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第1話 騙された気分
※ このお話は、全て完全なフィクションです。また、介護の知識も経験もない主人公の視点のため、不適切な表現をしている箇所がありますが、敢えてそうしています。
自分の輪郭がとても曖昧に思えたりはしないだろうか?
俺は物心がついてからずっと、そういった思いに囚われている。
たぶん、俺が自分の意思で何かを勝ち取ったものがないからなのだろう。
ただ、なんとなく時代と周りに合わせて流されるように生きている。
常に不完全燃焼。
だからだろうか?
俺は今、とても騙された気分になっている。
恐らく誰も悪くないというのに。
昔、高校時代に口説こうとして何度かアプローチしたものの、あっさりとスルーされながらも友達以上恋人未満のような……と自分では思っていながら、大学に入ると学部の違いから疎遠になってしまった森川紬から、急にメッセージが着たのは、大学1年生の夏休みが始まったばかりのころのこと。
「傾聴ボランティアってやってみない?」
と急にメッセージが着て、何のことか?と頭の中をクエッションマークでいっぱいにしていると、続けて
「1日5000円。ただ、人の話を聞いてるだけ」
と追加のメッセージがきたのだ。
ボランティアというと、なんだか無料奉仕のイメージのあった俺は、謝礼がしっかり貰えるのかと驚いた。
そして、人の話をふんふんと聞いてるだけでお金がもらえるなら、夏休みの今、特段アルバイトもせず、だらだらと家で過ごしていた俺からすれば、やってもいいかなと思ってしまったわけだ。
正直に白状すれば、森川とうまいことなるんじゃないかと、邪な考えが浮かんでしまったのも事実だ。
しかし……。
今、俺のことをじっと見つめているこの爺さんは、年齢は98歳。身長は160㎝程度、体重は50㎏あるかどうか、事故の後遺症らしく、腰がぐっと前に曲がった状態で固まっていて、お腹がぽっこりと出ているために、胸とお腹の皮が常に密着していて炎症を起こしているらしい。
膝も拘縮のせいでしっかりとまっすぐとは伸びず、まるでペンギンのようにひょこひょこと歩いている。
神経質そうで深く刻まれたたくさんの皺が、常に強張った表情のせいでより深さを増しているように思える。
眼窩は骨の形がわかるくらい痩せているため、ぎょろっとした目が強調され、こちらの一挙手一投足を見逃さないとしてぎょろぎょろと動く眼が、神経質そうなその様をより強調していた。
「君ね!いいかい!?僕はお昼ご飯は12時00分ぴったりにここに持ってきてもらわないと困るんだよ!?」
爺さんがかすれた声で、聞き取れるかどうかギリギリの声量ながら、明らかに怒気を含んだ様子で俺に話しかける。
いきなり言われてなんのことやらわからなかった俺は、間抜けに
「はい?」
と言うと、俺の後ろにいる森川がニコニコしながら
「申し訳ございません。2分早かったですね。次から気をつけますね」
と言ったので、ご飯を部屋に持ってくるのが2分……しかも、遅いわけではなく早くてもダメなの!?と内心雷にうたれたように驚いたのが正直なところ。
「それで、この男は誰だっ!?」
「砂金さんね。お部屋にこもりっきりでしょう?お話相手がいてもいいんじゃないかって思って、私の友人を連れてきてみたんですよ。なんかとっても暇なんですって」
「ほぉ。君の友達か?随分、間抜けそうな顔だな。やることがないなら、勉強でもすればいいじゃないか?」
「砂金さん、彼にとってはこれも勉強なんですよ。砂金さんのありがたーいお話を是非聞かせてあげてください」
一連の会話の流れをぼさっと聞いていた俺に、二人がじっと顔を見つめてくるので、俺は慌ててこの神経質疎そうな……砂金という爺さんに頭を下げながら
「菊川空人と申します。よろしくお願いいたします」
と言ったが、砂金はぶすっとしたまま、俺の目を見ることなく明後日の方を向いて
「君はね!そんな上からものを言うのかい!?」と怒鳴った。
言われてみれば、6畳の狭い部屋の中に砂金のものが所狭しと置かれていて、空いているスペースは、壁に寄せられて置かれているベッドと、向かいの壁に寄せられている書斎机とピアノの間のわずかなスペースと、そこから居室のドアまでの人3人が、すし詰めになればなんとか入れるというスペースだけ。
砂金が書斎机の椅子に座っていたから、僕と森川は、ドア付近の狭いスペースに棒立ちになっていたわけで……。
だが、どうも頭を下げたとはいえ、俺の目線が上からのまま物を申しているのが気に喰わない様子だった。
ちらりと自分の後ろにいる森川の目を見るが、森川はニコニコとした表情を崩すことなくただ黙って俺を見ている。
ふぅ……。と聞こえないように小さくため息をついてから、俺はその場にしゃがみこんで、砂金の顔を下から仰ぎ見るようにしてから
「菊川です。傾聴ボランティアというのをやりにきました。わからないことだらけですが、よろしくお願いいたします」
と言った。そこで、ようやく砂金は俺の目を見て、ふんっと鼻をならしたかと思うと
「そうだよ!それが当たり前だよ!ダメだよ!あんな態度じゃ!」
と怒鳴った。
あぁ……面倒くさい爺さんだなぁと思っていると
「じゃあ、私は他の方を待たせてしまっているので、あとは菊川さんにお任せしますから」
と森川はニコニコした表情を崩さないまま、さっさと居室を出てどこかにいってしまった。
残されたのは、わけがわからないままの俺と、砂金という爺さん。
しばらくの沈黙のあと……。
砂金は、椅子からゆっくりと立ち上がると、ひょこひょことペンギンのように歩いて入り口付近にある、部屋に入ってすぐ左にあるトイレへと入っていく。
5分ほど入っていただろうか、ゆっくりとトイレの引き戸を開けて、また書斎机の椅子へ座ると、
「君ね!いいかい!?僕はお昼ご飯は12時00分ぴったりにここに持ってきてもらわないと困るんだよ!?」
と、また同じことで怒りだした。
「はぁ……?」
わけもわからず、対処に困り随分と間抜けな気の抜けたため息ともわからない、何かで返事するのがやっとでいると
「予定がね!?狂うんだよ!!!」
と更に熱を入れて怒り始める。
「えっと、この後どんな予定があったのでしょうか?」
「僕はね!12時ぴったりに来たご飯を食べるんだ!でも、トイレが近くてね!食べながら何度もトイレに行くんだ!時間がかかるからね!ぴったりに持ってきてくれないと困るんだよ!」
「えっと、2分【早かった】と聞きましたが……」
「早くてもね!困るんだよ!ぴったりじゃないと!予定がね狂うからね!!」
2分早く食事が配膳されることで何がそんなにも狂ってしまうのか、俺にはさっぱりわからずただただ、はいはいと返事するしかできない。
俺はちらりと書斎机に置いてある置時計を覗き見る。
時刻は午後2時40分。
12時のご飯のことを、この時間でもまだ怒っている……。
しかも、一回終わったかと思ったら、トイレに行って帰ってきたらまた怒っている……。
人間、本当に意味の解らないことに遭遇した時、どんな感情が湧き上がってくるのだろうか?
怒りか?
哀しみか?
混乱か?
いや、どれでもない。
無。
ただただ無の感情である。
全く理解のできそうにない存在に、ただただ思考停止して……もはや、当初の予定通りに話をうんうんと聞くだけの存在に成り下がる俺。
正直、返事してくれるおもちゃがあれば、それでいいんじゃないか?と思ってしまう。
しばらく砂金の怒号を聞きながら、はいはいと返事していると、またおもむろに立ち上がる砂金。
そして、またペンギンのような歩みでトイレに入ると……。
え、まさか?
がらっとトイレの引き戸が再び開き
「君ね!いいかい!?僕はお昼ご飯は12時00分ぴったりにここに持ってきてもらわないと困るんだよ!?」
えっ……えぇ……。
また、最初に戻ってしまった。
森川から話があったとき……。
場所が老人ホームだと聞いたとき、ある程度ボケている人達が繰り返し同じことを言うであろうことは覚悟はしていた。
しかし、こうも延々と繰り返されるものなのか……。
なんだろう……。穴を掘っては埋め直す……そういったことをずっとやらされている気分になる。
最初のイメージでは、ボケてはいても気が長く朗らかな性格になった爺さん婆さんから、戦時中の話をのんびり聞き取るような感じだと思っていたが……。
森川……。
君は俺を騙したのか?
いや、言っていることは間違っていなかった……しかし、もっと説明してくれても良かったんじゃないか?
この施設に到着早々、簡単な最低限のこの爺さんのプロフィールの説明だけで、早々にこの居室へ放り込む必要はあったのかい?
放り込んだ……君の目的はなんだい?
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