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「健ちゃん、怒ってる?」
僕の強い言葉に驚いたのか律希が困った顔を見せるけど、ここで甘い顔をしたら駄目だと気を引き締める。
今まで僕が律希に苦言を呈することはあってもキツい言葉で叱ったことはないし、いつも何処かで許してしまっていた。だけど今回ばかりは受け入れることはできなかった。
僕に関係のない第三者なら見過ごすことができたけれど、律希も貴之もこのまま放っておくことはできない。
このまま別れてしまうのが1番だと思うけれど、それでもまだどこかで律希を信じたい気持ちも捨てきれず聞いてみる。
「貴之のこと、本当はどう思ってるの?」
シンプルだけど、1番知りたい1番大切な事。
もしも律希の気持ちが貴之から離れているのなら、貴之に対する〈好き〉の気持ちがただの執着になってしまっているのなら、これ以上〈好き〉の気持ちが醜い想いにならないためにも終わらせることも必要だ。
「好き…だよ?」
「好きって、本当に好きなら貴之以外とそんなことしないんじゃない?」
「………から」
僕の言葉に律希が反論するけれど、その声は小さすぎて聞き取れない。だけど、さっきまで困ったような顔をしていた律希の表情は抜け落ちている。
「健ちゃんは好きな人と付き合ったことないから」
そして、絞り出される言葉。
「不安なんだ。
貴之が今、この時だって誰かボク以外の人と仲良くしてるかもしれない。
もしかしたらボクじゃない誰かに触れているかもしれない。
ボクのことを忘れて、誰かを抱いてるかもしれない」
決して声を荒げているわけではないけれど、僕を圧倒する強い言葉。
「不安で不安で、だけどボクのことを信じてくれないって攻めておいて貴之のことを信じられないなんて言えないから。
だったら貴之がボクのことを忘れて誰かを抱いてるなら、ボクだって誰かを貴之に当てはめて抱かれれば貴之に抱かれてるようなものでしょ?」
ブツブツと呟くように言った言葉はただの妄執。
貴之が誰かに触れているとか、誰かを抱いているとか、何の根拠もない律希の妄想なのにそれが真実だと思い込んでいるように見える。
「誰かに何か言われた?」
いくら何でもおかしいと思い聞いてみる。貴之の律希に対する執着は他の誰かにぶつけて解消されるものではないはずだなんて、律希が1番知っているははずだ。
「社会人で本当にそんなに格好いいなら見えないところで何してるのかわからないって。遠距離だったら浮気し放題っていうか、本命は別にいるんじゃないかって…」
「それは、貴之のこと知らない人が勝手に言ったことでしょ?
それとも地元の誰かが言ったの?」
その言葉にゆっくりと首を横に振る。
「貴之のこと知らない人。
ボクのことを好きだって言って、たまにしか会えない相手よりも近くにいる自分にしなって」
「ふ~ん、それで?」
「会うたびにそんなこと言われてるうちに不安になって、今も誰かのこと抱いてるかもよって。
だったら律希は彼に抱かれてると思って自分に抱かれればいいんだって言われて…」
「それで、その人と付き合ってるの?」
「違うけど違わない。
付き合ってはいないし、その人とはもうしてない」
〈もうしてない〉という事はその人としたのは事実だし、〈その人とは〉という事は他に相手がいるという事だろう。
僕が聞かされた噂は真実だったようだ。
「付き合うつもりはないけど不安だし、淋しいし。だから貴之と少しでも似てるところのある人に声かけられると…ね。
でもやっぱり貴之じゃないから付き合う事はないし、でも淋しいから何度も声をかけられると無理やり貴之に似てるとこ探して、」
「馬鹿な律希」
思わず言葉を遮って言ってしまった。
〈呪い〉だとか、いつかは別れるなんて言いながら貴之のことが好きで好きで仕方ないくせに。それなのにどこかで諦めて、少しでも長く貴之を繋ぎ止めようとして身動きが取れなくなって苦しくて。
恋愛をしたことのない僕には理解できないもどかしい想いはどこに向かっているのだろう?
貴之があの街を離れる事ができないのならばいずれは終わってしまう関係に、律希はどうやって向き合っていくのだろう。
「そんなに苦しいなら貴之と別れて、側にいてくれる人探したら?
どのみち貴之とは別れる前提なんだからそれが少し早くなってもいいんじゃないかな」
この言葉が律希の欲しい言葉じゃないことくらいわかっていた。
律希の気持ちを考えているフリをしただけの、無難で常識的な結論。
自分で納得してあの街を離れたはずなのに、あの街を離れ、貴之と離れてしまったせいで苦しむ律希。
僕が貴之から離さなければ2人の関係は違っていたのだろうか。
中途半端に離して、それなのに再会させてしまった事で2人の関係を壊してしまったのではないのか。
僕が無難で常識的な行動を押し付けて、律希の気持ちを弄び、本来なら気付くことのなかったはずの律希に対する貴之の想いを引き出してしまったのではないのか。
そして、僕がとった余計な行動のせいで大切にしたかった幼馴染を傷付けてしまったのではないのか。
律希の言葉を聞きながら自分の傲慢さに気付いてしまい、取り返しのつかないことをしてしまったのだと自覚する。
僕なら何とかできると、僕が何とかするべきだと勝手な想いでとった行動が、こんなにも律希を傷付けていたことにやっと気付く。
2人の関係に僕を絡めるななんて偉そうに言ったけれど、僕は傍観者ではなくて僕こそが当事者なのだ。
「律希、僕はどうしたらいい?
どうすれば律希は楽になれる?
淋しいなら僕が…でも僕が律希に触れたらまた貴之と揉めるのか……。
ねぇ、どうしたら貴之だけで満足できるの?
僕ができる事はないの?」
自分の言っていることが支離滅裂な事は自覚していたけれど、それでも言葉を止めることができない。
律希のことも、貴之のことも大切で、律希を守りたくて、貴之を守りたくて、そんな傲慢な思いでやってきた事が全て裏目に出てしまい、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
だけど〈経営学部の姫〉だなんて揶揄される律希を放っておく事はできないし、貴之と別れるにしても別れないにしても今の状態を見過ごす事はできない。
「健ちゃん、どうしたの?」
「律希、僕はどうしたらいい?
僕に何ができる?
僕のせいで傷付けてごめん。
僕が勝手なことしたせいでごめん」
「健ちゃん?」
「僕が余計なことしなければこんな事にならなかったんだ。
高校だって、律希の行きたかったとこに行って、たまに貴之のこと見て、そしたら律希の気持ちも自然に変化したかもしれないのに。
大学だって地元の大学に行けば貴之の近くにいられたし、バレる事を前提に勝手に2人を離して2人を守ったんだっていい気になってたせいだ…」
律希が怖いものを見るような顔をしても言葉を止める事ができない。
「ねぇ、僕はどうしたらいい?
どうしたら律希も貴之も幸せになれるの?
僕は何をしたらいいの?」
情けなくて、申し訳なくて、悔しくて。どこまで戻ればやり直せるのか、どうすれば現状を変える事ができるのか、どうすれば、どうすれば、どうすれば………。
「健ちゃんは何をどうしたいの?」
自分よりも動揺した人間を見てしまうと変に落ち着くのか、言い聞かせるような声で律希に聞かれる。
いつもと逆の立場に居心地が悪いけれど、自分ではどうすることもなくて助けを求めるように自分の想いを言葉にしていく。
「律希に幸せになって欲しい。
貴之も幸せでいてほしい。
2人で幸せになって欲しいけど、そうするには貴之が犠牲にするものが多すぎるから、だからそれぞれの幸せを探して欲しかったんだ。
だから物理的に距離が離れれば気持ちも離れるかと思ったのに、それなのに貴之の代わりを探すほど淋しい思いをさせたのは僕だから…。
どうすれば律希は貴之だけで満たされるの?
あの街に戻る?
貴之をこっちに呼ぶ?
………どうすればいいのか、僕にはわからない」
独り言のような僕の言葉を黙ったまま聞いてくれた律希は少しの沈黙の後で大きなため息を吐き、困ったように話し始める。
「健ちゃんは何も悪くないよ?
悪いのは自覚の無かったボクと貴之だよ」
そう言うと「健ちゃんに泣かれると、どうしていいのか分かんないよ」とティッシュを渡される。その時になってやっと自分が泣いていたことに気付き涙を拭くと、そんな僕を見て律希が言葉を続けた。
「ボクも貴之も健ちゃんに甘えてたんだよ。何かあれば健ちゃんが間に入ってくれるから大丈夫だって。
高校の時も、健ちゃんに隠れて貴之に会いに行ったのは〈何か〉があっても健ちゃんが何とかしてくれるって安心してたから。
僕が流されてあの街に残るって言い出しても止めてくれるって安心してた。
バレるだなんて、そんなの始めからわかってたし。
貴之が無茶なこと言うのも、無茶なことするのも、何かあれば、度を越せば健ちゃんが出てくるって分かってたから。
結局は僕たち2人とも健ちゃんに甘えてるんだ。
今だっていつかは健ちゃんにバレるって分かってたし、早くバレればいいのにって思ってたし…。
健ちゃんなら止めてくれるって甘えてたんだよ」
そう言って「ごめんね」と呟く。
僕も泣いていたけど、気付けば律希も泣いている。お互いに謝罪の言葉を口にし、2人してティッシュで涙を拭く。
「ねぇ、健ちゃん。
ボクたち何してるの?」
「知らないよ。
律希が馬鹿なことするから僕は悩んでるんだよ。
どうしたら律希も貴之も幸せになれるのか、傷付かずに別れるのはどうしたらいいのか」
「別れること前提なんだ?」
「だね。
さっきはあんな事言ったけど、貴之はあの街から出られないでしょ?
あの街で2人が付き合っていくのは…難しいと思うよ」
「ボクもそう思ってるよ。
だけどさ、大学生の間の4年間だけは夢見たかったんだ。
貴之はボクを待っててくれるって。
貴之もボクと一緒にいたいって思ってくれてるって。
だけどやっぱり離れてると不安だし、淋しいんだよね。人肌が恋しいって言うか、心が満たされないなら身体だけでも満たされたいって思って、だけど貴之に少しだけ似てたとしても貴之じゃないからよけいに淋しくて。
だけど中途半端に相手しちゃったせいで断りきれない時もあって…」
「やっぱり貴之のこと、好き?」
「うん」
その返事は強く、その想いに嘘はないように思う。
「じゃあさ、〈呪い〉なんて小賢しいことしないで貴之と改めて向き合いなよ。
貴之とは続かないなんて投げやりにならないで、4年なら4年、関係が続けられるように素直になりな。
律希が素直になれば貴之も変わるかもしれないし、もしかしたら今は思い描くことのできない未来があるかもしれないし。
淋しくなったら僕が話を聞くけど、その前に〈淋しい〉って貴之に素直に伝えてみなよ」
「でもボクがこっちに来たせいだって言われるだけだよ、きっと」
「それでもいいと思うよ?
こっち来たら思ったより淋しかった、進路を変える事はしたくなかったけど、我慢するつもりだったけど淋しいって。何なら貴之が言ってたように電話越しに2人でイチャイチャするのも有りなんじゃない?
案外、心も身体も満たされるかもよ?」
僕の言葉に律希が少し考え込む。
「健ちゃん、軽蔑しない?」
「何で?」
「そういうの、嫌がりそうだし」
「別に嫌じゃないよ?
僕はそんなふうにしたいと思える相手はいないけど、コミュニケーションとしては有りなんじゃない?
別にすぐに自分から誘えっていってるわけじゃないけど、そんな雰囲気になった時には流されるのもいいんじゃない?」
「…健ちゃんのエッチ」
「え?僕??」
そんなやり取りをしているうちに2人の顔に笑みが浮かぶ。
「ねぇ、健ちゃん。
今日一緒に寝ない?」
「えっ⁈」
僕の表情がよほどおかしかったのか、律希が「なんか、勘違いしてない?」と楽しそうに笑う。
「健ちゃんが泊まりに来た時いつも一緒に寝てたでしょ?」
「いつの話?」
「ずっとずっと前の話」
確かに律希の家に泊まりに行った事はあるけれど、それは小学生のしかも低学年の頃の話だ。
「それで、寝るまで話しよ?
話聞いてもらって、ボクの気持ち整理して。
もう淋しいからって貴之に似てる人探すのやめるし、貴之にもちゃんと淋しいって言ってみるよ」
「………」
「だから、お願い。
健ちゃんの部屋にする?
ボクの部屋にする?」
「………。
どっちの部屋でも貴之が怒りそうだからこの部屋に布団運ぶ?」
「じゃあ、次に貴之来た時はこの部屋で3人で寝るとか?」
「それは遠慮しておくよ」
その言葉を了承の言葉と理解したようで、その日の夜は共有部分に置いたテーブルを隅に追いやってそれぞれの布団を運び、数年ぶりに枕を並べる。
律希は少しだけ興奮して、話し続けることで自分の気持ちを整理したようだ。
「健ちゃん、ボクと貴之の事で困らしてごめんね。
貴之とはちゃんと話するし、素直に向き合ってみるから。
何も健ちゃんのせいじゃないからね」
そんなふうに笑った律希は弟の顔ではなくて、少しだけ取り残された気分になったのは僕だけの秘密。
恋愛経験がある分だけ律希の方が少しだけ大人なのかもしれない。
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