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第11話 芽生え始めた想い
湧き出た温泉は、公衆浴場にすることになった。
まずはきちんとした温泉の形に整えて、周囲に簡易的に天幕を張り、さあ誰が一番風呂に入るかという話になったところ、満場一致でクラリスに決まった。地方領主であるサイードも異を唱えることはなく、そんなわけでクラリスがこれから一番風呂に入る。
「ううっ、さむ…っ……」
タナルの気候では日中こそ暑いが、夜の気温は低い。天幕の中でも服を脱ぐと、タオルを体に巻いているとはいえ、肌寒い。
腕を擦りながら、濁り湯の温泉へとそっと足を入れる。腰を下ろして肩まで浸かると、自然と「ふう……」と息がこぼれた。
(温かくて気持ちいいなあ……)
シムディアでは毎日湯船に浸かっていたが、温泉に入るのはクラリスとしては初めてだ。シムディアにも温泉はあるが、腰の重いクラリスは緑宮に引きこもり状態だったので、シムディアの温泉に入ったことがないのだ。
のんびりと温泉に浸かっていた時のことだ。もくもくと上がる湯気に黒い影が見えて、クラリスはおや、と目を瞬かせた。
(待ちきれなくて誰か入ってきたのかな?)
濁り湯だし、体にタオルを巻いているし、で特に動揺することなく温泉を満喫していると、やがて現れたのは――。
「サイード殿下」
腰にタオルを巻いた、半裸のサイードだった。温泉に足を入れてクラリスの傍にやってくるサイードに「サイード殿下も早く入りたかったんですね」と声をかけると、サイードはつまらなそうな顔をした。
「この状況でも動揺しないのか。君の慌てふためく顔が見たくてわざときたんだが」
「慌てふためく?」
「入浴中に男が乱入してきたら、普通は驚くものだろう」
「と言われましても……濁り湯ですし、体にタオルを巻いていますから。それにサイード殿下なら押し倒したりしないでしょう」
「……まるで警戒されないというのも、男として複雑だな」
苦笑いでそうこぼしながら、サイードはクラリスの隣に座る。複雑だと言いつつ、やはり手を出すつもりはないようだ。
温泉を囲う岩石に寄りかかったサイードは、心地よさそうに息をついた。
「ふう……これが温泉というものか。気持ちいいな」
「そうですねえ。それに温泉というのは様々な効能があるんですよ。血行がよくなって肩こりや腰痛が解消したりだとか、新陳代謝が促されて体の老廃物が取り除かれたりだとか」
「詳しいな。確かに……体がぽかぽかしてきて芯が温まる」
「お忙しくて疲労が溜まっているでしょうから、のんびりと癒されるといいですよ」
「ああ。ありがとう」
まったりとそんなやりとりをしていると、サイードはふと呟いた。
「楽しそうだったな、温泉が湧き出た時」
「え?」
「リグ人たちと笑い合いながら踊っていたじゃないか」
「見ていたんですか」
「ちょうど様子を見にいった時だったんだ。混ざったら時間を取られると判断して、すぐに引き返したが」
それは気付かなかった。
クラリスは視線を下に向けた。そうか、やはり他者から見ても楽しそうに見えたのか。
楽しかったですよ、と言うのはキャラ的におかしく思われそうで、クラリスは「まあ、温泉が湧き出てよかったと思いましたよ」と述べるにとどめた。
相変わらず淡々とした返答だったが、それでもサイードはふっと笑う。その目はクラリスの本心を見透かしているようで、なんだか居心地悪かった。
「……なあ、クラリス。君は俺の亡き母が不幸だったと思うか?」
唐突な質問にクラリスは返答に窮した。お世辞にも幸せな人生だったとは思えないし、かといって不幸だったと思います、と正直に答えるのも気が引ける。
サイードは質問しておきながら、返答を期待していたわけではなかったらしい。答えられずにいるクラリスに構わず、続けた。
「俺は俺の花嫁に亡き母のような苦労はさせたくないが……それでも、亡き母の人生が不幸だったとは思っていない」
「え……」
それは意外な言葉だった。てっきり、亡き母のことを不幸だと思っているからこそ、怠け者のクラリスでも受け入れるほどにトラウマがあるのかと思っていた。
「どうして、ですか」
「いつだって亡き母は幸せそうだったからだ。父上の力になれて、国民のために働くことができて。確かに辛労で亡くなったことは不運だったと思う。だが、亡き母は全力で自分の人生をまっとうした。それはとても幸せなことだと俺は思う」
「………」
「だからな、個人的には大聖女のことも不幸な人生だったとは思わんのだ。まあ、その答えは生まれ変わりである君が知っているのだと思うが」
レイナの人生。
実母に邪険にされて育ち、自分に価値がないと思っていたレイナ。けれど、異世界召喚されて大聖女として人々から必要とされる存在になった。
結果的に無理をして過労死したものの――そのことを後悔していたという記憶はない。人々が喜ぶ姿を見ることが嬉しくて、嬉しくて。志半ばで倒れたことを悔しく思い、最期の最期までシムディアの未来を憂いていた。
彼女はサイードの亡き母同様に、自分の人生を全力でまっとうしたのだ。
レイナの人生は不幸なものだとずっと思っていたけれど。決して不幸ではなかったのかもしれない。その可能性に今ようやく気付く。
「君は君のままでいいとは思う。それでも、楽しそうに笑っている顔も好きだな、とこの前気付いたよ。まあ、俺も表情豊かではないから人のことを言えないが」
そう締めくくって、サイードは「さて、そろそろ上がる」と温泉から立ち上がった。
「君はゆっくりと浸かっているといい。乱入して悪かったな」
「あ、いえ……」
「では、家でまた会おう」
温泉から上がったサイードの姿は湯けむりの中に消えて。ほどなくして、簡易公衆浴場から立ち去っていった。
(笑っている顔も好き、か……)
確かにあの時は楽しかった。これまでのクラリスとしての人生はのんびりと、けれどどこか淡々とした生活で。それが嫌だったというわけではない。これからだって、無理せずのんびりと穏やかに暮らしたいと思う。
でも。
(みんなとまた、何か頑張ってみたいな)
そして、喜びや達成感を分かち合いたい。クラリスとして初めてそう思った。
以前、サイードの女性の趣味が極端なのではないかと思ったが……クラリスの人生観こそ極端なものだったのかもしれない。
では、これまでの人生は間違っていたのか。決してそんなことはないだろう、と思う。そもそも、人生に正解も間違いもないのではないか。
ただ、自分の人生を全力でまっとうする。後悔のないように。
そんな生き方ができたら――きっと、サイードの言うように幸せなことなのだ。
クラリスはサイードが立ち去っていた方角を、見つめた。サイードはクラリスよりもずっと精神的に大人だった。将来はよき国王となるだろう。
その隣にクラリスも胸を張って並びたい。サイードに相応しい伴侶となりたい。
自然とそう思えた日だった。
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