一話 厭世

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一話 厭世

 薄暗い狭隘な個室の中で少女の歌声が反響する。スピーカーから放出される重低音が腹に響き、鼓膜を揺らした。  いかにも現代風なポップなメロディに、どこかで聞いたことのあるような愛を表現した歌詞は、あまりに趣が無かった。  少女──名前は覚えていないので少女Aと呼んでいる──の歌唱力は、現代の価値観を基準にすれば高い方だと思われた。その証拠に、盛った猿のように沸いた他の有象無象も恍惚を顔に浮かべている。  屋矢(おくや)はいい加減、時代の変遷につれて進化した歌には慣れていた。が、やはり歌人の紡ぐ詩の方が何倍も趣深いという考えに変わりはなかった。  壬生忠見(みぶのただみ)の詩に想いを馳せる。  と、屋矢は虚しくなった。自分はいつまで燻っているつもりなのだろう。  隣に座した安田に肩を叩かれる。彼は安い作りのグラスを二つ掲げて、 「注いで来てやろうか」  幼い顔に微笑を作った。  かぶりを振って遠慮した。希釈を重ねた不味い液体は、もう飲む気にはなれなかった。  少女Aが歌い終わり席に着くと、彼女はマイクを差し出してきた。網目状になった球体が眼前に迫る。 「屋矢くんは歌わないの?」 「ああ。僕はいいよ。みんなの歌を聞いているだけで」  作った偽物の笑顔を浮かべて見せる。 「私、聞いてみたいなあ、屋矢くんの歌も」  少女Bが媚びた声を発した。耳障りな音が耳朶に張り付き、思わず身震いした。肌がぞわぞわと粟立ち、冷や汗が額で滲んだのを感じた。  限界だ。このままでは精神に異常をきたしそうだった。付き合いはこのくらいでいいだろう。学舎という閉鎖された治外法権でストレス無く生きるには、友人を作った方が好都合ということを学んでいた。故に研究を後回しにして、時おり有象無象と馴れ合う必要があった。  しかし。これ以上は耐えられない。耳障りな音、下水に等しい飲料、少女からのあからさまな好意。精神は疲弊していた。思わず立ち上がる。 「屋矢くん……?」 「すまない。予定が入っていたのを完全に失念していたよ。今日はもう帰らないと」  声が震えそうになるのを堪えて言った。 「何の用事?」少女Bが訊いてくる。  彼女には関係のないことだろうに。多少の思慮があれば、他者の事情に不必要な干渉はしない筈。可哀想に。育ちが悪いのだろう。適当な言い訳を並べた。 「ただの塾さ。サボると母がうるさくてね」 「ええ、夏休み中にも塾かよ。やっぱ優等生は違うなあ」  安田が柔和な表情を浮かべる。その言葉に皮肉はなかった。彼は稀に見る純真さを備えていた。親が役者らしく歌舞伎にも造詣が深い。気の進まない今日の付き合いにも、彼が頭を下げて頼むので同行していた。どうやら少女Aに気があるらしい。一人で誘う勇気がなかったのだろう。 「屋矢くんは、うちみたいな進学校で常に成績一位だもんね。塾くらい通ってて当然か」 「悪いね。夏休みが始まって、僕も浮かれているようだ。塾の予定を今まで失念していたなんて、自分でも信じられないよ」  財布から札を何枚か出してテーブルの上に置いた。印字された偉人の顔に違和感を覚える。無論、目には馴染んでいた。それでも脳が勝手に拒否反応を起こすので、どうしようもなかった。 「こんなに出さなくて大丈夫だよ」  安田が札の何枚かを返そうとしてくる。  掌で制した。 「いや。途中で退室するんだ。これくらいはさせてくれ」  金には困っていなかった。両親が経営する会社が成功を収め、莫大な富を築いているからだ。 「でもさ」 「いいから。ね」 「わかった。でも今度、昼飯くらいは奢らせてくれよな」 「気にしなくていいよ。またね」  やはり偽物の笑顔を貼り付けて、狭隘な部屋から退室した。薄暗さから転じて廊下の人工的な明かりが網膜に悪い。眩しさに目を細めた。  外に出ると、薄汚い空気を目一杯に吸い込んだ。  肌を焦がすほどの鬱陶しい夏の日も今は心地良い。凡人と一緒に箱詰めにされていたひと時を思えば、暑苦しさなど可愛いものだ。  帰宅したら、すぐさま研究の続きに取りかかろう。決意を新たにして歩き始めた。  静岡の街は人でごった返していた。  学徒と思しき子供。黒のスーツで身を包み追われるように足早な会社員。そのどちらでもない軽装の若者。誰も彼もが鬱陶しくて仕様がない。  この世は誤りで満ちている。有象無象が当然のように現在の時を享受しているが、それらは全て間違いであることに誰一人として気づいていない。自分だけが孤独に誤りを自覚している現状がもどかしかった。  故に。研究は続けなければならない。気色の悪い現在を変えるために研鑽を積み、いつの日か自分が正しいのだ、と世界に真実を突きつけるために。  遠距離からでも視界に入る悠然と聳えた塔に向かって歩み続ける。天を穿たんばかりに突き抜けた背の高い建造物が、帰るべき場所だった。  タワーマンションと呼ばれるそれを屋矢は気に入っていなかった。背が低くとも横に広がり、地位を誇示する土地と家紋があれば十分だと考えているからだ。  母曰く現代では塔のような建造物が地位を表現する最も適した手段なのだと言うが、まるで理解できなかった。  酷暑の苛みが関係性のない不満を脳裏に列挙させて止まらない。小さな苛立ちが募るのを自覚すると、歩幅は自然と大きくなった。  先刻の狭隘な空間よりかはいくらかましだと思っていたが、外も同じようなものだと思い直した。跋扈する凡人に詰められている点だけでいえば、カラオケボックスも世界もそう変わらない。  視界にちらついて消えない凡人に心底から嫌気がさして、路地裏に入った。日陰であるし近道だったから、丁度よかった。  まるで一種の植物であるかのように壁を走る数多の配管。無軌道な落書き。捨てられた段ボール。湿った地面。あまり気持ちの良い場所ではない。  それでも心は落ち着いた。煮えたぎる怒りは鳴りを潜めて、精神が徐々に安寧を取り戻していく。視界に有象無象が居ないだけでこうも安堵できる。  路地裏はそれなりに広かった。小柄な人間なら二人くらいは通れるだろう。  ふと背後から気配を感じた。  上体を捻って振り向く。  視線の先には一人の少女が立っていた。それも顔見知りだ。しかし何故、彼女がこんな場所にいるのだろうか。先刻までカラオケボックスにいた少女Bが。残って歌遊びに興じていたのではなかったのか。 「ご、ごめん。後をつけるつもりじゃなかったんだけど。えっと」  少女Bが、しどろもどろに言葉を並べた。  要領を得ない態度に苛立ちが募る。凪のように落ち着いていた胸中で、黒々とした感情が再び鎌首をもたげた。  笑みを崩さないように努めて訊く。 「……どうしてここに?」 「う、その。言いたいことがあって。でもなかなか声をかけるタイミングが無くて」 「落ち着いて言ってみて」 「う、うん。ふう。じゃあ言うね。言っちゃうね。うん言うよ」  早くしろ、と喉元に迫り上がってきた冷たい言葉を飲み込んだ。彼女と相対して壁に肩を預けた。 「い、いきなりこんなこと言って、驚くかもしれないけど。タイミングおかしいんじゃって思うかもだけど」 「うん」  少女Bが胸に手を当てて、大きく息を吐いた。焦点が合っていない。どうやら極度の緊張にあるようだった。 「……好き」 「は?」意呆けた声が漏れる。  告白自体に衝撃は無かった。恋慕の感情をぶつけられたことなど過去に数え切れないほどある。 「屋矢くんのことが、好きなの」  少女Bから好意を寄せられていることは屋矢自身、漠然と察していた。が、彼女の言う通り何故このタイミングなのか。もっと適切な場所と時間があるだろう。 「ごめんね急に。あの後みんなに背中を押されちゃって私もその気になっちゃってさ。もう言っちゃおうって。今までずっと苦しくてどこかで吐き出さないと、どうにかなっちゃいそうで」  少女Bが蛇口のばかになった水道のように次々と言葉を列挙させた。後半の台詞なんかはカラオケボックスで聴いた陳腐な歌詞のようだった。渇いた嘲笑が漏れるのを抑えることができなかった。  これだから学徒は嫌いだった。連中は直情的で後先をまるで考えない。思慮に欠けた言動が目立ち、群れることでしか自身を表現できない憐れな生き物だ。  学舎で孤立すると、必ずと言っていいほど人間関係のいざこざに発展した。群れて迫害をすべく、さながら誘蛾灯に集う蛾のように有象無象は干渉してきた。  無論、迫害のために集った学徒は全員、電光に焼かれる蛾と同じ運命を辿らせた。  しかし、その度に人間を間引くのは効率が悪かった。排除しても排除しても次から次へと同じような輩が現れて、その度に血の海を形成するのでは流石に目立つ。研究に必要な材料として使うにしても、相手と場所は選びたい。  故に望んでもいない交友関係を築き立ち振る舞ってきたが、やはり質は問わねばならないようだった。適当に選抜して付き合いを作るのは、かえってストレスに繋がりかねないと実感した。 「そう──」  心底からどうでもよかったが、 「──僕のどこが好きなの」  一応は理由を訊くことにした。 「う、うん。まずは容姿かな。正直、一目惚れだった。それから運動神経と学力。完璧超人って感じで、憧れの気持ちが強いかも。あとほら御両親が凄いじゃない。会社とか経営しててさ。何だっけ、エンジニアリ?」  開いた口が塞がらなかった。  少女Bの言う好きなところには、見事に上辺の情報だけが並べられていた。これが意図してやっていないのだろうから驚きだ。両親のことは屋矢自身の魅力には関係のないことだったし、社名すら覚えられていないのだから彼女の抱える恋慕の底は見え透いていた。  社名はそのまま 「屋矢エンジニアリング」  だった。 「ああ、そう。それだ。私、経営とかに憧れがあって──」  まだ続けようとする彼女を掌で制した。  うんざりだった。 「あのさ。気持ちは嬉しいけど、君の言葉にはまるで本質が宿っていないよ」 「そ、そうかな」 「僕の内面の価値に全く気がついていない」 「もちろん、人に優しいところとか……」 「ああ。ああ。ああ」  かぶりを振って彼女の言葉を遮り、 「違う。全然わかっていないじゃないか」  語気荒く非難した。  怒りは臨界点を超えていた。視覚情報に支配された少女Bの物言いもそうだが、誤った世界の住民から恋慕の感情を向けられたことが不愉快だった。  屋矢の一族は大願成就のため、必ず子を残さなければならなかった。が、その相手は必ず自分で選定するという信条が大前提に据えられている。求められて応じたことは、ただの一度もなかった。 「ご、ごめん」 「内面というのは文字通りの内面じゃない」  スラックスのポケットから一枚の式札を取り出すと、路地の壁に貼った。人払いの結果が周囲に展開される。 「魂と血だ」 「ど、どういう……」  心は既に決まっていた。  名も知らない少女Bをこの世から消す。  友人は慎重に選定する必要があった。過去の記憶から比較しても、眼前の少女は他に類を見ない阿呆だと思った。彼女のような凡人に付き纏われる機会は極力避けたい。学生生活の付き合いは最低限で構わなかった。  殺生への躊躇は無い。  これまでも必要に応じて間引いてきたのだから、抵抗感などある筈もなかった。差し当たっては眼前の少女だ。  しかし。自分の中に一握りの情が残っているのも事実だった。  タブレット端末を取り出して、電源を押下する。壁紙は歌舞伎のある演目における正義漢に設定していた。  路地を進み少女Bに迫ると、端末の画面を彼女に突きつけた。  正義漢を知っているのなら生かす価値はある。この場は見逃してもいいだろう。 「ねえ。彼を知っているかい」 「えっと、急にどうしたの? なにこの古そうな絵。そんなことより告白の返事は」 「そんなこと?」  正義漢は屋矢の人生そのものだった。それを名も知らぬ少女に、そんなもの呼ばわりされて。  思考が白で満たされた。一握り残っていた情は完全に霧散した。 「屋矢くん?」 「……悪……罰示」  もう憚る必要はない。誤った世界の住民というだけでも罪だというのに。その上、正義漢も知らないとあれば、生かす価値は一片たりとも残っていない。 「一番」  怨嗟とともに吐き出した。  刹那。  少女Bの指から一本が離れて宙を舞った。 「え。なにこれ、なにこれなにこれなにこれ痛い痛い痛い痛い!?」  紅く塗れた手を抑えて、少女Bがへたり込んだ。 「お、お、屋矢くん、なんか、私の指、取れちゃった、きゅ、救急車、呼んで!」  どことなく間抜けな物言いで、少女Bは懇願した。 「それは無理だ」即答する。 「な、なんでよ!」少女Bが叫ぶ。 「だって、ここには誰も入って来れない」  人払いの結界は機能し続けている。術者である屋矢が自主的に解除するか、あるいは死なない限り、結界が消えることはない。  本来であれば、素質の無い凡人が最初から結界内にいた場合は、念力にあてられ気絶してしまうところだが、そこは調節していた。彼女には苦しんでから消えてもらわなければ腹の虫が治らなかった。 「い、意味わかんねえよ、いいから早く!」  本性を剥き出しにした少女Bが吼える。  先刻まで頬を朱に染めて、恥じらっていた少女とは別人のような形相だった。彼女の頬には絶え間なく大粒の雫が伝い、広い額には多量の脂汗が浮かんでいた。抑えた指の隙間からは血が滝のように流れ、地面に汚れた池を作っていた。  『一番』に再度の命令を下した。  またしても少女Bの手から指が。今度は数本単位で離れて落ちた。紅い池に波紋が広がる。彼女はまたしても絶叫した。  劈く悲鳴で鼓膜が破れそうだった。たまらず指を両耳の穴に挿しこんだ。悲鳴は水の中で聞くような鈍い音に変わり、幾らかましになった。  赤池を退けるもう一つの体液が地面に広がる。  それに気づいて、 「汚いなあ」  思わず後退した。  少女Bが蹲り頸椎が晒される。その光景に既視感を覚えた。丁度いい体勢だ。  三度『一番』に命令を下す。  斬り落とすには些か狭い場所だが、彼は本職の中でも一流だ。問題ないだろう。  少女Bはまだ何事かを喚いていたようだったが、耳朶は濁った音を拾うばかりで彼女の声は届かなかった。  服に血が飛び散ってはかなわない。更に後退して、その時を待つ。  果たして、路地裏の壁に鋭い切れ込みが入ると、次いで少女Bの首が胴から切り離された。  生半可な技術では、首を刎ねるには至らない。普通は硬い骨に何度も刃を叩きつけて斬り落とすことになるのだが、対する『一番』には一太刀あれば十分だった。鮮やかな手練に惚れ惚れする。  少女Bだった肉塊がごろごろと地を転がった。切れ口からは止めどなく紅い滝が流れ落ちている。片付ける必要があった。  『一番』を収めて言葉を紡ぐ。 「掃」  念じると文字通り宙が開き、その中から巨大な白蛆が這い出した。  蛆の頭部は円形に切り取られ、枠には鮫のような牙が列挙している。赤黒い咥内からは唾液に塗れた舌体がだらりと垂れて、遠くからでも鼻をつくほどの臭気を放っていた。  蛆がぬらぬらと鈍く光る巨体を蠢かせて窮屈そうに進むと、少女Bだった肉塊を貪り始めた。味わうように長い舌で紅い池を舐り取るのを最後に、少女の痕跡をこの世から悉く抹消した。その魂さえも浮かばれることなく『掃』の胎内に格納させる。  それを見届けると、胸中に蓄積された苛立ちが幾らか消えていることに気づいた。 「あ〜スッキリした」  腰に手を当て、大きく伸びをする。  役割を終えた『掃』を式札に戻した。  後日、少女の失踪が発覚し、警察による事情聴取が始まるだろう。少女Bと最後に出会っていた奥屋も、参考人として取り調べの要請を受けることになる筈だ。面倒な粗筋を想像して嘆息した。  しかし。これ以上、少女Bに付き纏われないことを考えたら、許容できる範疇だ。  いくら取り調べをしようとも証拠が見つかることはないし、少女Bの遺体が見つかることもない。物理的な痕跡が全て消えているのだから、屋矢という犯人の足跡を追うことは不可能だ。  街に配置されている周辺のライブカメラも人払いの結界内を映すことはできない。仮に犯人扱いされたところで式神による殺害は立証できないだろう。霊能という人材を持たない組織では、真相に辿りつけない。  屋矢は紫電を纏った後──紫電に覆われた状態でもやはりカメラには映らない──人払い用の式札を剥がした。  路地裏から出る頃には、きっと少女Bの顔すら思い出せなくなっていることだろう。多少は靄の晴れた頭で、再び夏の日を浴びた。  瞬間。  異常を察知した。鋭敏な本能が、突如として街中に湧いた力の本流を感じ取る。 「なんだこれは」  力の原水は明らかに常軌を逸していた。気軽に現れていい水準を優に越えている。  仮に霊能者が何らかの術を発露させたとして、それを察知できるなんてことは、ほとんどない。霊能は目立つのを嫌い、紫電を纏う状態で隠密を常とするし、外的要因により能力が放出されてしまったとしても、余程強大な力でない限り感じ取ることはできない。  それも白昼堂々と街中でなどと。信じ難かった。霊能跋扈する街で、絶大な力を殊更に放出するなど挑発に等しい。 「今日は厄日だ」思わず呟いた。  信じ難いことに、力の波にあてられた肌は粟立っていた。  本能が告げている。力の原水──もはや特異点とでも呼ぶべきそれと対峙するのは避けた方がいい、と。  しかし。挑発されて逃げ帰るのは、屋矢の誇りが許さなかった。どうしても叩き潰さなければ気が済まない。特異点の正体をこの目で確かめなければ、研究にも集中できないだろう。  特異点が発生した場所へと歩き出した。  距離はそう遠くはない。両替町の辺りだろうと検討をつけた。正確な位置は不明でも凡その場所は特定できた。 「誰かは知らないが、いい度胸だ」  両替町は狭い道が網のように巡り、日の暮れから開店する店やチェーンで混沌としている。休日は特に人混みがひどく、車が通るのに難儀するほどだ。  頭は特異点の存在で支配されていた。わざわざ凡人を避けるような真似はしない。道を遮る邪魔者は突き飛ばした。  目視不能な屋矢と衝突して戸惑う凡人の声が度々耳朶を打った。気に留めることなく進み続ける。 「どこだ。もう大分近い筈だ。どこにいる」  周囲を見渡しながら、ひとりごちる。凡人ばかりが目に映って鬱陶しい。  全身を撫でる力の本流は、特異点がすぐ側にいることを示していた。肌の粟立ちは未だに止まらない。  極度の緊張状態。久方ぶりに感じる本能の訴えに、更なる憤りを感じた。  上位存在である自分は常に悠然と構えていなければならない。  唯一恐れるものを挙げるとするならば。  脳裏にある男の顔が過った。どれだけ時間を積み重ねようとも、彼の憎たらしい顔は鮮明に思い出せた。  彼に比べれば、特異点など可愛いものだった。憎き男を引き合いに出して心の平静を保つなどあってはならないことだったが、今だけはその存在に感謝した。  彼への憎しみがあればこそ愚直に研究を続けられている。その熱量と比較すれば、何事も大したことには感じられなかった。 「これは恐れではない。特異点から感じるものは得体の知れなさだ。それが無様にも肉体の緊張を齎している」  言葉に出して自分の状態を自覚すると、心は波立たない平静を取り戻した。変わらず緊張を続ける筋肉はそのままでいい。それは本能に兆すもの。鋭利な感知能力の証左でもあった。  波紋の一つも広がらない心境を以て、特異点への意識を集中させる。  そして。  行き交う凡人の中から、ようやく常ならざる者を視界に捉えた。 「アイツだ。間違いない」  湧き起こる力の放出を抑えようともしないのは自信の表れかと思っていたが、否。力の抑制など気に留める必要がない存在なのだ。  受肉を必要としない異常性質。人類とは相容れない反抗勢力。恒常性。 「道理で」  東京の通り魔連続事件を引き起こした後に失踪した口裂け女。  数多の農村を滅ぼし除霊に向かった霊能者を悉く鏖殺した大怪異。  日本全体の共通認識にまで上り詰めて、神に成った厠の少女。  特異点からは、過去に現れた凡ゆる使者とも違う独特な力を感じた。 「日本人が増えすぎたのか。いや違う。国外なら頷けるが、少なくとも日本は超が付く高齢化の時代。鋏の女が現れてからそう時間も経っていない。あるいは大地に余計な刺激を与えたか」  考えを纏めるために、ぶつぶつと呟きながら特異点の背中を追い続けた。  ふと思い至る。  これが霊能者であれば挑発の報いを受けさせるところだったが、実際に現れたのは恒常性だ。特異点を追う理由は無かった。 「無いのだが。さて」  同時に、見過ごすのも惜しいと考え始めていた。  恒常性が現れたということはつまり。人間の虐殺が始まることを意味している。誤った認識の現代人がいくら死のうとも構わない。虐殺を止める気は更々なかった。  しかし。未だかつて感じたことのない強大な力は流用できそうだった。特異点を捕らえて高密度のエネルギー源に置換すれば、研究は飛躍的に進む筈。あるいは、それだけで大願成就の可能性すらあった。  やはり。 「なあ、そこの少年」  特異点は材料にする。  紫電の纏った状態で発する声は、凡人に聞き取ることはできない。それはある種の交信に近かった。屋矢の音は異質な存在にしか届かない。  呼びかけに気づいたのだろう。特異点が振り向いた。  年端もいかぬ子供だった。無地のシャツに短パン。あどけない顔に円な瞳。  とはいえ少年は人間ではない。見た目とは相反する害ある存在だ。 「どうしてここに現れたんだ。日本なんて人不足で海外からの労働者に頼ってばかり。間引くほどの数じゃないだろう」  当たり障りのない台詞を投げた。応えは決まっている。否定か、それとも無言のまま襲い来るか。恒常性とまともに言葉を交わすことなどできようもない。 「さあ。私にもよくわからない」  帰ってきた台詞は意外なものだった。漏出する甚大な力とは相反して、敵意を微塵も感じない。驚くことに会話をする余地がありそうだった。  恒常性と意思疎通を図るのは不可能だ。彼らが持つ意思。それは人類を殺すために植え付けられた稼働理由でしかなかった。 「君はガイアの恒常性ではないのか?」 「待て。検索する」  特異点はしばらく沈黙を守った後、 「該当なし。私と星は関係ない。ただ恒常性の機能は利用できるように設定されているらしい」  無機質に答えた。  他人事のような物言いは気になるが、それよりも特異点の正体だ。恒常性でなければ残る可能性は。 「それではアカシャの機能か」 「待て。検索する」  特異点は再びの沈黙を経て、 「該当なし。私と人類は全く関係がない。機能の利用も許されていないらしい」  淡々と答えた。 「ふん。よくわからないな」  肩をぶつけてきた凡人を突き飛ばした。 「私もよくわからない」  特異点に道行く凡人が衝突することはなかった。誰もが彼の立つ場所を避けて通っている。おそらく動物的な本能で異質な力を察知しているのだろう。 「君がわからないんじゃ、誰もわからないと思うけど。まあ何れにせよ、限りなくガイア側の存在のようだ。少年、突然で悪いが僕に協力してくれないか」 「協力。それはわかる。具体的には何をすればいいか」  瞠目せずにはいられなかった。まさかここまで話が通じるとは予想外だ。もしかすると穏便に事が運ぶかもしれない。労せず協力を仰げるのなら、それに越したことはない。  突如として湧いた大願成就を前に、持ち上がる口角を抑えることができなかった。 「誰が聞いているかもわからない状況だ。詳細は伏せたい。故に要点だけ言うが、君を高密度のエネルギー体として利用したい」 「利用。それはわかる。文字通りの意味。だが二つの側面を持つ。それは好意的であるか否か。君が言っているのはどちらか」  当然、答えは決まっている。 「もちろん前者だ。世界を変革する崇高な役目を君に与えたい」  それは心からの本心だった。 「世界を変えるほどのエネルギー利用。それは人間的に見て、大きな代償を伴うと予想する。利用後の私はどうなる」  それは勿論。 「消えるんじゃないかな」 「消える。それは人間的に見て、死と同義」  馬鹿なことを言う。 「君は最初から生きていないじゃないか」 「私は生きていない。否。こうして自立稼働している。人間的に見て、それは生きているのと同じ」 「では人間の目線から指摘するが、今の君の状態は、生きているとは言えないな」 「何故」 「受肉していないだろう」  至極真っ当な指摘を飛ばす。 「受肉。それもわかる。肉体が無ければ生きていることにはならないのか」 「勿論。肉体と魂が併さり、ようやく生きていると定義できる」  受肉の観点だけで言えば、特異点は恒常性とほとんど変わらなかった。最初から生きていなければ、死んでもいない。どっちつかずに揺れる怪異だ。 「今の私が消えたらどうなる」  特異点はやはり淡々と訊いた。 「黄泉の国へ渡る。だが安心していい。君の清廉な魂は必ず天国に導かれる」  心にもない台詞を吐き出し、体表に埋め込んだ式札に念力を込めた。『一番』の魂が呼び起こされ、瞬時に顕現可能な状態で待機させる。  首肯しないのであれば、強硬手段に移る構えだった。彼から感じる力は相も変わらず強大だ。苦戦するだろうことは容易に想像できた。しかし大願のためであれば致し方ない。  屋矢には万一にも負けない根拠がある。戦いの最中で活路を見出すことができれば、勝敗は決まるも同然だろう。  言葉の応酬には飽きが回ってきていた。特異点の冗長的な話し方にも、苛立ちを感じている。存外に首を縦に振らない彼に対する疑念は、肥大化の一途を遂げていた。気長とはいえない屋矢は、これ以上の辛抱をするつもりはなかった。 「黄泉の国。それは天国や地獄と同義。つまり私は現世を去ることになる?」 「ああ。その通り。そろそろいいかな。答えを聞こう。君は協力してくれるのかい?」 「否」特異点は即答した。  漠然と予想していたことだが、こうも即座に否定されると面白くない。耳朶の奥で何かが切れる音を聞いた。 「一番」  式札に込められた念力が暴発した。  顕れるのは悪業罰示。悪人の死体を据え物斬り。続けた果てには不満が募り。死体で満足いかなくなった。腰物奉行の立ち合い無しに。夜道で辻斬り悪鬼に堕ちた。  御様御用(おためしごよう)がその一人。  山田浅右衛門(やまだあさえもん)がその一人。  名前も使命も忘却し。ただ振るわれるその一刀は。業の極地に到達し。無辜なる民を数多殺した。執行人。 「斬って善し」  特異点の背後に出現した『一番』は、抜刀し上段に大きく構えると、一息に刀を振り下ろした。風を切る音すら聞こえなかった。 「な……んだ、なにが」  凶刃は確かに特異点の頚椎を捉えていた。  しかし首が落ちていない。  特異点は喉元を押さえて、驚愕に目を見開いているばかり。それでも全くの無疵というわけではないようだ。彼の喉は乱れた映像のように揺らめき、顔は苦悶に歪んでいた。 「これは……人間的に見て、痛い?」  予想通りだった。恒常性に通じる力であれば、似たような特性を持つ特異点にも通じるだろう、と。 「袈裟斬りにしてやれッ!」  命令に『一番』が応えた。  一太刀浴びた特異点が膝から崩れ落ちる。 「何故。私は攻撃されている。機能の低下を確認。防衛本能による痛みの検知が止まらない。このままでは、私は消える?」 「消えてもらっては困るなあ。そうなる前に君を回収する」  白昼堂々、戦闘を始めるのは、霊能としては望ましくない。何処かで様子を窺っている競合に能力が露見する可能性があるからだ。  しかしその程度のことは関心の外だった。能力が露呈しても構わない。わかったところで秘奥は誰にも破られないのだから。見せつけやればいい。どうせ誰も介入できない。  無論、凡人がいくら巻き込まれようとも気に留める必要はない。  もはや顔も思い出せないが、少女Bのように関係が近しい者だと警察の目が自分にも向く可能性があり面倒だ。  対して無関係の凡人ならば、複数人が消えたとしても私生活に影響はないだろう。 「これ以上の干渉は許容できない。私も抵抗する」  蹲る特異点から更なる力が放出された。尋常ならざる圧力の波が全身を叩き髪を煽る。 「ふん。やはりこうなったか。所詮、話の通じぬ物怪の類。いいだろう」  片手を揚げて『一番』に合図した。自立稼働の命令だ。  彼を自由に動かすのは避けたかった。誰でも構わず斬り伏せてしまい制御が利かなくなるからだ。しかしこの場では自立稼働が有効だと判断した。幾らでも試し斬りが可能である稀有な存在を据えられて、目移りする男ではないと思ったからだ。 「己の意志で動くのは久方ぶり故。加減は期待せんでくれ」  辻斬りの鬼が刀を構えた。煌々と照らす陽を浴びて、刀身が鋭く輝いた。  『一番』を自立稼働に移したということはつまり。屋矢の思考資源(リソース)が空いたことを意味していた。  内蔵する念力器官との経路が繋がり、式札が閃く。 「二番」  再び顕わる悪行罰示。  生まれながらの奇才を以て。歌を紡いだ放浪者。言霊遣って民草操り。悪事を働き私腹を肥やした。平安豪族傀儡従属。首塚怨霊思いのままに。  経歴不明の美丈夫歌人。  藤六左近(ふじろくさこん)が歌を詠む。 「将門は、米かみよりぞ斬られける。俵藤太がはかりごとにて」  青い空に星が瞬いた。『二番』の歌を契機として、地に降り立ったのは──。 「(からだ)つけて一戦(ひといくさ)せん。俺の胴は何処にある」  ──首から下の無い男の頭部だった。 「御前にて」歌人が特異点を指差した。  頭部が特異点へ迫る。  同時に『一番』の凶刃も振るわれた。 「言った筈」膝立ちの特異点が呟く。  と、皮膚が切れかねないほどの圧力の本流が辺り一帯を吹き飛ばした。足裏から地面の確かな感覚が霧散し、身体が宙に浮く。瞬時に秘奥が反応して全身を包んだ。  店の窓ガラスが一斉に割れて、何も感知できない凡人らが埃のように舞う。 「成程これは、予想以上」  再び地に降り立つと、「何?」「どうなってんだよ」音が戻った。「とりあえず離れた方がいいんじゃ」耳障りで仕様がない。「写真撮らなきゃ」誤った認識でのうのうと生きる俗人が。「やばすぎ」己の咎を思い知れ。  臨界点をとうに超えた憤怒は吹き荒ぶ紫電と成って、周囲に放たれた。耐性の無い凡人が浴びれば当然。意識を保つに能わない。周囲の有象無象は、まるでドミノのようにばたばたと倒れ伏していった。 「巻き込まれた不運を呪え」  吐き捨てると、改めて特異点と対峙した。  否。眼前に立つのは既に先刻までの少年ではなかった。 「抵抗する、と」  聳える巨躯。白い衣装。服から覗く青白い肌。腰まで伸びた黒髪は垂幕のようで。特異点は、ある農村で数多の霊能者を葬った恒常性と思しき姿をしていた。それと対峙して帰った僅かな生き残りは、かの怪異をこう呼んでいた。呼称はそのまま。  聳立怪異。  特異点は、ガイアの機能を利用できると言っていた。それは言葉通りを意味する能力だったらしい。姿は変われど声は少年のままであるから、理屈としてはガイアの記憶領域から力を引き出して、自身を格納するといったところだろうか。  仮説を立て、瞬きをした刹那。  特異点が消えた。  刀を構えて腰を落とす『一番』が消滅。  同じく『二番』と首なし豪族も消滅。  彼らの魂が式札へと戻った。 「何が起きている?」  背後に甚大な気配。  凄まじい衝撃音が鳴った。  しかし発動している。  背後を振り向いた。  鑑。それは常時稼働する秘奥。  果たして、鑑は特異点の拳を受け止めていた。人間の手脚と頭を模して作られた式札が屋矢を庇うように宙で五体投地して、特異点の攻撃を防いでくれていた。 「なんだ、これは」  鑑の役割はそれだけではない。  拳を乗せた式札は膨張するように体積を増すと、手脚をゴムのように伸ばして、特異点を殴打した。反撃機能。  特異点の巨体に質量を載せた式札の拳が叩き込まれた。当該箇所が、やはり乱れた映像のように歪む。  瞬時に体勢を立て直した特異点が、視界から再び姿を消した。風を切る音だけが耳を聾する。 「まさか移動しているのか? その巨躯であり得ない動きをする」  体表で脈動する式札から式神を即時召喚可能な状態で待機。特異点の動きを捉えられる瞬間を待つ。  またしても背後に衝撃音。式札のどことなく間抜けな膨張音が響く。が、殴打する拳は空振りに終わった。  今度は眼前で掌底。防いだ式札が膨張。それでも膨張後の拳が伸びる前には、巨躯が姿を消している。その繰り返し。気づけば周囲には連続する打撃音がこだましていた。  拳の応酬は止まらない。あらゆる方向で衝突音が耳朶を打つ。鼓膜がどうにかなりそうだった。  特異点の姿は目視不能。鑑がなければ、最初の一撃で肉塊になっていただろう。 「埒が開かないな。このまま永遠に付き合うわけにもいかない」  手持ちの式神を脳内に列挙された。  一番と二番では相手にならなかった。  ならば、三番、四番、外番。 「いや、順番に試すのも非効率だ」  体内の念力器官から生み出される超質量は無尽蔵ではない。確実に対抗できる手札を切る必要があった。 「(おに)」  続け様に唱える。 「前鬼(ぜんき)」  念力器官が思念を具現化させる。宙を切り裂き眼前に顕れたのは、手斧を持った巨大な赤鬼。地に降り立つ弾みで、臥せたままの凡人の何人かが潰れた。足元で紅い海が広がり飛沫が舞う。それさえも鑑が身を挺して止めた。少しでも害ありと認められたものは秘奥が悉く防ぐ。 「後鬼」  同様に宙を切り裂き顕れたのは、水瓶を脇に抱えた青鬼。視界の端で降り立ち、やはり骨のひしゃげる音を響かせた。巨大な錘を水中に投げ入れたかのように血飛沫が舞う。  ようやく特異点の動きが停止する。 「また何か出た」  間髪入れず、前鬼が特攻を仕掛けた。凡人が踏み潰されて、泥濘を歩くような水音が立つ。  前鬼の速度は、特異点とは比較にならなかった。手斧は悠々と避けられ、脇が隙だらけになる。特異点からすれば攻撃を叩き込む契機だった。  しかし前鬼は攻撃されず、特異点は素早く距離を取った。 「何か不自然。二人の鬼を同時に襲わせる方が合理的。動かない理由がない」  存外に賢しい。  特異点の指摘した通り、後鬼は水瓶を抱えたまま膝立ちの姿勢を保っている。それこそが後鬼に設定した役割だった。  前鬼が駆ける。時おり凡人を潰しながら手斧を振り回した。そのどれもが特異点に当たらない。空振りを続ける前鬼に勝ち目はないように見えるが、それは現時点での話だ。  特異点は逃げ回ることに徹していた。 「どうした少年。これじゃあ、お互いに埒が開かないよ」 「嫌な予感がする」  特異点は手斧を避けながら、 「人間的に見て、これは直感」  前鬼を睨め付けた。 「ではどうする。このまま逃げ続けるかい」 「否定。もういい」  特異点が前鬼の腕を掴み、手斧を止めた。  赤鬼が吼える。左拳を特異点の胴へ叩き込もうとするも掴まれ止められる。  二つの巨体が、煌々と照る太陽の下で膠着状態に陥った。 「なにが?」 「もういい。私は勝てない。君の周囲に展開する謎の術を破れない。私は一方的に攻撃されるだけ。どうしようもない」 「それはどうだろうね」 「かと言って、鬼を撃破するのも望ましくないと思われる」 「想像にお任せするよ」 「故に」 「うん」 「逃走。それしか道はないと判断」  逃すわけにはいかない。 「前鬼ッ!」式神へ檄を飛ばす。  しかし。屋矢の言葉も虚しく、特異点は尋常ならざる膂力を以て、前鬼は文字通り投げ飛ばされた。いやらしい看板の掲げられた深夜営業の店へ、巨体が突っ込む。  思わず前鬼の方へ視線をやった。  再び特異点の方へ目を戻した時には、聳え立つ体躯は跡形もなかった。刹那の瞬間を駆ける特異点を追うのは困難だ。  消耗するだけ消耗させられて、獲物を逃すなど。 「本当に、今日は、厄日だ!」  眉間を絞り、空を仰いだ。  周囲には喧騒が戻っていた。  サイレン、警察の怒声、救急隊員の切羽詰まった声。意識を取り戻した凡人らの嘆き。  ひしゃげた変死体が血の海を作る地獄絵図の中心地で、肺に溜まった苛立ちと疲労を吐き出した。  未だに肌を舐める何名かの鬱陶しい視線がいい加減腹立たしい。 「見ているんだろうッ!」  制御の利かない怒りをそのままに。叫びを撒き散らす。歯茎を剥き唾液が顎を擽った。 「やるなら相手してやるよッ!」  どうせ凡人には聞こえない。  肺が痺れるほどの声量を放ち、覗き見をしていた連中へ凄みを効かせる。と、視線は悉く消え失せた。  肩で息をして、額の汗を拭う。  すぐに特異点を追いたかった。並の霊能では太刀打ちできないだろうが、聳立怪異を一人で祓ったような怪物に目をつけられては、その限りではない。  喧騒溢れる場から一歩を踏み出した。  何かが人中を擽る。  垂れるそれを手の甲で拭うと、目線の位置まで持ち上げて、ようやく気づいた。  血だ。  秘奥の断続的な使用は、予想以上の消耗を齎していた。追うにしても、しばらくの休息が必要だった。  が、何もせずただ休むわけにもいかない。特異点の流用を諦めるなどあり得なかった。イタチごっこも望むところではない。 「視」  舌を打って唱えた。
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