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下積み
体が慣れてきたら、練習に入ってもらう、と言われていた。が、オレはまだ練習にも参加できていない。
慣れ、というのは単純にプロとしての生活に慣れることを指しているわけではない。
己の体の使い方を改めて知る、ということだ。
ごん、と骨と固いものが接触した音が、廊下に響き渡った。
音源は自分の真下。
というか、自分が震源地なわけで当然一番に、響く。
「……っ」
「大丈夫?」
ひりひりする額と、恥ずかしさを天秤にかけていたところで、聞き馴染みのある声が上から降ってきた。
「イズミくん、今日もいい音だね」
「す、いませ」
「大丈夫大丈夫。だいたいみんな最初は何もないところでコケるもんだから」
「……っす!」
音だって、派手か地味かの違いくらいだから気にしなくていいよ、と言われたけれど、オオヌマさんの言うところの前者だったのだろうと思う。
地べたに向かって返事をしたが、苦笑された雰囲気だけで終わってちょっとほっとしたことは言うまでもない。
すぐさま立ち上がって、様子を伺う。今のところ、自分の小っ恥ずかしい姿を見られているのは、兄である先輩だけだと思う。たぶん。
だいたいサポーターを着けていても、膝と肘、ついでに額に赤い汚れとうっすら痣がついているのは、勢い余って転んでばかりだったから、だ。
理由はいろいろあったが、やはり自分の体の重心がまるで変わってしまったことがきっかけに違いなかった。
チームとしても、まずひととしてそれに慣れておけ、ということらしい。
跳んだり跳ねたりはもとより、普通に歩くことも油断すると結構危ないから気をつけてとマネージャーさんにも、ほかの人にも言われていたのに。
今日物理的に一番痛いのは額だが、心のあちこちがチクチクしているのは、そうですね、と彼らの言葉を軽く流した後悔からだ。
もうちょいちゃんと聞いておけばよかったとは思うけど、うん。
「眼鏡のかけ始めと同じ感じだから、そのうち慣れるし、無理に動いたら怪我するからね」
そんなことを数日前にオオヌマさんは言っていた。再測定の日程もそれから決めるとか。
あまりピンときていないオレに、先輩は続ける。
「ジャンプ力なんてけっこう変わるもんだし。オレ、三十センチくらい伸びたんだよね。その代わりスパイクが全然決まんなかったんだけど」
「え、ええ……?」
三十、センチとは。
だいたいのひと、頭ひとつ分というわけで、それだけ打点が高くなれば当然セッターのボールもだいぶ変わるわけで。
いやまあ、ツノは大した重りだったとは思うけど。
それだけでジャンプの高さって変わるもんだろうか。
明らかにぽかんとしていた自分にオオヌマさんは言う。
「あ。わりと信じてる?」
「……嘘だったんですか?」
「だって、ほら、打点変わっちゃうからさあ、そもそも練習にならないのよ。んで体力作りとか諸々頑張りすぎたというか……うん、まあ引かれるくらいはやった」
「あ……そういう」
まあ切っただけでそうなったわけではもちろんないよ、とオオヌマさんは言う。
「……もしかして、入団したときはもう少し」
「ふつうにヒョロかったと思うよ。ガタイもここで暮らす間にだいぶよくなったから、まあアテにならないよね」
体出来上がってないと、ふつうに生き残らないだろうしね。
ニコニコはしているものの、どこか遠くを見ているような先輩をみていると、不思議と理解させられてしまった。きっと事実なのだろう。
「とりあえず、日常生活、ですよね……」
「そうそう。だからまず体力作り。試合はどうせ出なきゃならないんだから、無理にガツガツせずね」
そう言われてしまえば、オレも無理はよくないとわかる。
「オオヌマさんは、その」
「うん?」
「今のオレみたいなとき、どうしてたのかなって」
いろいろ、考えてはみたけれど、正直サンプルがない。できれば知りたい、こいだとたオレにとっての頼みの綱だったオオヌマさんは、そうだねぇ、と他人事のようにぽつ、と言った。
「殴られた」
「……へ?」
調子乗ってたんだよねぇ、と笑う先輩は、ぜんぜん、そんなふうに見えない。けれど事実なのだろう。
「だってさ、今のシステム運用されるまでは、舐められたら終わりと思ってたから。ただ生きるのも楽じゃないのは、まあ……ツノ落としたときのメンタル次第ってとこもあるし」
俺はわりと中身が表に出るタイプだったみたいでさ、と笑うオオヌマさん。
いや、ほんと、信じたくない。
穏やかそうに見えて、いろいろあるのだろうか。いや、いろいろあったから、その、穏やかそうに見えてるだけで本当は違うのかもしれない。
「は、はは……」
「ちなみに、誰に殴られたか聞きたい?」
「いや、えっと……いいです」
「そ。残念」
意味深な視線を感じつつ、しっかりと両足で立って、笑うとオオヌマさんは目を細めて笑った。
「まだなにか、その、変なとことか」
「ううん、なんというか、眩しいなって」
「眩しい、ですか」
「うん。頑張りなさいな、若人よって大人ぶりたくなるくらいにはね」
「……がんばります、よ?」
「うんうん、その意気でまずはランニングできるようになろうねぇ」
「頑張り、ます!」
その五分後にすっ転んだわけだが、オオヌマさんは特に何か言うわけでもなく、辱めることも一切なく、ただ静かにオレが立ち上がるのを待っていたのだった。
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