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《ねぇ、夏休みはどのくらい帰って来れるの?》
入学してすぐから送られてくるようになった貴之からのメッセージ。
健琥とボクは無事に志望校に合格し、4月からは幼馴染兼同居人として忙しい毎日を送っている。
同じ大学であっても学部が違えばスケジュールも違ってくるせいで高校の頃のように一緒に登下校をする事は稀だけど、朝は同じ時間に起きるし帰宅後は2人で過ごすことも多い。
少し落ち着いたらバイトを探そうと話しているけれど、同じところにするかどうかは決めかねている。それぞれの得意分野で、とも思うけれど大切なのは時給と自由度だ。
「はぁ…」
「また貴之?」
ため息をついたボクに健琥が呆れた顔を見せる。
「まだバイトも決まらないし、夏休みの予定なんてまだ分からないって言ってるんだけどね。
何なら夏の間向こうでバイトすればいいって」
「まぁ、貴之らしいよね、言う事が」
「でしょ?」
ここで言う〈貴之らしい〉は褒め言葉じゃない。
夏休みが終わった後もずるずると続けてしまった関係は、それでも冬の訪れと共に終わりを告げた。
「流石にもう追い込みだから」と言ったボクに「近くの大学なら余裕なんだろう?」と不満そうな顔をしたけれど、取りたい資格が有るからと、貴之のためだと匂わせれば一応の納得を見せた。
友人たちの進路が決まり、自動車学校に通えるようになったことも大きかったのだろう。ボクと過ごしてきた週末は友人との予定で埋められていくようで、冬休みに入る頃には頻繁に入っていた連絡も少なくなった。
《勉強の邪魔しちゃ悪いから》と入ったあとで明らかに減ったメッセージはボクのことを気遣うふりをしながらも、楽しい時間を邪魔されたくないという気持ちの表れなのかもしれないと卑屈になる。
寝る前にくれていた電話も『律希は今からまだ頑張るのに〈おやすみ〉なんて言えない』と言われてしまえば声が聞きたいと思っても我慢するしかなかった。
勉強に集中できていいと自分に言い聞かせて追い込み無事に合格した時にはホッとしたけれど、近くにいられなくなることに不安も覚えた。
貴之は本当はボクが近くの大学に行くことを望んでいたのだろう。
合格を告げるとお祝いの言葉はくれたものの「健琥と一緒に住むの、本当は許したくない」と今更なことを言い出す。部屋はもう決めてあるし、いくら貴之がそう願ったところで変更する気はない。
「律希は俺のものだから、忘れないで」
合格発表の後もやる事は山積みで、そんな中で会いに行った貴之は健琥への対抗意識を隠しもせずボクのことを乱暴に抱いた。
ボクの合格を喜ぶ言葉よりも健琥との関係を心配するような言葉を繰り返し、執拗に赤い痕を残していく。
見える場所に痕を残されれば文句も言えるけど、見えない場所の痕を嫌がれば「こんなところ、誰かに見せるつもりなの?」と強く歯を立てられ血が滲む。
「痛い」と泣けば「律希が誰かに見せようなんて考えるから」と、ますます咎められ歯形を増やされる。
「こんな身体、健琥に見せられないね」
引っ越してしまえばしばらく身体を重ねることなんてできないのに、次に会える時まで甘い想いに浸りたかったのに、それなのに残されたのは執拗につけられた痕と貴之の仄暗い笑顔。
「夏休みには帰ってくるんだろ?
待ってるから」
その言葉に無理に笑顔を作ることしかできなかった。
帰り際にそっと重ねられた唇はいつもなら少し切ないものなのに、この日だけは〈帰れる〉と安堵するものだった。
この時から僕たちの関係は破綻し始めていたのかもしれない。
だから、やる事が多いのは気を紛らわせるにはちょうど良かった。帰り際に感じてしまった安堵の意味を考えるのは落ち着いてからでいい。
引越しの準備といっても必要なものは自分の部屋の衣類や勉強道具くらいで家具や電化製品は日付指定で配送を手配してあるし、書類関係も健琥と一緒に手続きをすればお互いに忘れる事はない。
親同士も仲が良いためスーツも一緒に買いに行った。
「とりあえず着てみなさい」
そう言われて着てみたスーツは〈着られている〉感じがして気恥ずかしい。母に見せる前に更衣室から出てお互いにおかしいところがないか見せ合う時に「ねぇ、貴之は馬鹿なの?」と言いながら襟元を整えてくれた健琥は「首元、ちゃんとボタン止めとかないとおばさんから見えるよ」と呆れた顔を見せる。多少薄くなっていてもその痕の意味に気付いたのだろう。
「律希も嫌な事はちゃんと嫌って言わないとダメだよ?」
その言葉に弱く笑うことしかできなかった。
健琥と2人でいるところは見たくないと言う理由で見送りに来なかった貴之は僕に対する執着を増し、有り得ない要求をするようになる。
『ねぇ、健琥に聞こえるように俺のこと好きっていって』
『俺が寝るまで電話切らないで』
『今って自分の部屋?
ビデオ通話できる?』
それくらいなら叶えるのは簡単だった。健琥の前で好きだと言うだけで貴之が安心するのならそれくらい簡単なことだったし、健琥も「馬鹿ップル」と口の動きだけで揶揄い苦笑いを見せる。
スピーカーモードにしながら寝てしまい朝起きたら充電が切れていて通学前に急いで充電をして健琥に呆れられることも度々。
ビデオ通話で身体に赤い痕が無いか見せろと言われた時はボクのことを信じてないのかと喧嘩になったけれど、不安で仕方がないと暗い顔を見せられれば貴之が望むようにシャツの下を見せたりもした。
『ねぇ、そのまま自分でして見せて』
何度目かの身体のチェックの後に言われた言葉。
貴之の望む事はなるべく叶えたいと思ったけれど、その願いを叶える事はできず「ごめん」とだけ言って電話を切る。すぐにかかってきた電話を無視していると何度も入るメッセージ。
《ごめん、調子に乗った》
《律希のこと見てたら思い出して》
《電話越しでもいいから一緒にしたかった》
《ねぇ、電話に出て。
声聞かせて。
俺がするの聞いてくれるだけでもいいから》
結局は欲を満たしたいだけなのかもしれない、そんなふうに思い何も言い返せないままスマホの電源を切る。
しばらくして「律希、貴之から連絡がつかないって電話きたけどどうした?」と言いながら健琥が部屋のドアをノックする。何か話す声が聞こえているのは貴之と通話しているからだろう。
「ごめん、ちょっと調子悪いみたい」
部屋のドアを薄く開けてそう答えれば「なんか律希、調子悪いみたい。様子見てまた連絡するから」と宥めるような声が聞こえ、その後も会話が続いていたけれどそれを無視して部屋のドアを閉める。
「律希、開けていい?」
しばらくして健琥が再びドアをノックする。貴之ならそう言いながらドアを開けるんだろうな、と考えてしまい笑いたいのに笑えないことに気づく。
自分でドアを開けると「大丈夫?」と声をかけられるけど、調子が悪いなんて嘘だと知っての言葉だ。
「コーヒー入れる?」
「牛乳たくさん入れてね」
言いながら2人でリビングに移動する。僕に座るように促しコーヒーを入れてチョコを添えてくれる。健琥は案外チョコ好きで、冷蔵庫には常にチョコが入っている。
「喧嘩した?」
インスタントだけど僕の好みに入れられたコーヒー…カフェオレの香りは僕のささくれた気持ちを落ち着かせる。
「喧嘩じゃない」
「そっか」
聞きたい気持ちはあるのだろうけど、僕が言わないことを聞き出そうとはしない。話したければ聞くし、話したくないならそのままでいいというスタンスがありがたい。
「付き合うってよくわからない…」
「今更?」
「信じてもらえないし、したくないことしろって言われるし」
「それ、僕が聞いても大丈夫な話?」
「健琥にしか話せない」
「話したいなら聞くけど、無理しなくていいよ?」
「もぅ、何が正しいのかわからない」
心配そうにする健琥に話してしまった貴之の執着と願い。
自分以外の男に触れられていないかと身体をチェックされたこと、そのまま自慰をするように言われたこと、それを拒絶して電話を切ったこと、折り返しを無視したらメッセージで自分の自慰に付き合って欲しいと言われたこと。
「あいつ、馬鹿?」
思わず溢れたであろう言葉に貴之の強要が一般的ではないのだと安心する。
「律希はどう思ったのかはその様子を見ればわかるけど、別に貴之がおかしいわけではないよ?そういうのが好きな人もいるし、会えない間のコミニュケーションとしては有りだと思うし。
だけど、お互いの同意があってはじめて成り立つことだから貴之のした事は褒められたことじゃないね」
そう言ってため息を吐く。
「上手く行ってないの?」
「どうなんだろう、学校のことで忙しいって言っても信じてもらえないのは正直辛い」
すれ違ったまま離れてしまったせいか、何度言っても健琥との仲を疑われるのに疲れてしまったと言えば「ちゃんと話したほうがいいよ」と言われてしまう。
「少し前まで僕の前で好きだとか言ってたくせに」
「そうなんだけど…。
不安でチェックしたいって言われるのだって本当は嫌なのに、健琥がいるの知っててそんな事しろなんて悪趣味だ」
「別に、僕は自分の部屋にいるんだから気にしなくていいよ?」
「そうじゃなくて…」
「それなら僕がいない時に一度してみたら?なんなら今からコンビニにでも行ってこようか?」
「そういう問題じゃないし」
言ってから気がつく。
ボクだって年相応の健康な男子だし、貴之と散々身体を重ねたのだから欲もあれば発散することだってある。健琥がいても1人部屋で欲を満たすこともあるし、健琥がいなければトイレや浴室でする事だってある。その辺は健琥も同じだろう。
「じゃあ何が問題?
今更ボクはそんなことしません、なんて可愛子ぶるの?」
「違うって。
…嫌だったんだ。
疑われて、脱がないと不機嫌になって、脱いだら脱いだでして見せろとか、それを断ればしてるとこ聞いてとか。
そこにボクの気持ちは無いんだよ?」
そうなんだ。
そこにボクの気持ちがあれば、2人の気持ちが同じならば見せるのだって、聞くのだって、それこそ見せ合って2人でする事だって受け入れるだろう。だけど、気持ちの伴わない強要されるその行為は性暴力と同じだ。
「それ、貴之に言ったことある?」
ボクの苦悩をよそに健琥は容赦なく突き詰めてくる。普段は見て見ぬ振りをしているけれど、健琥に電話をかけてくるほどに追い詰められた、追い詰めてしまった貴之をこのままにしておかない方がいいと判断してのことだろう。
入学してまだ間もない今の時期にこれでは先が思いやられる。
「そもそもはGWに帰らなかったせいなんだ。受験のせいで会えなかったし、春休みは入学準備で忙しかったし。
だからGWはゆっくり2人で過ごそうって、そう思ってたのに自分じゃなくて健ちゃんと2人で過ごしたのが気に入らないって言われて…。
だから貴之が安心するならって思って色々受け入れようとは思ったけど、ボクの言い分を聞かずに一方的に自分の要求ばかり押し付ける貴之は…正直怖い。
何か言おうとしても遮られるし、言われたことを拒否しようとすればすぐ怒るし。
そんな状態で話し合いなんてできないよ…」
「でもさぁ、このままだと同じことの繰り返しだよ?
律希はそれでも貴之のこと好きだから、今日みたいなこと繰り返してたら結局は貴之の要求を飲むよね」
ボクの弱さを知っている健琥はこの先、ボクがしてしまうであろう行動を的確に言い当てる。今日みたいな事が何度か繰り返されれば断りきれず、貴之の指示に従ってしまうのは時間の問題だ。
貴之の元を離れた負目。
貴之の望むことのできない負目。
進路はひとつではなかったのに、それなのに貴之から離れることを選び、その結果貴之に淋しい思いをさせているか負目。
「隣にいてあげるからちゃんと話したら?
2人のことを知ってて、2人が付き合ってることを知ってるのは僕だけなんだから、仲裁に入るつもりはないけどストッパーにはなれるんじゃない?
なんなら僕から貴之に電話するし」
そう言って貴之の連絡先を呼び出す健琥を止める事は、ボクにはできなかった。
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