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第1話 出逢い
満月の夜。
都心から快速電車で一時間ほど離れた何の変哲もないベッドタウン。
歴史ある築年数からは想像できない、小綺麗な4LDKのマンションの一室。
ピンポーン。
突然鳴らされる玄関の呼び出しベル。
壁時計に目をやれば、針は夜の10時を指している。
いつもならば、カメラで来訪者の確認をしてからドアを開けるが、その時は久しぶりの酒で頭はしっかり酔いがまわっていた。
集中力も警戒心もかなぐり捨てられ、ふわふわとした足取りでドアを開けると……。
そこには、白無垢姿の女が一人立っていた。
ドアから見える夜空には、穏やかに輝く満月。
月の光できらきらと輝く白無垢姿の女性の顔はうつむいているせいか、被っている綿帽子が口元までその表情を隠し窺い知ることが出来ない。
(誰だろう?)
一人やもめのアラサーの男である自分、斎藤大地の元に、夜中に白無垢が現れるという非現実を酔った頭は処理することができず、ただただぼーっと見つめてしまう。
「先日は誠にありがとうございました。恩返しに貴方様に嫁ぎに参りました」
柔らかで可愛い女の声が響く。
(先日? いつのことだ?)
大地はなんのことかわからずこう答えた。
「誰かとお間違いではありませんか?」
「いえ、間違いありません。斎藤大地様。私の旦那様」
「へ?」
知らない女から名前を呼ばれ、旦那様と言われ、回っていない頭は酒と混乱により固くなり、大地はただただ間抜けな声を出すだけ。
すると、白無垢の女は小さな手で綿帽子をそっと頭から外す。
女性の可愛らしい顔が露になった。
やや幼い雰囲気を残した整った顔立ち、穏やかで優し気な茶色い瞳、小さな赤い唇、月の光に照らされてシルクのように鈍く柔らかく輝く黒い髪、そして猫耳。
猫耳。
酔いのせいかと目をこすりながら何度か見直すが、間違いなく頭の上に作り物とは違う生々しい獣の耳が生えている。
「あの時の黒猫でございます。旦那様。ご恩をお返しに参りました」
女はそう言うと可愛らしくにこりと微笑む。華のある笑顔は、背後にパッと綺麗な花が咲いたようだった。
大地の胸が一瞬どきりと高鳴り、酒も手伝ってか気分が高揚していく。
(あの時の? 黒猫?)
そういえば、前に黒猫に関する何かがあったような。
でも、酔いが回った今はうまく思い出せない。
大地が情けなくもまごまごしていると、黒猫の女は愛らしくクスリと笑うと、しなやかに跳ねるように大地に抱きついた。
「あぁ……。この匂い……。確かにあの時の殿方」
黒猫は顔を大地の胸にうずめて囁くように言った。背中にまわされた手に力がこもり、ぎゅっと密着し合う体。
ふわりと匂う甘い優しい女の匂い。
「お酒の匂いがしているのは少し残念ですが……。ねぇ、旦那様、ここは寒いです。中に入れていただけませんか?」
もうすぐ三月というまだまだ寒さが厳しい夜。
酔いで熱くなった体には、肌寒い風が心地よく顔をはたく。
黒猫は大地の胸の中でわざとらしく、あざとく可愛いクシャミをすると、上目遣いで見上げニコリと笑う。
月の光のいたずらか――。
優しく輝き、まるで女神のようなその笑顔に、大地の胸の中で何かが弾けた。
急に顔が、いや、全身が熱くなり、年甲斐もなく顔を真っ赤に染め上げる。
(こんな夢みたいなことがあるだろうか?)
「あぁ、そうか。これは夢か。夢だよな。いいよ。上がって上がって」
「ありがとうございます。旦那様」
(そう。夢だ。これは夢なのだ。現実の俺は、酔っぱらった末にリビングのソファで寝転がっているのだ。そうでなければ、このようなことは起きないはずだ。現代の日本で、夜更けに白無垢を着た猫耳の女の子が突然訪ねてくるなんてありえるか? いや、ない。つまり、これは夢なのだ。そして、今、俺はこれが夢なのだと自覚した)
明晰夢。
(自分のやりたいことを好きにやれる夢。だったら、少し良い想いをしてもいいだろう)
大地は、黒猫の繊細で細い指に自分の指を絡ませて、家の中に招き入れた。
互いの指が絡みあった時、女の顔が上気し切なそうな表情を浮かべたが、それもつかの間、玄関の敷居を一歩跨ごうという時、表情は消え、冷たい瞳で大地の背中を刺すように見つめていた。
しかし、その変化に大地は気が付くことはできない。
玄関のドアはバタンと音を立てて閉じられた。
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