け女の呆けた声が耳朶を打つ。 「お前は何処へも行かせない!」  叫び。血の飛沫が舞った。 『こっちへ、来い!』  二階堂が触れた怪異は、背子の下へと送られる。経路を辿り、彼女の世界に辿り着いた怪異に明日は訪れない。  握りしめた真の腕が脱力した。  片腕だけの二階堂は姿勢を崩して、尻餅をついた。  視界が歪む。制御できない愛おしさや後悔が両目から飽和し、止めどなく頬を伝う。  空になった親友の身体を抱いて咆哮した。 「もう誰も、お前の身体を弄ぶ奴はいない」 ※  賭けだった。  真の身体に格納された口裂け女の魂は下手をすれば肉体と強く結びついて、楔の世界まで引っ張れない可能性があった。 「ま、杞憂だったか」  真の身体は本人に所有権があり、決して怪異のものにはならない。口裂け女を楔の世界に転移できたのが何よりの証左となった。 「何よ、ここ」  いつまでも沈まない落陽。終わらない丑三つ時。誰もいない教室。黄昏はあの時から向こう世界を朱く染めている。  風に煽られて白いカーテンが揺れた。  眼前に現れたのは二階堂の人生を狂わせた元凶だった。  黒いマスク。乱れた黒髪。覗かせる片方の目は死んだ魚のように黒く濁っている。赤い外套から伸びる指は鋏の刃。それは紛うことなき大怪異。口裂け女。 「久しぶりだね、不細工」  声の抑揚もままならず、背子は憎き元凶へと言葉を投げた。 「な、なんであなたがここに、居るのよ」  口裂け女があからさまな狼狽を見せる。 「く、ふふふ」  喜悦を抑えきれない。背子は人差し指で宙をなぞった。  すると。  口裂け女の胴は二つに裂けた。血飛沫が舞い教室を濡らす。 「こ、この力、どうして!」 「十で神童。十五で才女。二十歳(はたち)過ぎれば只の人ってね」  二十歳という峠を超えた二階堂は、視ることしかできない。だから紫電の操作は背子に任せる他ない。それを見越して作ったのが楔の世界だった。  恒常性としての力を手繰ったのだろう。口裂け女は千切れた胴を繋ぎ合わせると息を切らしながら言った。 「そういうこと。理解したわ。そこまでして私を殺したかったのね」 「それはお互い様でしょ。いやらしくタイミングを見計らって意趣返しするなんてさ。子供じゃないんだから」  嘆息してイブを想った。彼、あるいは彼女とは一時会話を交わした程度で、二階堂ほど情を寄せていたわけではなかった。それでもあんな別れ方は嘘だと思った。  椎倉も巻き込んでしまった。哀れ口裂け女の標的にされてしまった。あれほど酷い最期はない。  指先に紫電を集中させて、指を鳴らした。  口裂け女の側で凝縮された超質量が閃く。  教室中の椅子や机が宙を舞い、窓ガラスが割れた。  背子は紫電の防護を展開して身を守った。  口裂け女は文字通り爆ぜた。  血の雨が降る。  割れた黒板が落ちて、赤い飛沫が撥ねた。  そしてまた。恒常性の力を以て怪異は再生した。 「調子に乗るなよ、クソガキ。今の私はあの時以上の力を有している」 「それがどうした」 「てめえだって殺せる。そう言ってんだ!」  口裂け女の姿が視界から失せた。  まるでマフラーを改造した単車が通り過ぎたかのように空気が唸り。  指先から徐々に背子の肉体が削がれていった。まるでシュレッターに巻き込まれた紙のように、血の飛沫を撒き散らしながら身体が解かれていく。  果たして── 「細切れだ!」  口裂け女の濁った声が教室に響いた。  ──ひき肉になった肉体は元に戻った。  もはや恒常性の再生すら必要としない。楔の世界は不変の世界。背子の死は停止した時間の理に反する。だから理が背子を元に戻す。死は許されていない。  ただし。楔の世界に紛れ込んだ異物(口裂け女)は例外だった。  吐息を漏らす。と、暴風が巻き起こり口裂け女を吹き飛ばした。  割れた窓枠を超えて、怪異が校庭へと落ちていく。  その跡を追うようにして飛んだ。  自由落下しながら── 「お前はあの時、逃げんたんだ」  ──夥しい紫電の槍を放った。  淡い白を纏った死の雨は口裂け女を貫き校庭で磔にした。  地に足が着く。 「勝てないと悟ったんだ。身に宿した恒常性で再生途中の二階堂を見ておきながらその場を去ったお前は、恐れていたんだ」  そうでなければ人を間引く星の意思が、目の前の人間を見逃す筈がない。  悠然と歩みを進めた。 「ち、が、う!」 「だったらあの時の続きをしよう。私を殺してみろ。恐れて逃げたのではないと証明してみせろ」 「言われずとも──」  口裂け女はマスクを剥ぐと、 「──私、綺麗?」  耳まで裂けた口を露わにした。鮫の牙を思わせる歯が列挙する。  それは因果を確定させる怪異の法則。問いかけに答えなければ死。答えても待っているのは死。箝口令を破り、噂は広がり、人々の共通認識として形成され星に汲み上げられた怪異に与えれたのは、都市伝説の再現。  恒常性の性質から考えるに問いかけをされた時点で、対象の死が確定するのだろう。  口裂け女の都市伝説。怪異に遭遇して、問いかけをされて、被害者は二択を迫られる。  そして何を答えようとも怪異に殺される。都市伝説にその先はない。だから問いかけをされた対象者は必ず死ななければならない。怪異の持つ法則は、概ねそのような呪いだと思われた。  しかし。 「言った筈でしょ、不細工だって」  躊躇せず返した。 「吠えたな!」  怪異が鋭く笑った。  磔から脱した口裂け女が姿を消す。  空気が唸り斬撃が迸り、背子の肉を悉く削いでいった。しかし切られたそばから再生していく。絡みついた因果さえも楔の世界は退かせた。 「そればかり。二番煎じもいい加減にしろ」  紫電の巨腕が高速で駆ける怪異を捕らえて投げ飛ばす。  校庭を囲むようにして立つ緑のネットを突き破り、口裂け女が通学路へ飛び出した。 「それと──」  閾値を超えた紫電の強化を施して駆ける。  と、あまりの速度に肉体は解けていった。  それでも世界は背子の死を許さず、解けた先から再生させる。  瞬きの間に口裂け女との距離を詰めた。 「──高速移動はお前の専売特許じゃない」 「舐めるなッ!」  口裂け女が三度姿を消す。  倣うようにして背子も移動を開始した。  限界を超えて。  停止した時間の中で紫電が迸る。  刹那を経て現れたのは、四肢をもがれた口裂け女。  時間を制したのは背子だった。千切った脚を放り投げる。 「この場所に見覚えはないか、不細工」 「は、はあ?」 「覚えてないとは言わせない」  再生を果たした口裂け女を紫電の縄で磔にした。 「し、知らねえよ、何処だよ」  そこは二階堂の人生を止めた場所。真が死んだ場所。電柱が整然と並び、住宅街の中へ落陽が沈みかける因縁の場所だった。 「クソ、こんな、もの」  怪異が宙でもがく。 「そうか、覚えていないのか、そうか」  こめかみが痙攣した。血が滲むほど手を握りしめて、歯を剥いた。  紫電の縄は解けない。それは異物を拒絶する世界の意思だった。 「ああ。そういえば、肉体が欲しかったんだよな」  十で神童。それは概念にすら干渉する大いなる力。肉体を持たない怪異を受肉させる程度は容易かった。  裡に眠る恒常性の力が閃く。 「う、嘘でしょ、こんなことあり得ない!」 「よかったな。これで人間の痛みもお前のものだ」  紫電で夥しい刃を形成し、高速に駆動させた。それはまるで意思を持つシュレッターのようだった。受肉した口裂け女の爪先から切り刻んでいく。  黄昏に怪異の金切声が響いた。 「い、ぎッ! がああああああ!」 「お前に殺された数多の人間が! 同じ痛みを味わった筈だ!」  肺から搾り出した悲鳴。息継ぎをしてまた悲鳴。怪異の嘆きは止まず。足元には挽肉と血が広がった。 「や、やめ! お願い、よ!」 「命乞いした人間をお前は見逃したのか?」  踝までを解き終わった紫電の刃が脛へと上がっていく。 「ひぎい! ああああああ!」 「受肉した生物がこの世界で死んだら、さあどうなるかな。魂は現世に戻れず怪異は星の胎内に戻れない。楔の世界に拒絶され続けるだろう。それは如何ほどの苦痛だろうな!」 「いやああああああああ!」 「く、あはは!」  思わず笑いが込み上げた。腹を抱えて大声で嘲笑った。  飛び散る血肉を全身に浴びながら、 「なあ。聴いているか、真」  天を仰いだ。
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