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弔海
「姉さんに夜明けの海を見せてやろう」
家を抜け出して終電で一駅先まで向かってタクシーを拾い、人魚海岸に着いたのは、日付を跨ぐ丁度前だった。海岸近くの公園のベンチに座っていると、湾の向こう側に煌びやかな光が見えた。宙を見やりもう一度眼を向けると、それは心許ない生命体の集まりのように映った。宇宙の星々の煌めきとあの街の明かりとは、全く違う果樹から産まれたものに違いない。それも片方は売り値の付かないもので、もう片方は売り値しか付かないものだ。このふたつの光は交換することができない。
月は凪いだ海の向こうに涼やかに居を構えて、青白い光を夜闇のなかに優しく広げている。この公園も来年になれば満開の桜が咲くのであろうが、いまはキャンバスを失ったイーゼルのような佇まいを見せている。和装をしたトイレの横にある駐車場に、自販機がふたつ並んでいるのを発見した。昼になれば賑わいを見せるのであろうが、いまは自分ひとりだけがこの山裾の公園で夜明けを待っている。
カイロ代わりの無糖の缶コーヒーが、コートのなかで右手だけを温めてくれる。車一台もない駐車場の真ん中に立ってみる。それを咎める者はだれひとりいない。前ぶれもなく浜風が枯枝を鳴らして弧を描くように吹く。襟のなかに首をうずめて身震いをする。市街地はまだポツポツと明かりがついていたが、もう間もなく消えてしまうことを予感させていた。
食道を通り胃に落ちるまでを身体の芯というのならば、束の間の温もりを感じることができたのはその芯のところだけであって、風を受ける肌のあたりは、だれからも見捨てられた砂漠の一片のように冷ややかだった。自販機の横のごみ箱に缶を押入れてしまうと、人魚海岸を市街地の方へと歩きはじめた。おりよくタクシーが通りかかったら乗ってしまおうと思ったが、半月のような海岸沿いの二車線道路を走るのは、コートを波打たせる風ばかりである。
「姉さんに夜明けの海を見せてやろう」
財布のなかから一葉の写真を抜き取る。しかし思いっきり投げても、風の抵抗に押し流されて、道路の方へと舞い戻ってしまうだろう。写真をもう一度財布のなかに入れて、保険証だけ取り出してしまう。そして、大きく振りかぶって海の方へと財布を投げ飛ばした。
財布が弧を描いていくのは、月明かりのなかでも見ることができなかった。ざぶん、という音が聞こえた気がしたが、そうであってほしいという願いからくる幻聴かもしれない。明日には砂浜に打ち上げられて子どもに見つかり、お金をかっさらわれるか、交番に届けられるかするだろうか。べつに、どちらでもかまわない。どちらでなくてもかまわない。姉さんの映った写真が財布から勝手に抜け出して、朝陽に照らされる海の上を気ままに漂うことを祈るばかりである。
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