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二話 依頼
「警部。聞くまでもないですが」
助手席に座った能田警部補が脚を組みながら言った。
彼の横柄な態度には、これまでも何度か注意してきたが、まるで堪えた様子が見られないので、藤原は諦めていた。
「なんだ」
「民間企業と警察組織の癒着って、市民は知らないわけですよね」
唐突に放たれた能田の危うい発言で、ハンドルを握る手が狂わされる。慌てて軌道修正を図り、何事もなかったかのようにアクセルペダルを踏む。
「当たり前だろ」だから覆面車両に乗り、わざわざ私服に着替えてまで、お忍びで向かっている。
「まさか口外してねえだろうな」
「コンプラ意識、そこまで死んでないです」
民間企業と癒着している時点でコンプライアンスも何もない。言いかけた台詞を何とか飲み込んだ。
「そもそもだな。怪異を祓うために警察組織は何の干渉もできないので、民間企業に助けを乞うております。なんて言えるか?」
無論、公言できる筈がない。しかし国家は黙認している。自然現象とはいえ、明確な人類への攻撃に対して、国は何らかの対抗策を講じなければならない。体裁など気に留める余裕はなかった。
「汚職もいいところですね」
「言うな」
「というか。どうして僕らが、こんなお使いみたいなことしなきゃならないんですか」
白昼堂々と起きた怪異現象を受けて、上層部は軒並み機能した試しのない怪異対策室に集っている。何度か依頼をした過去のある藤原が抜擢されるのは、当然の流れだった。
新人の能田は付き添いだ。腑には落ちないが、これからも頼ることになるだろう業者と彼を対面させておきたかった。
「仕方ねえだろ。警視監からの命令だ」
「更に上からでしょう」
「ああ。何せ犠牲者が多過ぎる。自然現象だろうが怪異だろうが、俺たちが動かんわけにはいかねえだろ。その上、現場が静岡県警察本部の御前ときた。しばらくまともに寝れねえだろうな」
両替町では、大量の変死体が見つかっていた。正確な数はわからない。どういうわけか遺体が文字通り潰されていて、身元の特定すら困難な状況だった。まるでロードローラーか何かで臥せた人間を挽肉にしたかのような有様で、現場は正に地獄絵図の様相を呈していた。
悲惨な事件と何度も相対してきた藤原でさえ、あれほど凄惨な現場は見たことがなかった。能田は嘔吐していた。
「でもこれって、本当に警察官の仕事なんですかね。怪異って言わば、自然現象じゃないですか。逮捕もできないし、未だに法整備もできていないし。僕らって今、何のために動いているんですか?」
能田の声には苛立ちがはらんでいた。
「市民のためだ」
「でも、市民を守るべき僕らが頼るのは、その市民なわけですよね」
「うるせえぞ!」
図星を突かれて思わず激昂した。
「そんなこと署の全員がわかってんだよ!」
狭い車内に怒声が響く。
「……すいません」
形だけの対策室。自然現象などという口実ではとても免罪符にはなり得ない、怪異の齎す悲惨な顛末。遺体は損傷の激しい場合が多く遺族の下に返すことすらままならない。
警察官が現場で対処可能なことと言えば避難誘導くらいなもので。被害者に与えられるのは底知れない絶望。それと国からの僅かな補償のみ。暗黙のうちに活動する民間企業に頼らざるを得ない現状に歯噛みする他なかった。
それはきっと、能田も同じなのだ。不満や疑念が募り、言っても詮無いことを口にせずにはいられなかったのだろう。
「因みに、国が霊能組織みたいなのを編成するなんてことはしないんですかね」
「今から行く企業にはずっと要請してる」
「応じた霊能者はいるんですか」
「いねえよ。だからこその現状だ」
怪異現象を解体した奇特な偉人が、その教えを義務教育に浸透させた明治の頃から、国は同現象に対する組織を編成しようと躍起になっている。が、この百年あまり一人たりとも募集に応じた霊能者はいなかった。
「一企業が国からの要請を突っぱね続けることなんて、可能なんですかね」
「連中は人間の姿をしているが、中身は獣のそれと変わらん。いざとなれば超常の力に訴えるし、連中がいないと困るのは国も同じ。睨み合いみたいな状況が百年以上も続いてるんだよ」
「治外法権が過ぎますね。人類全体の課題ですし、せめて協力関係という形であれば、体裁を保てたんでしょうけど」
「無理だ。連中はプライドが異常に高い。その上、能力の無い人間を心底から見下している。どんな好条件だろうと与しない。更に言えば、協力関係という形じゃあ警察組織の面子が保てねえんだ」
国と霊能が手を取り合い公的組織として対処にあたるのが最善だったが、数百年間不変の軋轢は、そう簡単には埋まらない。結局は法人登録を国が手配し、歪な関係を築くことしかできずにいた。
「なるほど」
「失望したか」
「それはもう。ですが、どれだけ腐っていても市民の安全を守れれば僕はそれで」
「そうか」
県警本部を出てから東静岡に行くまでの短距離で、必要以上に左折を繰り返していた。バックミラーに視線をやり、同じ車種が追跡していないかを注視。時おり無意味に停車しては、過ぎ去る車を見送った。道中パチンコ屋の駐車場を通り、後に続く車両がないことを確認。果てには、住宅街の狭い道路を縫うように走り、後続車の影すら消えたことを目視した。
「……そろそろいいか」
「大丈夫ですよ。一応、乗り込む前から妙な位置に待機する人影や車がないことを確認していましたから」
「そんなことしてたのか、お前」
「署内が大騒ぎしている最中、いきなり民間企業に向かうとか言われたら、どんな馬鹿でも警戒しますって」
「……そうか」
住宅街を出て、パーキングエリアに停車させると、藤原はエンジンを止めた。
「ここだ」
「いやどこですか」
「目の前のタワマンだよ」
道路を挟んだ対岸に聳え立つ塔の最上階。そこが斡旋業者の事務所だった。
「如何にもって感じですね」
「ああ。連中は、心理的にも物理的にも凡人を見下さないと気が済まないらしい。東京支部なんてもっと凄えぞ」
「……どうでもいいです」
マンションのエントランスに入ると、橙の電光が視界を包み、ぽつんと佇む呼び出し機だけが藤原一行を迎えた。図らずも目に馴染んでしまった部屋番号を押下する。
「はい」
「藤原だ」
「どうぞ」
素っ気ないやり取りを経て、ガラスドアが道を拓いた。
無言のままエレベーターに乗り、二八階のボタンに触れる。
「最初に言っておくが、挑発するような発言は控えてくれよ」
「はい」
フロアを示すランプが徐々に上階へと移動していく。
「重ねて言うが、連中は人間そっくりの怪物だ。殺人なんて屁とも思ってない。少しでも奴らの気に触れば、文字通り俺らの首が飛んでいく。多少は言葉の通じる熊だと思え」
「……わかりましたよ」
静かな駆動音が響く箱の中で、能田のあからさまな不満が混じる。
「それと。連中にフルネームを明かすな」
「何故ですか」
「呪殺の対象になる。真名と言ってな。それさえあれば、世界中どこにいようとも対象を遠隔で殺せる霊能が居る」
だから霊能者は全員、偽名で生活しているのだという。
「じゃあ、僕はこれから山田になります」
「そうだ。偽名でいい」
「藤原さんはどうします?」
「俺はもう教えちまってる」
「……そうですか」
果たして、最上階の到着を告げる電子音が鳴り、重たい脚を事務所の前まで運んだ。
緊張のあまり冷たい汗が額に滲む。それに気づいて思わず舌を打った。屈辱だった。日本に住みながら、その国家に与せず自由気ままに生きる人間社会の異物に恐怖している。その事実が無性に腹立たしかった。
ただ尋常ならざる力を持っているというだけで法の上に踏ん反り返る。そんな低俗極まりない集団に、血税を注がなければならない現状。そして無法な超人に命を握られているという理不尽で根源的な恐怖。
それらに板挟みされた藤原の心境は、事務所のベルを押下しようとする指を震わせた。動物的な本能が告げている。押してはならない。適当な言い訳を考えて、今すぐ引き返した方がいいと。
「藤原さん……」
珍しく慈悲に富んだ能田の声が耳朶を叩いてようやく、ベルのボタンを押し込めた。
扉の向こうでくぐもった鐘の音が響き、間もなく足音が迫って来た。小気味の良い解錠音に次いでドアノブが回される。
その先に居たのは、若い男だった。シャツから覗かせる首には四つの黒薔薇が咲いている。腕にも棘の生えた茎を思わせる黒い刺繍が施されていた。カメレオン科のようなぎょろついた瞳には、僅かな光も灯っていない。
斡旋業者の窓口を務める霊能だった。
「お待ちしておりました」
彼とは何度か対面している。それでも未だに慣れが来なかった。威圧的な容姿など些細な問題だ。いつでも殺せる。と、瞳の奥でこちらを睥睨する黒が言外にそう言っているようで、胸がざわついて仕様がない。彼と相対する度、肉食獣に囲まれているような感覚に陥り肝が冷える。丁寧な口調など本性を隠す飾り物にもなっていない。
「事前に連絡した通り、今日は連れがいる」
それでも気丈に振る舞った。それだけが霊能に対して採れる唯一の抵抗だった。
「どうも。山田と申します」
「薔薇と申します。さあ、お入りください」
玄関に脚を踏み入れて、背後で施錠音が鳴るとある種の諦観が胸中を満たした。もはや逃げられない。
これ以降は、命綱無しの崖登りをするに等しい時間が始まる。能田を同行させたことに今更ながらの後悔が襲う。
しかし業務上、いつかは対峙することになる。警察組織は怪異案件に対して、とことん無力だ。
長い廊下を進むと洋室に通された。背の高い棚には書類が整列しており、角に佇むサーバラックが熱を吐き出している。
デスクトップパソコンが鎮座する書斎机の向こうで、薔薇が座った。
「早速ですが、リストの中から、雇いたい霊能をお選びください」
机の上に三枚の紙が並べられた。そこには指名と実績、そして単金が記載されている。
能田が唐突に口を開いた。
「何ですかこれ。報酬額の桁がおかしくありませんか」
「私共も命がかかっていますので」
薔薇と視線が交わった。底知れぬ昏い目で睨め付けられて、瞬時に肌が粟立つ。
息が上手くできない。見えない手で心臓を鷲掴みにされているかのような感覚に陥る。死という純粋な単語が脳裏を過った。
彼の瞳は言っていた。
教育くらい済ませておけ。
「ですが、こんな高層ビルが建つような額」
「能田」震える声音を何とか絞り出す。
彼の言いたいことは痛いほど理解できた。藤原も初めて報酬額を目にした時は、ひどく狼狽したものだった。市民の血税が非人道的な怪物に回される現状に憤った。それでも怪異の暴走を止められるのは彼らしかいない。これ以上の無用な犠牲者が増える前に、早急な対処が必要だった。
「……失礼しました」
肝が据わっているのか、あるいは命知らずなのか。能田は不服そうに謝罪した。
「いいえ。ご理解いただけると幸いです」
乱れる呼吸を整えてリストに目を通した。目当ての名前を探す。
しかし。
「居ない」
「どなたをお探しでしょう」
「白髭瞬太氏がリストの中に無いのだが」
「ああ。やはり」
薔薇はこれみよがしに嘆息して、
「彼は今回、関わらないようです」
タブレット端末を取り出した。
「と言うと?」
「彼からメッセージを預かっています。お聞きください」
薔薇が端末の液晶を押下する。
『お久しぶりです、白髭です』
と、流麗な音が部屋に響いた。中性的な声音からは性別の区別がつかない。
藤原の脳裏に白髪の姿が浮かぶ。華奢で色白。黒い長髪。それと盲目の濁った瞳。容姿も中性的で男女の区別に迷うが、骨格からして男性だと思われた。
「ボイスレコーダーか」
『今日お見えになっているのは、お馴染み藤原さんと、新規の男性が一人ですね。初めまして。白髭と申します』
「警部、白髭氏に僕のことは?」
横目で能田と視線を合わせた。
「……教えてねえよ」
『街中に出現した、そうですね、仮に異物とでも呼称しましょうか。それの退治を依頼しにいらっしゃったのでしょうが、申し訳ありません。それは引き受けかねます』
「な、何故」
『理由は単純です。予め未来を観て、私が異物と関わる必要はないと判断したためです』
「何を言っているんですか、この人」
能田が嘲笑混じりに非難した。
『ああ。新規の男性──能田勝彦さんが疑念を抱く気持ちはよくわかります』
「こ、これ録音ですよね。やっぱり事前に情報共有がされていたんじゃ?」
『いいえ。誰からも知らされていません。私はただ、先に起こる事象を予知しているに過ぎませんから』
「いやいや、予知とかオカルトにも……」
「もう、黙って聞け」
能田の肩に手を置いて、かぶりを振った。
まさかフルネームまで見透せるとは予想外だった。白髭に隠し事はできないらしい。
『話を続けましょう。異物は強大な力を有しています。霊能にとってのそれは、流用可能なエネルギー。異物を狙って私利私欲に目の眩んだ霊能が今も引き寄せられています。その争いに巻き込まれたのが両替町の犠牲者です』
「だからこそ、あなたに頼みたい」
藤原は五年前の記憶を掘り起こしていた。農村に出没し、数多の人間を葬った大怪異を一人で撃退した白髭なら、今回の事象にも対処可能だろう。そう思っていた。
『だからこそ、私は介入しません』
「意味が──」
『わかりませんよね。本来、未来の事象をお話しすることはないのですが、藤原さんはお得意様ですし、わざわざ足を運んできていただいているので、特別にご説明します』
いつの間にか録音と会話することに、違和感を抱かなくなっていた。
『確かに私が介入すれば、異物の即時処理は可能です。ですが、それをしてしまうと結果が大きく変わってしまい、私でさえ分岐した結末を観測することが困難になります。いま観えている結末が非常に好ましいので、静観したいのです』
「しかし、それだと市民の犠牲が増えます」
能田が口を挟んだ。
『何か問題が?』
「……ッ」
「能田。いいから聞け」
『異物は一つだけではありません。現世に滞在した異物が他にも二人います。私が観た未来では、今回の争いでそれらが一気に消えます。私が介入しなければ、それは確実に叶う』
「その他の異物とやらには、白髭氏でも苦戦する。だから、今回の争いで共倒れして欲しい。理由は知らないが、氏にとってその二人は邪魔。そういうことか?」
言った直後、白髭を挑発する形となったことに気づいて肝を冷やした。が、既にその台詞さえ予知されているのだろうから意味はない。
『理由はそれだけではありませんが。イエスと答えておきましょう。彼らとは堆積させてきた時間が雲泥の差。相性も悪い。対峙したくないのは確かです。そこの薔薇君には悪いのですが、傭兵を何人雇おうと意味はありませんよ。むしろ被害者が増えます』
白髭は存外に殊勝な言葉を吐いた。
薔薇が肩を竦める。
「しかし──」
目当てだった白髭の協力を仰げないからといって、手ぶらで署に帰ることはできない。
対策室に成果を報告しなければ、突き返されて再びここに戻ってくることは目に見えていた。
「──二人だ」
『まあ、そうでしょうね。私がなんと言おうと藤原さんには立場がある。そこはお任せしますよ。私はこれ以上、お話しすることはないので失礼します』
端末から流れていた音声が止まると、部屋には重たい沈黙が訪れた。
白髭の予知能力は藤原も初めて知った。録音で会話をこなしていたことからも信憑性は高い。が、誰も雇わずに帰るということはできない。彼の予知が外れる可能性だってあるだろう。
藤原は再びリストを見やると、怪異を祓った最も実績のある二人を指定した。目の回るような単金には目を瞑るしかない。
薔薇の口角が持ち上がる。
「南原と安曇ですね。承知しました。今日から動けるよう手配します」
「白髭氏の予知では、意味はないらしいが」
業者への支払いは成功報酬だ。受動的怪異ではないのだろうか、今回の怪異は姿が見えない。何を以て成功と見做すかは難しいところだが、怪異を何度も祓った実績のある彼らを信じる他なかった。事実、業者から報告を受けると、怪異現象はぱたりと止む。
それに自身の力に異常な誇りを持つ霊能は万一にも虚偽の報告をしない筈。彼らのことは心底から軽蔑しているが、その一点だけは信用していた。
「彼の予言はいつも漠然としていますから。どう転ぶかはわかりませんよ。それにウチはあくまで仲介。依頼は断りません」
薔薇は剥かれた瞳を三日月型に歪めた。
「まあ、予言通りになったら困るのは警察組織も同じだからな」
用事は済んだ。空気の濁った事務所にいつまでも居たくはない。
「それでは、我々はこれで失礼する」
能田に視線を送り、
「帰るぞ」
踵を返した。
「ええ。気をつけてお帰りください」
マンションから出ると、おそろしい開放感が全身を包んだ。
事務所はまさしく異界だった。自然と呼吸が浅くなり、生きた心地がまるで感じられないあの部屋には、何度足を運ぼうと慣れることはないだろう。夥しい冷や汗で背中が濡れていたことに、いまさら気づく。
新鮮な空気を思い切り吸って、懐から煙草を取り出す。と、点火して咥えた。
心地よい生の実感が肺を侵し、脳内で何らかの快楽物質が分泌されるのを感じる。全身から緊張が抜けていった。
「ああ、生き返る」
「警部。何なんですか、あの連中。素人の僕でさえ殺気に気付きましたよ。言外の圧力が尋常じゃない」
「あれが霊能者だ。というか殺気を感じていたのなら、もう少し言葉に気をつけろよ」
「黙っていられなかったんです」
「まあ、気持ちはよくわかる」
車に乗り込み、背もたれに体重を預けた。エンジンを入れて冷房を利かせる。
助手席に座る能田が言った。
「そう言えば、あんなデカい額が動く取引に契約書も無しですか」
「あるに決まってんだろ。万一にも紛失したら組織が傾きかねんから、データ上でやり取りしてんだよ。俺は機械屋じゃねえからよくわからねえが、ドメインを共有しているとかなんとからしい」
「……もはや何を言われても驚かなくなってきましたよ」
能田が今日一番のため息を吐いた。
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