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第4話 万華鏡
お風呂場から怒鳴り声が聞こえ、俺が森川に怒鳴られて30分後。
車椅子に乗って女のスタッフに押されて部屋に戻る砂金の姿を見かけたので、居室に行ってみることにした。
ドアをノックして開けると、砂金は書斎机の椅子に座って足元を見つめたまま動かないでいた。
「砂金さん?」
「あぁ!なんだ!君か!?」
「お風呂場で何かあったんですか?」
「あぁ!僕はね!こんなになっても頑張って自分のことをやっているというのにね!僕よりずっと若い奴がね!全部やってもらってるんだ!それがね!なんだかね!凄い腹が立つんだよね!しかもね!お風呂だというのに、くそをね!垂れる時があるんだ!こっちはね!たまったもんじゃないよ!」
「そうなんですね。まぁ、でもね。ここはそういうところですからね」
俺は、老人ホームとはそういう人たちが集まる場所なのだから、そこに文句を言うのはお門違いではないだろうかという想いでたしなめるようにそう言った。
しかし、それを聞いた砂金は、怒るわけでもなくぼけーっと自分の足元をしばらく眺めたかと思うと。
かすれた声で、静かにこう言った。
「なぁ。僕はね。頑張ってる。頑張ってるだろう?あいつらとは……違うだろう?」
ぎょろぎょろと俺には化け物のように映っていた瞳が、ただただ静かに救いを求めて、俺の目をじっと見つめている。その瞳は、潤んでいるのか光に照らされてきらきらと静かに輝いているようにも見える。
砂金の瞳に俺が写っているのがわかるくらい近い距離で、俺は今、砂金から救いを求められている。
単純な話だった。
砂金さんはずっと自分を奮い立たせていた。
少しでも気が緩むと、倒れてしまいそうな危ない歩みから、自分がどれだけ老いてきているかを、その短時間で忘れてしまう頭でも正確に把握して……いや、もしかしたら、頭で把握してるのではなく、体中から常に送られてくるいつものように動けなくなってきている体の信号を受け取って、感情で理解していたのかもしれない。
だから、他者を下に見る。
他者を下げて、自分を上にして。
俺はこいつらよりできてる!だから、まだ大丈夫だ!と…。
小さなことでも……それこそ食事を正確な時間に持ってこないと怒鳴り散らすのも……。
出来なくなっていった自分を、他の人間がどんどんと下に見て、扱いを雑にしていくのではないかという不安からだ。
砂金さんの中で、正確に自分の元へ運ばれてくる食事こそが、自分がまだ大丈夫であるという他者からの評価に他ならない。
だから、怒鳴り散らす。1分でも違えば……それは、明日には5分になるかもしれない。
そして、いずれ10分、20分と忘れられ、自分がこの世界から消えていくように感じるから。
俺は、自分でもなぜこの文章にすれば1行程度の砂金さんのセリフから、ここまで察してしまえたのかわからない。
でも、砂金さんのこのセリフを聴いて、俺は……胸がしめつけられるような想いがしたのは確かだ。
なんだか、俺まで泣きそうだ。
「できてますよ。ちゃんとできてますから……」
本当は、続けて人を罵倒するのはやめましょうと言いたかった。
しかし、それを言ってなんになるのか。
この人は、罵倒することで自分を保っている。
それは、決して褒められることではない。
だが、まだ会って2回目の俺が言う事じゃないような気がした。
これから長い付き合いになって、信頼関係がしっかりできてから、それから……。
やめましょうよ。人を罵倒するのは。あなたは出来てるんですからどっしり構えてればいいんです。
そう言ってあげればいい気がした。
「お風呂で疲れた。横になる」
そう言ってベッドにもそもそと数歩歩いて、ベッドに上がると仰向けでよこになった砂金さん。
「また、来れる時に来ますね」
そう言って、俺は居室をあとにした。
今日は、会話が成立していた砂金さんも、もしかしたら次会いに来た時は最初に会ったときと同じように、同じことをひたすら繰り返すだけになっているかもしれない。
俺のことなど全く覚えていないかもしれない。
しかし……。
エレベータに乗って1Fに降りる俺。
エレベータの扉が開くと……。
「まるで万華鏡だな」
梅干しに見えた爺さんと婆さんが、いや、この場合、入居者たちがというべきか。
皆、違った顔に見えていく。
1人1人…全て違った想いを秘めて、皆ここにいる。
ドラマがあった。
歴史があった。
掘れば掘る程、びっくりするドラマと、切なくなる想いを抱いているかもしれない。
1人1人が、輝いて色々な景色を見せてくれる。
万華鏡だ。
森川が他のスタッフと一緒に忙しそうに駆け回っている。
壁掛け時計を見ると、時刻は15時を指し示そうとしていた。
おやつの準備と配膳に目まぐるしい思いをしているようだ。
スタッフは皆余裕がなくて、この万華鏡を覗いている暇はないようだ。
可哀そうに。
先ほど怒鳴られて気まずく思っていた森川のことも、今は全く気にならないしなんとも思わない。
俺は、いつものようにソファに座ってTVを見つめる小松さんのもとに行き、隣に座って挨拶をした。
「こんにちは。小松さん。菊川です」
小松さんは、俺のことなど全く覚えていない様子できょとんとして俺の瞳をじっと見つめている。
では、初めましてをして……話を聴くことにしようか。
俺は、曖昧だった自分の輪郭がはっきりしていくような感覚がわいてきた。
小松さんの眼鏡のレンズに、黒髪で軽くパーマのかかったツーブロック、顔も身体も細くてなよってしていて、釣り目ながら優し気に、それでいて力強い瞳の俺が写っていた。
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