下積み

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 オオヌマさんの見守りから一週間ほど。 「練習には入れてあげたかったんだけど」 「め、面目ないです……」 「まあ、焦らずやろうね」  ぽんぽんと背中を叩かれているオレの基礎能力は、ふつうのひと、レベルまで下がっていた。真っ直ぐは歩けるようになった。  が、しかし、オレのおぼつかなさを不安視した二人の先輩方により、試合はおあずけになった。  とはいえそろそろチームや試合の空気にも慣れてもらわないと、とオオヌマさんが気を利かせてくれたらしい。  試合には出られないし、コートにも入れないけれど、観戦は必ずして、と。  ちゃんと客席。しかもスタンドのめちゃくちゃ後ろの方。  肉眼で見えないほどではないけれど、かなり小さく見えるし、明暗差で若干目が痛い。  とはいえ、このチームに入って、やっとコートが見える場所まで来た。  オオヌマさんは「ご褒美だよ」とかなんとか言っていたけれど、果たして目的が本当にそれだったのかはわからない。 「でも、本当にいいんですか」 「なにが?」 「……いろいろ、です」 「球団には許可もらってるし、別にいいだろ? 試合を間近で見せてあげられないけど、こんなに遠くから見られるのは今だけだから楽しんで」  はあ、とかはいとか、その中間くらいの声で返事をしたと思う。  だんだん不安になってきて、あとから「ファングッズにある、ツノっぽいカチューシャとか、着けたほうがいいんですか」と聞いたけれど「そんなの誰が着けるのさ」と笑われた。  代わりに「そのうちバレるから」とちょっとぶかぶかのパーカーが支給された。  なんか、去年のファンイベント用の余りらしい。  目深にフードを被っても、だいたい座席は上からコートを見下ろすかたちになるから、それほど気にするものでもないだろう、と。  一番最初に会場入りして、一番最後に会場を出れば誰にも見られないし、みんな客席なんて気にしてないよと言われた。あんまり納得はいかなかったけれど、オオヌマさんの言う通り、開場とほぼ同時に、お客さんたちに紛れて歩く。  ぱりぱりの糊がついた服装に「すごい新規ファンっぽさが出てていいよ」とオオヌマさんは笑った。親担当の二人には会えていないけれど、むしろそれでよかったと思う。  これが終わったら、今度はボールボーイをやってもいい、とは言われてる。もしくはチームメンバーとして、ドリンクとか、タオルの受け渡し。あれこれしながら自分をコートに近づけていくことになるとか。  歩くこともおぼつかなかった自分が、そうしていいのか、と思ってしまった。客席のオレも、そのひとりになりつつあるという実感がひしひしと沸いてきて、思わず膝にたわんだ布地を握りしめた。  ぎゅうと締め付けても、まだ、余裕のある生地。  このゆとりが可動域になり。  戦う翼になり。  ファンが触れあうコート。  紛れることはできない。  オレは、もう、きっちりと線を引いた。  ここに、あのキーホルダーはない。  だからちょっと不安になっていたのかもしれない。 「……あそこに、オレも、立つ」  ぼんやりしているうちにホイッスルが鳴り響き、数メートル先で攻防が始まる。双方がボールを呼び込む声が、ボールの爆ぜる音が、開場に広がっていく。  皆の視線は三色のボールに吸い込まれていく。  ため息。歓声。  すべて、選手の指先ひとつから生まれて消える。  サーブの瞬間などは顕著だ。  応援の拍手、手拍子、きらきらとせわしなく動くライト。  声を出せと鼓舞するアナウンス。そしてホイッスルで数秒の静寂。  過去同じように観戦していたときには期待を膨ら続けていたというのに、今自分の内側で膨らむのは、不安だけ。  ――こんなところで、戦うんだ。  ただのファンでいられた自分は、なんと脳天気だったのだろう。  ヨシダさんも、トヨカワさんも、オオヌマさんも、みんなあちら側にいる。でも、オレはまだ、客席。  重心が不安定なことを、今日ばかりは失ったツノのせいにしたいと思ったくらいには、心細さを感じる数時間だった。
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