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なにもない。
固さがちがうだけで、なにもない
いつもの生え残りもない。
ケアする必要もない。
よいことのはずなのに。
苦労をかける必要もなくなったというのに。
それでも動けなくなった理由なんて簡単だ。
「オレは、ここに……いたい……」
それだけで落とした、もの。
オレがあの群れにいたというものも、母の子であったことも。
前髪で隠せば、本当になにもなくなってしまう。強いて言えば耳はそのままだけれど。
けど。
本当に、ない。
ない。
どんどんと強めのノックが聞こえて、思わず飛び上がる。
同僚の誰かだろうか、別の意味で心臓が跳ね上がった自分は、体を縮こめて、しまった。
「……っ」
「イズミくーん、いるよね?」
「とりあえず返事くらいしてくれ」
オオヌマさんと、トヨカワさんの声がして、溢れてきた涙をできるだけ引っ込めて、声を張る。
「は、はい!」
腰が抜けたわけではないけれど、鍵を閉めてしまったのは失敗だったかもしれない。
のろのろと扉の前に行き、鍵を外している間にも、二人の声が聞こえる。
「まあ、体調悪いのはわかってるから」
「イズミくん、ちょっと開けてもらえる?」
「お、オオヌマさん……はい、だいじょぶ、です」
かちゃりと扉を開けると、そこには、先日と変わらない先輩たち――兄と、親のひとり――がいた。
オオヌマさんは、特に感情もなさそうに、言った。
「おお、良い感じに持っていかれて」
「……っ」
事実を、言われた。
たぶんなんにも思っていないそれに、結構ダメージを受けて、オレは思わず、目を伏せてしまった。
「オオヌマ。デリカシー」
「わ、先輩こわいって」
かなり強めに背中を叩かれたらしく、涙目になりながら、ごめんと、オオヌマさんは言った。
けど、どういうリアクションが正解かわからなくてトヨカワさんの方を向いた。
「イズミくん、ここ、君専用の場所じゃないから」
「……?」
「送迎にきたんだ、君の部屋まで向かうよ」
「あ、ハイ。お願い……します」
道なりも覚えておらず、二人のペースに合わせながら進んで行く。
膝から徐々に力が抜け、毛足の長い絨毯に足をとられたかのようにもつれる足。
立ち止まろうとしたけれど、歩みは止まらなかった。
――あと数歩、進めば。
ふわふわな気持ちの中でも残っている、覚えてしまったにおい。
「……っ!」
「……イズミ」
先に、いたのはやはりヨシダさんだった。
オレと同じくらい、いやそれ以上になんか顔が、暗かった。怖かった。
怒られているのかもしれないと、思った。
「……えっと」
「ヨシダさん、言わないとわかんないと思いますよ」
「一応後輩ですからね。ここでイズミくんのあれそれを守ってあげないとでしょ?」
「……お二人とも、ここで騒がないように」
マネージャーさんもヨシダさんの隣にいたらしい。
厳戒態勢なのか、マネージャーさんはちらちらと辺りを窺っている。
そういえば、こちら側の廊下には窓が無かった。
専用の部屋も設けられているのだから、そういう、外部には漏らしてはいけないことなのかもしれないな、と思った。
「この時期は皆不安定なんです。慎重に」
「はーい」
「わかってますよ」
本当にそうでしょうか、とマネージャーさんは二人の反応に首をかしげていた。
何がどうしてそんな話になっているのか、いまいち理解できていない治部に、オオヌマさんは笑って話してくる。
「で。一応そこの先輩が何も言わないから俺から言うけど、ヨシダさんが、自分の胸で泣いていいって」
「おい。そこまでは」
「……え?」
「一応、トヨカワさんも親だけど、ヨシダさんのがいいでしょ?」
オレは当然そういうの向いてないから、親の二人で消去法。
雄同士だからあれだけどさあ、結構いい線いってると思うんだけど、とつらつら言われた内容が、いまいち理解出来ていない。
なんとなく、入ってきている声を認識するまでラグがある。
ヨシダ、さんが。
ええと……なんだ。
ぐるぐる思考の沼に入り込んでいる間にも、何故か四人はわいわいと話していた。
「オレいいことしたわー」
「オオヌマ」
「なんすか」
ちょっとぴりっとしたヨシダさんの声に、三人の耳が、ぴく、と同時に動いたのを、オレは確認した。
「万が一もある。トヨカワにも……念のため準備させておけ」
「はーい」
「俺で済むなら、また報告する」
「きっと大丈夫だと思いますけど。ねー、トヨカワさん?」
「こっちに振るなオオヌマ」
ただ、みんなのやさしいような、どことなく圧の強い言い回しに、自分がなにか、悪いことでもしたような気分になって、目の前の背中に手を伸ばした。
くい、とシャツの裾をつかむと、そのひとは軽く振り向いて、くれた。
「よ、ヨシダ……さん」
「ひとまず廊下は声が響く。イズミの部屋に入るがいいか?」
「あ……」
「返事」
「は、い。だいじょぶ、です」
わからないけれど、自室に行く、らしい。
やんわりとシャツから手を離されて、オレが前を歩くように指示された。歩き出すと、ヨシダさんの手のひらが、ぽん、と自分の背を叩いた。
そのまま背中に添えられた手が、温かい。
オレの前には、トヨカワさんとオオヌマさん、そしてマネージャーさん。
一直線に歩くだけなのに、なんだかここで立ち止まってしまってはいけないような気がして、周りのスピードに合わせて歩く。
歩けている。
マネージャーさんが言っていた、なるべく早くの顔合わせ、の意味が理解できた。
知っているひとたちが、いる。
オレの身を案じてくれる、同じようにツノを落とした人たちがいる。
「ヨシダさん」
「ん?」
「……いえ、なんでも」
こんな近くに、ヨシダさんがいてくれてよかったです、なんてこんな会って数日の奴に言われてもしょうがないだろう。子どものころの自分を知っていたかもしれないとはいえ。
浮かんだ言葉を飲み込みながら、支えてもらっている体をなんとか前に進めていく。
それができるのも、彼らの歩いてきた道があってこそなのだろうと、実感していたのだった。
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