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また、と言ったはずなのに、オレはまだマネージャーさんとともにいる。
帰路につこうかというところでマネージャーさんに入った連絡で、あれよあれよというあいだに連れられた先。
「はあ……」
「さきほども言いましたが」
「ハイ……」
応接室とは違う、会議室とプレートのついた部屋の前。オレとマネージャーさんは、二人で並んでいる。
ただでさえ広くて長い廊下が、驚くほど長く感じたのは、会わなければならないひとたちのことを、事前に知っていたからだろう。
「ファミリーになる彼らはこの部屋に待機しています」
たぶん書類をあれこれした部屋でも聞いたセリフをもう一度、いや二度三度聞いた。
「ハイ……」
「頑張ってくださいね」
ツノを落とす前になるべく早く、と言われていた顔合わせが急遽決まったのも、彼らの対外的な練習が前倒しになり、今日この施設に戻ることが決まったから、ということらしい。
その後、マネージャーさんからの怒涛の説明を理解していくにつれ、肩を怒らせるくらい緊張するのも、仕方のないことだろう。正直、今日寝ても肩が下がらないと思う。
むしろ、緊張するなと言われるほうがおかしい。
マネージャーさんは扉を三回ノックした。入りますとも。
――もう帰りたい。
憧れのひとに「憧れています」ではなく「同僚として今後ともお願いします」と宣言する場面がびっくりするほど早く来てしまったのだから。
もちろん、ほかのプロ選手にも会う、というのが初めてなのもある。
だから、マネージャーさんにより扉が開かれた瞬間、オレの緊張はピークに達していた。
誰を認識するより先に、頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
九十度に曲げた腰、地面しか見えていない控え室。
無音。静寂。あとちょっとした汗の匂い。
オレの心臓の音しか聞こえないような気がしてドキドキしていたけれど、マネージャーさんの「顔を上げましょう」の声にゆっくりと体を起こした。
「あなたのファミリーは、この方々です」
目の前には、自分よりも大柄の選手三人。皆同じデザインの黒い上下で、おそらくこのチームのジャージなのだろうと察する。
普段使われていない部屋だったのか、壁際に畳まれたパイプ椅子と折りたたみの机が層になって並んでいる。
背中を押されて部屋に入れてもらった。扉の鍵は閉められた、らしい。
中にいたのは、言われた通り三人。みんなの耳はこっちを向いている。
そのうち二人は積み上げられたものとおそらく同じ椅子に座っていて、もうひとりはオレまであと二歩くらいのところで待っている。
「……」
「……」
正直さきほどのように、声を張って叫ぶほどではないと思ったが、なんというか、ここで怯えている姿を見せるわけにはいかない、と思ったら自然と大きな声が出てしまったのだ。
三者三様のリアクションを視界に捉えつつ、次の言葉を待った。
が、さらに無言。直立不動のまま、彼らをちらちらと見ていたら、座っていたひとりがクスクスと笑い出した。
たぶんこれは、初手を外したのだろうと、察した。
恥ずかしい。ふつうに。
「……おい」
「いやだって、さ。……ごめん、オオヌマ頼んだ」
「了解っす。元気系の子って久しぶりっすよねー」
腹を抱えて笑っている人は、ヨシダさんじゃないひとで。
三対、マネージャーさんも入れたら四対の目が、それぞれの視野でこっちを向いていた。
「どーも、ルーキーくん」
「へ」
一番年が若そうな、目の前にいたひとが自分に一歩近づいて、手を差し出してきた。今、オオヌマと呼ばれたひと。
じ、とその手を見ていると、太ももの上で固まっていた手を取られ、そのまま強制的に握手することになった。
ほどよく硬い手のひら。指先のしこりのようなマメの跡をなんとなく感じた。
「いちおう兄役になってる、オオヌマだよー。よろしくー」
「ど、どうも。よろしくお願いします……!」
握られた手のひらは少し熱かった。練習後だからだろうか。テンションの軽さだけではない、ちゃんとした重たい感じもある。
このひとに、認めてもらう必要があるのかと自分の手にも力が入る。
それを即座に感じたのか、オオヌマさんはオレの手を放して言った。
「別にそんな気張らなくてもだいじょぶだよ、わりとここ、ゆるいしー」
はい、と言うのもカチコチになっていて、それがさらに向こう側にいるひとの笑いを誘うことになるのだが、オレにはどうすることもできない。
いやだって。
昔から、知っているひとが、いる。
「はー、笑った。この子にオオヌマが兄とかマジで心配なんですけど」
「おまえが俺と親というのも、色々思うところはある」
「ええー、ヨシダさんひどー」
「トヨカワに言われたくないよな、イズミも」
唯一わかるひとが、立ち上がって、近付いてくる。
一歩近づいて来られるごとに、心臓が痛い。正直逃げたいけど、体が動かない。
「ああ、ここでは年下を呼び捨てすることのほうが多いんだ」と、こそこそオオヌマさんは言っていた。
それ自体は聞こえている。
が、それよりなにより。
「大きくなったな」
目の前の大きいひとから、さきほどさらりと呼ばれたのは、まだ名乗ってもいないオレの名前。
そして、大きくなったと言われた。
と、いうことは。
「よ、ヨシダさん……おれ、のこと!」
まさか、名乗る前に名前を呼んでもらえるなんて。にこにこしているように見えるのは、気のせいではないはずだ。
どうやらそれに気付いたほかの面々が、おおきい目をさらに丸くしていろいろ言っている。
「えーと、もしかして、なの? マネちゃん」
「もしかしてもなにも。普通にファンでしょどう見ても」
「こちらとしても全く意図していなかったんですがね」
「マネージャーが言うならよほどの事情ってことっすよねー、トヨカワさん」
なんか、いろいろ言われてる。
けど。
いや。
目の前に、いる。存在しているひとのことしか脳が反応していない。
「……え、ほんとに」
目の前に、自分の記憶よりもちょっとだけ彫りが深くなって、ひげも濃いめになってるヨシダさんがいる。
なんならオレの頭に、手のひらまで乗っていて、重力と温かさで存在を実感する。うれしい。
緊張半分、ほわほわした気持ち半分になっていたオレに「あのー」とオオヌマさんの声がする。
「というわけでそこのルーキーくん、ごめん。一応儀礼的に、俺達に名前教えてもらってもいい?」
のろりとした声のトーンに、自分のことはなにひとつ伝えていなかったのだと思います。
「イズミです、ええと下の名前は」
「あー、大丈夫。名前かぶってないでしょ? なら問題ないよ」
「へ?」
「うちのチーム、変わってるかもしれないけど、名字しか名乗らないし公開しないから」
「え、と」
いろいろあるからさー、まあ適当に慣れてもらったらそれでいいし、とオオヌマさんは言う。残り三人もそれに同意した。
「うちでフルネーム発表したことあるの、今ここにいるヨシダさんくらいじゃない? おみくじで引く大吉小吉のヨシダさんとバッティングしちゃったからって」
「あー。そうだったと思う。いちいち生えてる葦のヨシダです、ってコールしてもらうのもめんどいし、ユニフォームにそう書くわけにもいかないからってねえ」
「芸人みたいって先輩言ってましたね」
「そうそう。あ、でもそうか」
あれって何年前だっけー、と話し始めたとき「あ!」とトヨカワさんが強めに言った。
「イズミが見てた時のヨシダさんって、フルネームじゃなかった?」
「あ、そうです!」
「じゃあ、下の名前は言わないようにね! これ、大原則!」
「私も言い忘れていました。気をつけてくださいね。当時のグッズも紛失しないように」
「……え、えと。はい」
トヨカワさんとマネージャーさんが重ねて言った言葉に、なぜ、と言いかけたのだが、オオヌマさんからぱんぱんと背中を叩かれたことで霧散した。
わりとしっかり、痛い。
「というわけで、ややこしいところはそのくらいかな。改めて、不肖オオヌマがイズミくんの兄だよー。よろしくー」
「よ、ろしくおねがいします」
「一応、俺がいなかったらヨシダさんとトヨカワさんに聞いて。普通に、いろいろ、教えてくれるから。二人がいないときは、まあ、適当にしてたらいいから」
てきとう、とは。ばしばし叩かれている背中を庇いながら首を傾げると、さらにトヨカワさんに肩を掴まれた。
「ええと?」
「オレもヨシダさんには世話になったからなあ。よろしくなぁ、イズミ。仲良くしてくれよ?」
「……トヨカワ」
「うぃっす」
ヨシダさんの声でトヨカワさんもオオヌマさんも離れた。それぞれなんとなく違う匂いがする。いろいろ、あるんだ、と考えても答えはなさそうだ。
「まあ、親たちは何かあれば必要になるだけのサブだから」
「オオヌマに聞くのが前提だ。そうやって仕事回してくもんだからオオヌマの負担とかは気にしなくていいからな」
「わかりました、ええとトヨカワさんと、ヨシダさん、と、オオヌマさん」
なんだか、結論なんてわからないままだけれど少なくともここにいる人たちには受け入れてもらえていることは、なんとなくわかる。
否定の感情はない。誰に触れられても、嫌な気持ちにもならない。
刺々しい視線もない。
「なんていうか、オレよりもえらい喜びようなんですけどー」
「うるさい、オオヌマ。彼だって今だけだよ。ヨシダさんの練習見たら萎えるでしょ、普通に」
「まあ、そっすよねえ……だいたい、あんなにやり込むひと他に知らないっつーか熊も逃げ出すというか」
「二人とも、明日もう少しメニュー増やしてもいけるな」
「……わーい嬉しいなー楽しみだなー……はあ」
「明日生き延びましょうね……トヨカワさん……」
ぞわぞわする不穏な同意は聞こえたようで聞こえなかった。たぶん。
「でもいいよなあ。イズミくんばりにキラキラしてるのって貴重だろ」
「年の功っすかトヨカワさん」
「やめろオオヌマ」
「あなたもキラキラ売りしましょうか、トヨカワさん」
「マネちゃんもやめて」
なんだかんだ、みんな、仲が良さそうなことはわかる。
これがチームの一部分だとしても、なんか嬉しい。
「あの……これから、よろしくお願いします!」
もう一度、今度は正面を向いて、ほどほどの音量で宣言した。
「よろしくねー、イズミくーん」
「俺はほぼ出番なしだろうけど。まあほどほど頑張ろうな、イズミ」
「よろしく、イズミ」
マネージャーさんはにこりとだけしてくれた。
下から順番に、四者四様の相槌。
肩に入った力が、するすると溶け出していくような、そんな気がした。
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