四話 天秤

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四話 天秤

 街の惨状など他人事だ、と言わんばかりに日差しは変わらない眩さを放っている。窓から入り込む熱射が右頬を苛み続けていた。  轍を残す車輪の回転が、絶え間なく耳朶を叩く。安倍川大橋の下は、変わらず砂利や水溜りが支配している。夏の陽を反射する水面は何処にも見当たらない。  飛来物の気配は安倍川付近で感じていた。おそろしい速度で移動していることが漠然とわかる。更に近づけば、より正確な位置が掴めそうだ。  ハンドルを握る手に力が込められる。自然と口角が持ち上がった。  ようやくこの日が来た。昏い螺旋のような地獄から脱出し、絵梨花に恩を返す時が。  助手席の絵梨花を横目で見やる。  死の偽装。新居。新たな仕事と名前。造られた容姿。それらを全て手配してくれたのが彼女だった。  火美(ひび)は間もなく別人になる。誰でも無い誰かになれる。その身分はきっと平凡で、生活は慎ましやかそのものだろう。刺激のない波風立たぬ日々の中で、一握りの喜びを噛み締めるだけの平穏な人生が待ち受けているのだろう。  それで構わなかった。むしろそれを求めている。誰もが当然のように享受し、抜け出したいと希う平凡に恋焦がれていた。  争いを齎した飛来物は、まさしく転機そのものだ。以前から準備していた脱出計画をようやく実行に移せる。  争いに参加した火美は、世間では死んだことになる。両親には飛来物を霊拓にすると言伝を残していた。あとは静岡の街を出るだけで自由が手に入る。  しかしその前に。占術競合に巻き込まれた火美の命を救い、その後も何かと面倒を見てくれた絵梨花に報いたい。その心残りを排しなければ、新たな人生を始められない。彼女に助勢することで恩を返したかった。 「今からでも引き返していいのよ。全てを捨てて逃げる覚悟はしているんでしょう」  絵梨花の声には哀愁がはらんでいた。そう思うのは手前勝手だろうか。鼻頭の熱を自覚して涙を堪えた。 「いいえ。これだけは譲れないっス。だって私は先輩に何も返せていませんから」 「手配のあれこれなら気にしないで」 「それもありますけど、私は先輩に命を救われています。その他にも数えきれない恩があるんスから」  飛来物の除霊は、流石の絵梨花でも手に余るだろう。気を遣って去れとは言うが、それは彼女もわかっている筈。一対一の戦いに挑ませるわけにはいかなかった。 「私はアナタを救っていない。家の周りで暴れてる連中が目障りだったから、追い払っただけよ。というか何年前の話よそれ」 「それでも私が命を拾ったことに変わりはありませんから」 「本当に馬鹿な子。私はアナタが嫌いな人殺しなのよ」 「ですが、先輩は自ら進んでそうするワケじゃない。降りかかる火の粉を払う時に。そうしないと自らの命が危うい時に。撃退しているだけなんスから」  絵梨花が口癖のように使う殺すという脅し文句は、相手の身を案じての言葉だ。彼女と対峙して無事で済む霊能は、ほとんど存在しない。霊能同士の戦いに手加減などしていられないのだから、対峙した相手は死ぬことになる。  が、命のやり取りをする前に凄むことで相手が退散すれば、その限りではない。彼女が殺しをする時は、怯まない胆力を持った殺意のある霊能と相対する時だけだった。 「とはいえ殺しに変わりはない。それにアナタの知らないところで、罪の無い人を殺しているかもしれないでしょう」 「先輩はそんなことしませんよ」  即座に断言すると、絵梨花は噴き出すように笑った。 「やっぱりアナタ、この業界に向いてないわね。足を洗う判断は正解よ。アナタみたいな純粋馬鹿は、いつか淘汰されてしまうもの」 「ええ。我ながらそう思うっス」  突き放すような絵梨花の台詞回しは、出会った中学生の頃から変わらなかった。付き合いたての頃は面食らったものだが、いつしかそれは彼女なりの気遣いだと悟った。  霊能業界は俗世から離れた死と隣合わせの世界。絵梨花の関係者というだけで命を狙われる可能性さえある。だから彼女は、冷たい言葉で人を寄り付かせず孤高に生きてきた。 「まあ、なんでもいいけど。危ないと思ったら逃げなさい。異物の力は遠方からでもわかるほど強力よ。アナタは運動神経が終わっているくせして、能力に頼り過ぎるきらいがあるから、見てて危なっかしいのよね」 「異物?」 「今、追っている怪異のことよ。どうやら受動的怪異でもない空から来た怪物なんて、星にとっても人間にとっても、異物でしかないでしょう」 「ああ」言い得て妙だ。  絵梨花の言う通り、飛来物──もとい異物は掴みどころがなかった。姿を隠さず人を間引く受動的怪異に対して、姿を現さず逃げ続けるだけの異物。その特性からして異物は星の恒常性ではないと思われた。  残る可能性は能動的怪異だが、これも考えにくい。死して霊に転じた人間が放つにしては力が強大に過ぎる。つまりは異物。もはや宇宙人と呼んだ方がいいのかもしれない。 「宇宙から来た異物は、アカシャの防護を突破したってことなんスかね」 「立証済みのガイア理論はともかく、アカシャ理論はただの空想でしょう。間に受けてるんじゃないわよ。それに宇宙から飛来したかどうかまではわからないし」 「本当に謎っスね」 「だからこそ、市長も重い腰を上げたんでしょう。斡旋業者が動く状況で、ウチに除霊の依頼をしてくるなんて相当よ」 「そういえば。業者が動くのに、絵梨花さんもよく引き受けましたね」 「ふん。暗黙の了解なんて本当はどうでもいいのよ。連中と対峙しても負ける気がしないし。ただ──」  絵梨花は脚を組むと、 「──あそこには白髭(しらひげ)が居る。だから大人しくしてやってるだけ」  不満を露わにした。  白髭瞬太。警察組織と癒着した斡旋業者に所属する盲目の男。どういうわけか未来を予測することができる怪物。霊能業界でその名を知らない者は居ないだろう。  が、名高さに対して彼には謎が多い。未来予知以外の能力を知る者は、皆無のようだった。少なくとも火美は、能力を知る霊能に出会ったことはない。  おそらく彼と対峙した者は全員消されているのだろう。口外する人間が居ないから、そもそも噂が広がらない。 「じゃあ、今回の件に、白髭は絡まないってことなんスね」  白髭が出張る時、それは対峙する者の敗北を意味していた。未来を観て、自分の勝利が判っている時にしか彼は動かない。白髭が動けば他の誰もが動けない。霊能業界ではいつの間にか、そういう暗黙の了解が生まれていた。 「ええ。人脈を手繰って入手した情報だから間違いないわ。だからこうして依頼も引き受けた。あわよくば派遣された霊能の何人かをぶっ飛ばせたら最──」  絵梨花の台詞は最後まで続かなかった。  背後からの爆音が声を掻き消したからだ。  脊髄反射で纏った紫電。それが間に合ったかどうかは、わからなかった。  車が何度か横転したのだろう。味わったことのない浮遊感が全身を襲った。身体の節々を強く打撲する。  ちりちりと火の手が上がる音を耳朶が捉えた瞬間、全身の筋肉が本能的に跳ねた。窓ガラスを突き破り車両から脱出。  脳裏を過ったのは絵梨花のことだ。自分が無事なら彼女だって無事だろう。そう思いながらも心配せずにはいられない。 「先輩!」声を張り上げて呼びかける。 「居るわよ」凛とした声が背中を叩く。 「良かった無事で」 「一丁前に人の心配してんじゃないわよ。あの程度で死ぬわけないでしょう」  絵梨花は髪を掻き上げると、 「それにしても舐めた真似してくれたわね」  舌を打った。  周囲を見渡した。並ぶ住宅。工場跡地。火と煙を立ち上らせる車。  そして人影。  突如。  黒。緑。白。全てが溶け合い、不純物を垂らした水面のように視界が歪んだ。  この感覚はよく知っている。  異界だ。  視覚情報が戻った時。自分の立つ場所が現代の街ではないと理解した。  緑の浴槽に浸かる複数の女性。辺りに群生する背の高い植物。空に瞬く星雲。そこは明らかな異世界だった。 「……閉じ込められた」  浴槽に浸かる女性と目が合う。と、彼女らは一斉に人差し指を持ち上げて言った。 「おおねきさんぼう」 「あかいぼにたすべる」 「ののまれごんざり」 「ええたらいこいこ」  ばしゃばしゃと激しい水音を立てながら裸身の女性が浴槽から出でる。全員、手に刃物らしき何かを持ちながら。 「一先ず応戦するわよ」 「了解っス」  異界の特性は全く理解できないが、紫電は有効に働くようだ。 「三色」  霊拓化した受動的怪異の中から一つを手繰り、紫電を以て具現化させる。  赤黄青の濁った人影が佇み訊いた。 「赤いマント着せましょか。青いマント着せましょか」 「にまめほげらか?」  人語を解しない裸身の女性は、問いに答えることができなかった。怪異の条件を満たさない場合は、選択権が火美に移る。 「黄色!」  叫んだ瞬間。人影は炎と成った。巻き起こる火炎に異界の住人が焼き尽くされる。  撃ち漏らしは絵梨花が片付けてくれた。異界では彼女の能力が十全に発揮できない。裸身の怪物から刃物を奪い、紫電の膂力を以て斬りつけていた。 「住人の戦闘力は大したことない。でも脱出方法がまるでわからないわね。異界を除霊するのは流石に骨が折れるし。ここは専門家に任せようかしら」  鉈のような得物を放り投げて、退屈そうに絵梨花が言った。確かに除霊を施すことも可能だが、異界から激しい抵抗をされるため推奨されない。 「お任せあれ。閉じ込められるケースくらい想定済っス」  異界から出る方法は基本的に二つ。異界の特性を把握して条件を満たすか、別の異界に渡るかだ。  前者は難しい。異界を使う者の大半がそれを必殺の手口にしている。何せ閉じ込めたらそれで勝負が決まるのだから、脱出の条件は複雑に設定されている場合がほとんどだ。  後者も難しい。異界使いは業界でも珍しい部類に入る。脳に作用する特性故に、扱えるかどうかは、生まれながらの素質に左右されてしまう。後天的に扱えるようになった超人もいるにいるが一握りだ。素質の無い者が無理に使おうとすれば、脳に異常をきたすか発狂して自死するかして破滅することになる。  火美には素質があった。 「黒」両の掌を叩き合わせた。  ちりちりと独特な感覚が頭部に走る。それは腕を伝い掌に集約された。  異界の生み落としは勘頼りだ。空間を侵食するほどの強力な怪異を操るのは、素質のある霊能でも難儀する。  霊拓。そして怪異に結びつけた色。それを敢えて言葉にすることは、火美にとってのルーティンだった。いま自分が何を呼び出したいのか。言葉を耳朶で捉えて、明確に意識させる。それが霊拓を成功させる秘訣だった。 「来い、来い、来い」紫電が弾ける。  線路が引かれて駅名標が地から生えた。  轟音を帯びて顕れたのは錆びついた列車。  車体に並ぶ扉が誘うように口を開ける。  アナウンスが異界にこだました。 『次は……西鹿島……西鹿島』  緑の世界には幾つもの浴槽がある。その中にはやはり裸身の女が浸かっていた。騒ぎを察知した彼女らが迫る。 「さあ、乗りましょう」 「……アナタを連れてきて良かったわ」  列車には誰も乗っていない。適当な席に座り列車が止まるのを待つことにした。経験則から、次の駅までは体感で三十分程度を要すると踏んでいた。  異界の時間は停止しているため慌てる必要はない。現世に出ても状況は変わっていない筈だ。むしろこの時間は、戦いに備えるための小休憩になる。 「さっきの異界だけど。明らかに世界一有名な手稿を下地にしていたわね」  隣に座る絵梨花が言った。 「ええ。おそらく怪異を養殖して作ったんでしょうね。つまり」 「脱出の条件が設定されていない」 「はい。解読されていない手稿を下地にした以上、そもそも設定のしようがありません。除霊も異界も扱えない霊能にとっては致命の一手となる手口っスね」 「まあ、だからこそ喧嘩売ってきたんでしょうけど。間髪入れずに閉じ込めてきたし、除霊されない自信もあったのかもね」 「相手は何者なんでしょう」 「普段から私を付け狙うストーカー。もしくは異物を狙う競合といったところかしら」 「どちらにせよ(ろく)な奴じゃないっスね」  列車が異界を進む。赤黒い落陽を背にした田んぼや古めかしい民家ばかりが、車窓の向こう側で流れては消えていく。時おり姿を見せる駅名標の文字は、明らかに現代の文字で構成されていなかった。 「異界使いの相手は私がしますよ。先輩は先に異物を追ってください。異物にはきっと追跡者がついている筈っスから」  絵梨花が一人で異界に閉じ込められては脱出に難儀するだろう。異界使いの相手は対策を持っている火美が適任だ。 「そうね。どうせそこでも戦いになるだろうから、あまり消耗したくないし」  側頭部に視線を感じて首を曲げた。絵梨花と視線が交わる。おそらく考えていることは同じだろう。  昼間に両替町で暴れていた少年だ。  彼が再び異物を追っているのだとしたら厄介に過ぎる。異物が捕らえられるのも時間の問題だろう。  少年は白昼堂々と異物の流用をすると宣言していた。それが叶えば、絵梨花の依頼は完遂できない。  市長の依頼はあくまでも怪異の除霊。視える側である彼の目は誤魔化せない。  彼女に恩を返すためには、何としてでも阻止する必要があった。  絵梨花が先行して追跡者を足止め。火美は異界使いを即時撃破してから合流。これが最も効率的に思えた。 「何にせよ、追跡者の撃破をしている間に異物は逃走してしまうでしょうが」 「まあ、仕方ないわね。追跡者の相手をしながらじゃあ流石に無理があるから」 「因みに、追跡者が昼間の少年だったとしたら勝算はあるんスか?」  答えは決まっていた。しかし改めて言葉に出すことで、相互確認をしておきたい。 「悔しいけど一人じゃ無理ね。足止めがせいぜいかしら。だから──」 「はい。先輩が隙を作って、私が異界に閉じ込める。ですね」  霊拓にした異界は複数ある。  少年ほどの実力ならば、条件を模索したり無理矢理に除霊したりして脱出してしまいそうではある。が、少なくとも足止めにはなるだろう。その間に異物を消してしまえば、絵梨花の依頼は達成できる。 「ですが、少年を異界に閉じ込めて、異物を消せたとしても。その後に彼が脱出して状況を知ったら、それはそれで面倒っスね」 「ああ。彼、プライド高そうだし、報復に来るでしょうね。面倒くさい」 「その時は戦うしか、ないっスよね」  両替町での惨劇を思い起こした。異物の攻撃を何らかの術でいなしながら、複数の怪異を操った少年は只者ではない。  異物だけなら絵梨花と協力して除霊できそうだったが、少年に関しては勝ち筋が見当たらない。  彼を庇うようにして出現する式札の防護。あれは見るからに人の共通認識を下地にしていた。防護に対する有効的な手段はまるで思いつかない。それがもし、異界すらも退かせる性能を持っていたら、ますます勝ち目がない。その時は逃げる他ないだろう。  懸念が鎌首をもたげて胸中を侵す。  喉元や額の奥で凝り固まった感覚が生まれて気分を害した。  しかし。 「最悪の場合、両親に頼るわ。堅物だけど助力してくれる筈。後継ぎの娘が死ぬよりかはマシでしょうから」  絵梨花の言葉で懸念は悉く霧散した。凝固された気色の悪い感覚が急速に鳴りを潜めていく。 「ああ。それなら安心っス」  絵梨花の両親は数多の競合を排除し、除霊の需要を独占するに至った傑物だった。彼らが手を貸してくれるのであれば、何も心配は要らないだろう。  両親の助勢を受ける。それは絵梨花からすれば誇りに差し障りが出る状況だが、やむを得ないだろう。両替町の少年から感じた力はそれほどまでに底が知れなかった。 「どうあれアナタが手伝うのは異物の除霊までよ。それが終わったら、手筈通り静岡を出なさい。他のトラブルに関わる必要はないんだからね」 「……はい」  その後は互いに沈黙を守った。  話しておきたいことは他にも山ほどある。  が、言葉は喉に支えて出てこなかった。これ以上話せば、代わりに嗚咽が漏れてしまいそうだった。  果たして、列車は停車駅を告げると、またしても異界に繋がる扉を開いた。  殺風景なホームに降りると、古めかしい駅名標が出迎える。  『かなた』と『くろ』。  当然存在しない駅名は、すっかり見慣れてしまっていた。  ここは言うなれば異界脱出用の異界だ。誰かを閉じ込める用途で使役したことは一度も無い。脱出の条件も簡易に設定されていた。駅で待つ。それだけでいい。  列車が夕闇の向こうへ消えると同時に、作業服に身を包んだ中年男性が、何処からか現れた。 「君たちダメだよ。こんなところに来ちゃ。ここの住人じゃないでしょ」  彼に向ける台詞は決まっていた。 「すいません。帰り道がわからなくて。西鹿島へ行きたいんスけど、ご存知ですか?」 「西鹿島行きの電車なんて無いよ」 「そうなんスか? 参ったなあ」 「ったく。仕方ねえなあ、嬢ちゃんたち。出口まで案内してやるから、ついて来な」  一連の会話は定型分で設定していた。  作業服姿の男は踵を返すと、草臥れた背中をこちらに向けた。  無言でその跡を追う。  沈みかけの落陽が睨む何もない地平に三人の足音だけが寂しげに響く。  体感で十分ほど──異界は時が進まないように構築されている──歩を進めると、遠方から祭囃子の賑わいが聞こえてきた。腹に響く太鼓の音と狂ったように吹かれる笛。それらの中に野太い男の声が入り混じり、混沌とした音の嵐が徐々に迫った。 「ううん。こっからは走った方がいいなあ」  突然、作業服姿の男が地平を駆けた。これも想定内の行動だ。 「先輩、走りますよ」 「いきなりね。別にいいけど」  祭囃子に追いつかれてはいけない。それがこの異界の法則だった。怪異を調伏して霊拓にした際、厄介な祭囃子の法則を取り除こうとしたが、それは叶わなかった。まるで融着された鉄同士のように固く結びついて分離できなかった。だから使役する火美自身であっても法則には従わなければならない。  固い地を蹴りながら、横目で絵梨花を見やると、なぜだか笑いが込み上げてきた。  どこまでも広がる空間が喜悦に富んだ声を吸い取る。 「な、なによ」  絵梨花が訝しげに言った。 「いやあ、こんな超常現象ばっかりの世界ともお別れなんだって思うと、なんだか」  少し寂しい。  そう思う自分がいることに気づいた。人を殺めることに抵抗のない怪物が跋扈する世界だとしても。素質のない者からすれば創作に紡がれる御伽噺のような世界。  そこから抜け出したいと願う気持ちに変わりはないが、いざ凡庸な世界に身を移すのだと思うと、無性に寂しかった。 「なんでもないです!」 「……わけわかんない子ね」  静岡の街を出る時には、全ての霊拓を除霊する手筈になっていた。  相伝の霊拓を失う。  それは連綿と続いた一族の研鑽に対する冒涜に等しいが、それでも構わなかった。  その覚悟がなければ、また業界に戻って来てしまう。戻って来れてしまう。退路は完全に断たなければならなかった。それは霊能者にとって生まれ変わるに等しい決断だった。  走り続けた果てには、寺が佇んでいた。そこは異界と現世を繋ぐ伽藍。 「この先の本殿に入れ!」  作業服姿の男が長い階段の先を指差した。彼の役割はここまでだった。 「どうも!」  絵梨花とともに階段を駆け上がる。境内を進み、本殿へ至る引き戸に手をかけた。隣の彼女に視線を投げる。 「先輩、異界使いをぶっ飛ばした後、すぐに向かいまスから」 「ええ、頼んだわ」  絵梨花が微笑んだ。  すぐ背後に祭囃子の気配を感じた。  引き戸を開き、光の中へ飛び込む。その先は夏の太陽が照りつける現世だった。  宙に放り出され、落下の勢いそのまま眼下の女を蹴り飛ばした。 「うらあああああッ!」  スーツ姿の女が、苦悶の声を漏らして吹き飛ぶ。  彼女の背中を蹴った足で地に降り立った。  横転した車を不審に思ったのだろう。住宅から何人かが外に出ていた。 「ちょっと失礼」  紫電を波のように放出させて住民らを気絶させる。おそらく辺り一帯の人間は霊力にあてられて、しばらく目を覚さない筈だ。それは一般人を不用意に近づかせないための最も効率的な手段だった。  異物の方向へ向かい駆けて行く絵梨花を尻目にしながら、間髪入れず紫電を手繰る。浮遊霊から得た稲妻は脳を走り、かつての怪異を具現化させた。 「白」  記憶を手繰り顕れたのは、草臥れた包帯で全身を包む大男。彼の手には巨大な棍棒が握られている。それは地方で根付き、数多の子供を同胞にした旧い怪物だった。 「言え」 「言え」 「言え」  大男が異界使いの女に迫る。 「面倒くさいわね」 「言わなかったな」 「言わなかった」 「言えないのか」  包帯の大男が互いに頷き合う。 「まさか同類がいたなんて、ね」  異界使いの身体が紫電に包まれた。  大男らが女に向かって棍棒を振り抜く。  しかしその悉くが彼女に届かなかった。 「やっぱ邪魔だわあ。アレに群がる連中は全部排除しなきゃ。露払いは必要よねえ」  大男が三体、宙を舞う。  異界使いの側に、何かが立っていた。  夥しい眼球の張り付いた面に青い肌。不均一な数本の腕。馬のような胴体からは、やはり複数の脚が生えていた。それはまるでギリシア神話における半人半馬の怪物を歪めたような、形容し難い何かだった。  起き上がった包帯の男らが再度立ち向かうも筋骨隆々な複数の手で止められる。  異界使いが言った。 「例えばそうね。それは禁足地の蜘蛛」  声を受けた青の半人半馬が姿を変える。瞬時に転身した怪物は、黒髪を垂らす女の胴が生えた大蜘蛛に成った。  蜘蛛の怪物は糸を吐くと包帯の男らを巻き取り喰らい始めた。 「三色」  包帯の男を平らげた大蜘蛛が迫る。研いだ得物のような脚が振り下ろされて、眼前で止まった。特定の文言を唱えなければ使役者に攻撃は届かない。三色外套の都市伝説は必ず文言を必要とするからだった。 「赤いマント着せましょか。青いマント着せましょか」 「馬鹿の一つ覚えみたいに、また同性質の怪異。知らないわよ、そんなローカル怪異」  選択権が火美に移る。  三色外套の都市伝説が始まった。  蜘蛛の鋭い脚。その先端が動き出す。  後方へ跳んで避けた。先刻まで立っていた場所に蜘蛛の脚が突き刺さる。コンクリートが鈍い音を立てて砕けた。 「青」  色の濁った人影が形を成した。青いマントを靡かせたそれは吸血鬼。大蜘蛛の首筋に噛みつき血の代わりに霊力を吸い取った。すると蜘蛛は半人半馬の怪物にたちまち戻った。  役割を終えた三色外套が消える。結果を齎した後の都市伝説は存在しないからだ。  半人半馬は立ち尽くしたままだ。おそらく命令があるまで転身できないのだろう。半人半馬は自衛しか行わないのかもしれない。  その予想が正しければ、あとは速度の勝負だ。半人半馬が転身する前に、手持ちの中で最も旧い怪異(カード)を切る。  それは他人に甚大な迷惑をかける性質を持っているため、火美の中では禁じ手としていた。が、脳裏に絵梨花の顔が過ぎる。早急に合流を果たしたい。 「例えば──」 「焦茶」紫電が迸る。  牛頭半身の女が立つ。  異界使いの女は牛女と遭遇した。それはつまり事故の前兆。空間が拓き、その中から現れたのは凄まじい速度で走る鉄の影だった。  駆ける人類の叡智は、実体を持つ半人半馬を轢いて回転した。勢いを殺さず狭い路地を暴れる車は、異界使いとも接触した。女が宙を舞い、次いで地に落ちる。紫電の防護があれど、車に轢かれては無事ではいられない。  霊能者に対して有効的な手段の一つ。それは物理干渉だった。いくら異能の力で怪異を操ろうとも、紫電の防護を張ろうとも、純粋な物理の暴力には成す術がない。超常現象以外の脅威に対する警戒が希薄な霊能には、勝負の決め手となり得る手段だった。  半人半馬の怪物が空気に溶けていく。使役者の意識が消える寸前なのだろう。 「戦利品くらいはいただくっスよ」  希薄な怪物を紫電で解き腕に伝わせた。それは稲妻となり体内を走り、やがて脳のどこかで弾けた。調伏した怪異は霊拓にしておいて損はない。  異界使いの女の側に寄り屈む。彼女は苦悶の表情で口から血を流していた。やはり息はある。霊能が車に轢かれた程度で死ぬ筈がなかった。 「殺せ……よ」 「嫌っス。あんたの人生を背負って、これから先を生きて行くなんて、ご免ですから」  太陽が傾き始めた頃、ようやく絵梨花と合流できた。 「……なんでこんなことに」  連絡が取れなかったので、彼女は異物を追っている最中だとばかり思っていた。異物は安倍川方面へ向かっていた。そこを目指して駆けて行けば、自ずと絵梨花に会えるだろうと思っていた。  しかし道中で異物の気配が完全に霧散してしまい、途方に暮れた。試しにもう一度、絵梨花へ連絡をしたところ通話は繋がった。回線の先から聞こえてきた彼女の声は擦り切れていた。  明らかな異常事態を察して、絵梨花が送信してきた地点へと向かった。安倍川を架ける橋を渡り、大通りを抜けて、古本屋の裏口で背中を預ける彼女を見つけた。  狭い路地の向こうには、絵梨花のものと思しき黒い染みが点々と連なっていた。 「ごめん、明楽(あきら)。こんな不甲斐ないところ、アナタに見せたくなかった。まさか私が、出鼻を挫かれるなんてね。自信なくなりそうよ、ほんと」  壁にもたれかかり浅い息を吐く絵梨花の姿は痛々しくて、とても見ていられなかった。口や鼻から乾いた赤い線が伸び、殴打されたのか顔が青く腫れている。  それでも幸運だ。霊能と対峙して命を拾えるなんて稀なことだった。  安堵するも、 「誰に、やられたんです」  沸き立つ怒りの熱は止まなかった。 「黒いキャップを被った八重歯の女……」 「異物探しは一旦保留っス。まずはその女を同じ目に遭わせますよ」 「駄目。アイツは周りの浮遊霊を食う怪物を飼っている。霊能である限り、太刀打ちできない。あんなのは反則よ」 「じゃあ、どうしろと言うんスか」 「依頼から、手を引きましょう」 「え……?」  それは常に強気な絵梨花らしからぬ選択だった。ここまで消極的な彼女は、今まで見たことがない。対峙した霊能は、絵梨花の固い芯を折るほどの実力者だったのだろうか。 「安心して。アナタが静岡を出る手筈は、予定通りに済んでいるから。両替町の少年といい、この争いにはイレギュラーが多過ぎる」 「私、言いましたよね。先輩に恩を返さないと私の人生は始まらないんです」  それが独りよがりな欲求だとは理解している。それでもこの心残りを排しなければ、相伝の霊拓を捨てる覚悟はできない。能力を失えば、絵梨花への恩返しは二度と叶わなくなってしまう。それだけはどうしても許容できなかった。  それに静岡を出る手筈が済んでいるということはつまり。後戻りはできないことを意味していた。新たな身分に生まれ変わる手配を取り止めることは困難だった。  火美はむしろ引けなくなっていた。絵梨花の顔に泥を塗られて黙っていることはできなかった。市長からの依頼が達成できなかったとあれば、家の信用にも疵がつく。彼女の両親を頼る手もあるが、それでは絵梨花への恩返しにはならない。  異物争いで絵梨花へ勝利を齎す。それが彼女へ貢献できる最後の機会だった。 「言い訳に聞こえると思うわ。でも、アタシは怖気ついたわけじゃない。この業界では引き際も重要よ。生き汚くても命を繋いで好機を待つ。そういう判断も時には必要なの。今回の依頼は仕方ないわ」 「嫌っス」立ち上がり携帯端末を取り出す。 「あ、明楽」脚を絵梨花に掴まれる。 「先輩。安心してください。私が全部終わらせてきまスから」 「駄目よ。言うことを、聞いて」 「救急車を呼んでおきますから。先輩はベッドの上で朗報を待っていてください」 「あ、明楽!」  視界の端で彷徨く一般人が気に触った。 「何見てんだ。殺されてえのかよ」  睨め付けて凄む。と、彼らは怪訝な表情を浮かべながら散っていった。  救急隊員に現在地を教えて、 「それじゃあ、先輩。行ってきます」  端末をポケットに仕舞った。 「ま、待って……」  絵梨花の手を解き踵を返すと、その場を後にした。背後から彼女の悲痛な声が追ってくるが、立ち止まるわけにはいかなかった。  勝算はある。殺さずの信条を捨てれば誰が相手でも立ち回れる。活路さえ見出せれば両替町の少年でさえ相手取ってみせる。  信条と恩返し。  その天秤は重たく後者に傾いた。
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