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 スピーカーモードにしたスマホから聞こえる呼び出し音。  息を潜めて耳を澄ますボクに届いたのは不機嫌そうな貴之の声。 『もしもし?』  不機嫌さを隠そうともしない貴之の声に胃が痛くなるような気がする。 「律希が貴之と話したい事があるって言ってるんだけど、忙しい?」 『お前、さっき律希は体調悪いって言ってなかった?』 「体調悪いって、本人が言ってるんだからそうなんじゃない?」 『…話って?』  さっきまでビデオ通話していたのだ。体調が悪いだなんて嘘だと知っていて引き下がったのに、よりによって健琥の口からボクの名前が出たのが気に入らないのだろう。不機嫌さを増していく声に怖気付きそうになる。 「それは律希に聞いて。  あ、律希が2人だと話しにくいって言うからスピーカーにしてあるから変な気起こさないでね」  何でもないことのように言った健琥に抗議の声をあげるけど「ボクの目の前で律希に好きって言わせたりしたくせに、今更じゃない?」と言われてしまえばい何も言えないようだ。 「貴之、ごめん」  何に対してなのか、最近はすぐに誤ってしまう。とりあえず謝れば貴之が落ち着くせいで、その声が不機嫌になれば条件反射のように出てしまう言葉。 『…話って?』  本来、謝るべきは貴之のはずなのにボクが先に謝罪の言葉を告げたせいで主導権を握られてしまう。何も言わずに話を聞いている健琥は呆れ顔だ。 「貴之はボクのこと、信じられない?」  貴之と再会してから常に思っていたことを口にする。貴之のことが好きで、貴之のことが大切で、だからボクなりに譲歩してなるべく多く会えるようにしてきたつもりだ。時間がない中でも貴之に会いに行き、時間がないならこれくらいはと強要された口淫だって受け入れた。  健琥の名前を出すと不機嫌になるからと言葉にも気をつけたし、求められれば疲れていても身体を重ねた。  貴之の望む進路に進まなかったと言う負目があったから最後に身体を重ねた時に受けた傷も仕方がないと思ったし、こちらにきてからも身体に痕がないかと疑われれば望まれるままに、望まれた場所を見せることもした。  健琥の目の前で自分の気持ちを伝えて欲しいと望まれれば健琥のいるリビングで貴之に対しての気持ちを口に出して伝えたし、時間割だって年間の予定だって手元にある資料は全て送ってある。  それなのに疑われるのならば…、この関係を継続する事は諦めるしかない。 「ボクは貴之を不安にさせないようにできる事はしてるつもりだよ?  それなのにボクの気持ちを無視した事ばかり言われるなら…もう終わりにした方がいいのかもしれないね」  こちらに来る前から気付かないふりをしていた貴之の執着は、こちらに来てから更に強くなった。だけど好きだから、離したくないからと受け入れていたけれど、ボクの気持ちを無視してボクの嫌がることを強要するのならば嫌いになる前に、好きで居られるうちに終わりにしたいと思ってしまった。 『俺は別れたくない』  即答だった。  即答だったけれど『健琥のせいだ』と呟く声が聞こえてしまい何を言おうかと考えているうちに貴之の言葉が続く。 『だから近くにいて欲しかったんだよ。  近くにいれば不安になんかならなかった。俺は我慢してるのに健琥は毎日会えるし、毎日話せるし、毎日触れられる』 「だから健ちゃんとは何も無いってば」 『俺以外の名前、呼ぶなっ!  俺と話してる時に俺以外の事、考えるな』 「貴之っ」  激昂した貴之に呆れた健琥が口を挟む。 『健琥は関係ないだろ?』 「僕の名前を出したのは貴之でしょ?」 『こういうのが気に入らないんだよ、何で俺じゃなくて健琥に頼るんだよ…』 「だって、貴之が律希の話聞かないからでしょ?」 『そんなこと、』 「あるでしょ?だって律希、貴之の言いなりでしょ?  言いたいことも言えなくて、ずっと我慢してる関係なんてすぐにダメになるのに貴之は好き勝手言ってるし、やってるし、律希は我慢してるし。  律希のこと好きならもっと信頼してあげなよ。  あ、僕のこと気にしてるみたいだけど僕は律希のこと恋愛として好きだった事は一度も無いからね。この先も絶対に無い。  貴之に分かりやすい言い方すれば…僕は律希がどんな格好してても、何してても、それこそ目の前で裸になっても勃たないからそこは安心して」  貴之の言葉を遮って一気に言い「だから改めて2人で話しなよ。律希、部屋に戻って自分のスマホで貴之に掛け直しな。これが最後のチャンスかもね」と僕を促す。 「貴之も、律希から掛け直させるから僕のこと抜きでちゃんと律希の話聞いてあげて。貴之の執着に僕のこと絡められるの、正直迷惑だから。  僕の名前出せば律希が困るって分かって言ってること、気付いてるからね」  貴之が何か反論しているのが聞こえたけれど「じゃあね」と有無を言わさず通話を切り「早く掛け直しな」とボクを促すと健琥はさっさと部屋に戻ってしまう。コーヒーはすっかり冷めてしまった。  仕方なく部屋に戻りスマホの電源を入れ直すけれど、貴之の連絡先を呼び出しても通話ボタンを押すことができない。  健琥の言葉で貴之が不機嫌になっているだろうと思うと臆病になってしまう。このまま終わりにしてもいいんじゃないか、そんなふうに思い始めた時に入ったメッセージ。 《律希、ごめん》 《話、させて》  何度も何度も入るメッセージ。 《好きだから》 《ちゃんと話聞く》 《怒らないから》 《声、聞かせて》 《変なこと言わないから》  ボクの返事を待たずに送られるメッセージはやっぱり独りよがりで、それでもボクのことを想って送ってくれているのかと思うと終わりにした方が、という気持ちが揺らぐ。  既読がつくのに電話をしないボクに痺れを切らしたのだろう、呼び出したまま押せなかった貴之の連絡先が着信を知らせる画面に切り替わる。  2度、3度繰り返される着信音。  無視してしまいたかったけれど、それをしてしまうとまた健琥を巻き込みかねないと思い仕方なく通話ボタンを押す。 『律希?』  確かめるような声。  その声から怒りを感じることはないけれど、気持ちを抑えているだけかもしれないと様子を伺う。 「…ごめん」  何を言っていいのか分からず、条件反射のように謝ってしまう。 『何に対するごめん?』 「…分からないけど、ごめん」  言葉が続かない。  健琥は2人でちゃんと話すようにと言ったけれど貴之の声を聞くと、近くに健琥がいないと言葉に詰まってしまう。 『健琥がちゃんと律希の話を聞け、律希を我慢させるなって、律希が我慢して続く関係なんてすぐに駄目になるって…』  本当に気付いていなかったのか、健琥の言葉を繰り返すけれどどこか納得のいってない口調だ。 『律希は我慢してたの?』  改めて言われた貴之の疑問の言葉。  本気で気付いていなかったのだろう。  ボクが拒否をして、スマホの電源を切ってまで逃げ出した理由は何も伝わっていなかったのだろう。 「ずっと…ずっと我慢してた。  こっちに来る前から、ずっと…」  隠していた気持ちが溢れ出す。 「ボクは会いたかったけど、時間がないなら顔を見られるだけで良かったのに貴之は違ったよね」 『………』  ボクが何を言いたいのかを理解しているのか、していないのか、沈黙が続く。 「金曜日におざなりに抱かれて、土曜日には好き放題されて。  好きだから、嫌われたくないから言えなかったけど、することだけが目的なのかって悲しかった」 『…そんな風に思ってたの?』 「うん」  ボクのした返事に沈黙が続く。  ボクの言った言葉に貴之だって反論はあるだろう。何を言われるのかと息を潜め、次の言葉を待つ。 『他には?何が嫌だった?』 「…健ちゃんとは何もないのに名前出すだけで怒るのも怖かった。  健ちゃんはずっと前からボクの気持ち知ってて話聞いてくれてただけなのに、健ちゃんにしか相談できなかったのに、それなのに怒るだけでボクの話なんて聞いてくれなかった」  ボクの気持ちを疑われるのが、ボクの言葉を信じてくれないことが苦しかった。  好きという気持ちを疑われていようで悔しかった。  ボクは貴之の気持ちが欲しいのに、貴之はボクの身体だけが欲しいのかと悲しかった。 『律希の気持ちって?』  ほら、全く伝わってない。 「ずっと、貴之のことが好きだった。  健ちゃんはずっと前から知ってたから止めておけって言ってくれてたんだ」 『ずっとって、いつから?』  貴之の声が上ずる。 「…小学生の頃?  だから、気持ちがちゃんと通じないのが苦しかった」 『小学生の頃って、健琥もそんな頃から知ってたの?』 「健ちゃんが気付いたのは中学の頃かな。だから、周りにバレないようにいつも気にしてくれてたんだ」 『…そうだったんだ』  何か思うところがあるのだろうか、少しの沈黙の後言葉を続ける。 『律希、ごめん』  何に対しての〈ごめん〉なのかが分からず返事に困ってしまう。  好きの気持ちに対する〈ごめん〉なのか、今までしてきたことに対する〈ごめん〉なのか。先の〈ごめん〉ならば重すぎるということなのだろう、きっと。 「それは、何に対してのごめん?」 『何だろう?  色々ありすぎて…ごめんしか言えない』  困ったような言葉だけど、気のせいか少しだけ優しい気がする。戸惑っているけれど、それでも少し嬉しそうな声。 『俺はちゃんと律希のこと好きだよ?  だから顔を見るだけじゃ我慢できなかった。少しの時間でも良いから律希に触りたいし、律希に触って欲しかった。  一緒にいるだけなら健琥と同じだから健琥にはしないこと、させない事をして律希の気持ちを試してたのかもしれない』  電話の向こうで笑う気配がする。 『俺、馬鹿だから自分が気持ち良ければ律希も気持ちよくなってると思ってたし、最低だけど短い時間でも部屋に来てくれて、お願いすれば口でしてくれて、律希は俺のお願いは何でも聞いてくれるくらい、何でも聞きたいと思うくらい俺のこと好きでいてくれるって思ってたんだ』 「…好きだよ?  貴之のこと、大好きだよ?  でも、貴之はボクが思うほど好きじゃないって思ってた。  だから嫌だって言って嫌われたくなくて、嫌だって言って会えなくなるのが怖くてずっと我慢してた」 『…ごめん。  でも…嬉しいかも』  貴之が喜んでいる理由が理解できなくて戸惑ってしまう。ボクはもう終わりにした方がいいんじゃないかと思っているのに貴之か喜ぶ理由が分からない。 『律希がそんなに前から俺のこと好きでいてくれたの嬉しいし、健琥が知ってて気を付けてくれてたとか、全く知らなかったけど俺だけ仲間外れだったわけじゃないなら嬉しい』  貴之の口から出たのは意外な言葉だった。
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