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「ツノ、なあ……」
伸びかけたそれに触れる。
どちらも、あるべき場所にある。
ただスポーツができればよかった。
どうせなら、あのひとと同じ舞台に立ちたい。
そのあわよくば、のハードルが思いのほか高かったことに驚いただけなのである。
「……はあ」
意識がないわけではなかった。
そこに対して、確かに雑誌なんかでは触れられていなかった。
だから、知らなかっただけなのだ。
知らなくても問題は無い。
ただ、あくまでも上っ面しか知らなかった、ということだったのかと、ショックを受けた。
なんだかよくわからないままに帰路につき、気付けば家に戻ってきていた。
適温から、ちょっと温かい寄りにされている部屋。
へこんだ時の定位置は決まっている。机の上に資料一式を置いて、着替えもせずにクッションだらけのソファに寝転んだ。
お気に入りのクッションが、その後ろできゅう、と変な音を立てる。
もふもふの具合が最高で、ツノが引っかかっても破けないようにどこぞの毛皮と特殊素材で出来ているという噂のそれは、だいぶ色あせてしまっているように思える。どこかできれいな隙間ができてしまったのか、最近ではちびっこ用のおもちゃよろしく、力をかければぴゅうぴゅう鳴るようになってしまったかわいくないアイテムだ。
もぞもぞ、と体を転がしても、だめっぽい。
そんな癒やしアイテムをもってしても、逃げられない現実がある。
机の上に積み上げた紙束がその最たるものだ。マネージャーさんからもらった大量の資料と同意書、チームメイトの説明などなどがてんこ盛り。
ぶっちゃけ、どこから手をつけていいかわからないほど、重い。
読めば読むほど、なんというか、自分がそのまま、ヒトだったらよかったのにと思うばかりの注釈の数々。あのスポットライトの下に立つまでに、いったいどれほどの精神的な強さを持つべきか。
散らかさないように、帰路のバスの車中で広げては、戻し、また別の書類をと、繰り返していたけれど。
「厳しい……全部読んだけど厳しい」
「それは、そうでしょ」
オレがうだうだ言葉を発するまで、黙っていた母が、声をかけてきた。
いや、ただいまおかえりのやりとりはしたかもしれない。
それくらい、わりと、衝撃的だったということで。
なにより。
先のことなんて考えてなかったから。
普通に。
それ以上に。
「今年で決めたいとは思ってたけど」
すりすりと、自分の頭頂部に生えてきたツノをさする。
一人前の証でもあり、一応、これがあるから、雄として他人から見てもらえるというものもある。
秋口からツノがない、なんて……と思われること必死だ。
そういう性癖とかいうのではないから、うん。
でも、あの人達はそういう場所にいる。
そういう場所で戦っている。
ヤジの意味も、あんまりわかっていなかったけれど、試合観戦の場で、大人が警備の人たちに連れて行かれる意味も、なんとなくわかった。
意味なんか、知りたくもない。
むしろ、他の種族とスポーツをするためだけにその一瞬を棒に振れるのか、と思った。
正直、思って、しまった。
大丈夫かわからない。
わからないけど。
「……けど、地元から、離れていける」
母の背中に言うことではないかもしれない。
この地域には、親族やらが大勢いる。だから、自分がどういう経緯で生きているかも、わかる。
序列ごとわかる。
勝手気ままが許されるのは、一人前のオスになってからだ。
だから、期待をしてしまう。
別の群れに行くことで。
「守って、もらえる」
クッションだけに響かせた言葉は、母に聞こえなかっただろうか。
あまり大きくはないツノ。
殴りあいで勝てない非力さも、ボールを介せば変わるのではないかという淡い期待があった。
どれだけ強く殴れるやつも、ボールひとつ拾えないとあの場では、なんの価値もない。そういう、場所だと思っていた。
勝手だ。
ほんとうに、勝手。
「……」
でも、間違いなく、そんなちっぽけな自尊心以上にほしいものがある。
「……戦いたい、なあ」
あの人に、つなげるボールがあるのなら。
あの人が生み出す放物線を、間近で見ることができるのなら。
たとえそれが、自分の攻撃の一手にならないとしても。
少しだけ、オレでも役に立つ、という気持ちになれるだろうか。
母にも、肩身の狭い思いをさせずに済むだろうか。
と、思い立って、がばりと起き上がった。
母は、特に何も思っていないような目で、こっちを見ていた。
「読んだ?」
「読んでほしいの」
「……いや、うん」
バサバサと、机の上に紙を広げる。
たぶん。
わかってると思う。
でも、ちゃんと言わないと。
紙の上の文字は、これからのことをたくさん書いている。
「全部読んでみて、ほしい。やっぱり契約……したいから」
ふかふかからは遠ざかるのかもしれない。
安心安全な暮らしは、保障されないのかもしれない。
ただただ路頭に迷う一頭の牡鹿に成り下がるかもしれない。
そういう危険をはらむことを、丁寧に、その書類は書いてくれている。
けれど、自分は。
やっぱり少しだけ、現状のこの生活からも離れていきたいのだ。
母と別れたいわけではない。
けれど。
クッションを腹側に寄せながら、母に言う。
「その、お母さんには、悪いことしてるなって、思うけど」
「……気にしてもいいことないわよ」
「それに、みんな、さ」
「別に、ツノがないからって結婚できないわけ? どうせ、ひとりに決めるわけでもないし。ましてやアンタ、オスでしょうが」
どうせ適当な場所で嫁戦争にでも遭うのよ。アンタの知らないところでね!
とても実感のこもった台詞に、オレはそれ以上何も言えなくなる。
――母は強い。
いや、きっと、強くあってくれたのだと思う。
こうして一人で、周りの母達と協力して、オレを育ててくれたのだから。
「なんも気にせず、行ったらいいんじゃない?」
「とか言って、うちの父さんくらい、秒で嫁見つけられたらそれはそれで笑っちゃうけど」
「それは言わない約束よ?」
そういう意味で、オスってやつが気にくわないんだけど、と母は言う。
声自体は穏やかに、ちょっと目を伏せて。
「とか言ってどこ行ったかは知らないけど」
「一応、元気にはしてるみたいよ」
「ふうん」
「まあ私も、誰のところで家族作ってるかは知らないけれど」
結構ママ友同士は仲良しなのよ、と母は笑った。
「スポーツ関係のところでまた知見を広めているらしいから、どこかで会うかもしれないわね」
「会ってもきっとわかんないだろ、オレのことなんて」
「どうかしらねえ。あなた、お父さんに似てまつげ長いから」
「まつげはわかんないだろ……普通……」
比較的まつげが長い方の種族なんだからさ、と言うけれど、あくまでこの辺りのシカがそうだからって話で、それ以外のエリアのシカがそうであるとは限らないだろう。
もしかしたら、オレが一番短い可能性だってあるわけだし。
「まあ、決めたんでしょ?」
なんて考えていたが、頭のどこかでは割り切っていた。
普通に。
そこで生きる未来を想像していた。
たぶん、そう生きるのだろうと、思った。
「うん……行くわ。オレ」
「そうだね。行ってらっしゃい」
「……ありがと」
「別に今生の別れみたいな顔するのやめてよ、辛気くさいんだから」
「そう?」
「まだなんも、始まってないのに。ねえ……」
母はそう言って、思いっきりオレを抱きしめてくれた。
鼻声だったのは、たぶんオレも同じだった。
その日の夜、翌朝も、いつも通りの食卓で。
思ったよりもぐっすり眠ることができたのも、多分これまでの日々と変わらなかったからだろう。
「……」
変わったのはただ、ばらばらに散らばっていた紙束が、キレイに整頓されていて、署名欄に確かに、母の名前が書かれていたことだけだった。
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