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4-2伝わらない思いと、聞こえてしまった声
思いがけず、一日休日ということらしい。
食事を終えて、犬島がお茶の準備をしている間に、龍子は自分の考えを切り出した。
「私は、一度アパートに帰ります。もともと寝るために帰るだけの部屋だったので、自炊もろくにしていないし冷蔵庫に生鮮食品もないんですけど……。いつ帰れるかわからないなら、片付けでも」
「古河さんが良ければ、解約と引っ越し手続きもお手伝いしますよ」
急須で湯呑に茶を注ぎつつ、犬島が軽く請け合った。う、と龍子は言葉に詰まる。その横で、スマホで何やらどこかにメールを送っていた猫宮が口を挟んだ。
「囲いこもうとしていると、警戒しなくて良い。もともと古河さんは引越し費用を捻出できずにあの場所に住み続けていたというが、会社的には交通費を多く支給する形になっている。一度あそこを引き払って、この屋敷を出て行くときに、どうせならもう少し会社の近場に部屋を借りればいいだろう」
「なるほど」
なかなか断りづらいことを筋道立てて話されて、龍子は即座に反論することはできなかった。
「会社が余分な交通費を払っているって言われたら、その通りです。それに、億単位の不動産を扱いながら、自分は安普請のボロアパートというのも……。デパートの美容部員が肌荒れしていたら説得力ない、というレベルでの信頼度の問題ともいえますね」
「古河さん、デパートの化粧売り場に行くのか? そういえば化粧はほとんどしていないんじゃないか。する必要が無いのかもしれないが」
「その点は、至らずすみません。化粧は社会人の身だしなみかと思いますが、お金を貯めているのでいつも最低限でした。今後、精進します」
これまでは、日焼け止めをかねたファンデーションと、口紅程度で乗り切ってきた。しかし、前日ちらっと見かけた秘書課の女性陣が、外見磨きにおいても並々ならぬ努力をしているであろうことは龍子にもわかった。
(さすがの犬島さんも、メイク指導はできないよね。部屋のドレッサーに化粧品が並んでいるのは見たけど、何に使うかもわからないものもあったな。勉強しないとうまく使いこなせない。頑張ろうっと)
秘書なら秘書らしく。課題が山積みだな、と思い知る。
その龍子の横顔をじっと見ていた猫宮が、ぼそっと言った。
「そんなに頑張らなくても。古河さんは元が良いから、大丈夫だろう」
「フォローしてくれているのかもしれませんが、努力しない言い訳を探しても仕方ないです。給料分は働きます。お化粧品も支給してくださっているみたいですから、もっときちんとします」
「まあ、ほどほどに。俺は今でも十分だと思っているから」
ふと、静かだなと思って犬島を見ると、そーっとワゴンを押しながら食堂を出ていこうとしていた。
「あれ、犬島さん? 何か忘れ物ですか? お茶を配ってしまっても良いでしょうか。何から何まで甘えてしまってすみません」
手伝おうとしたら断られたのでおとなしく座っていたが、手は空いているので、と龍子は席を立つ。
ワゴンを止めて振り返った犬島は、奇妙に優しい笑顔で「良い感じでしたのでお邪魔かと」と答えた。
特に心当たりのなかった龍子は、一言きっぱりと告げた。
「邪魔ではないですよ?」
「うん。前途はなかなか厳しい」
犬島は笑顔のまま独り言のように呟いた。
* * *
アパートに向かい、犬島が即日手配してくれた引越し業者の到着を待って、一緒に梱包作業をして片付け完了。
あとは引き払うだけという状態にして猫宮家に戻ると、もう夕暮れの時間帯だった。
出掛けに教わった通りにセキュリティを解除し、屋敷に入るとしんと静まり返っている。
(犬島さんは書庫……? 社長はまだ帰ってないのかな。猫化大丈夫だったかな~)
実は朝食後、ひと悶着あった。
キスするしない、という。
犬島は「是非に」とすすめていたが、猫宮は固辞。
そこまで頑なな態度とあっては、龍子から「不安ならひとつしておきます?」とは冗談でも言えなかった。龍子自身、人間のときにするのはさすがに抵抗があったので、命拾いした感もある。やせ我慢かもしれないが、猫宮のプライドの高さには感謝と感心をしてしまった。
ちなみに龍子も、猫宮同様いわゆるフリーで、義理立てする相手はいない。
学生時代からバイトに励み、就職してからは会社との往復が精一杯という時間の過ごし方をしてきたため、交際経験すらない。つまり人間の猫宮と致すというこは、「初キス」に該当してしまう。慎重にならざるを得ない。
「ただいま~、かえりました」
ひとまず、龍子は玄関ホールで虚空に向かって声をあげた。
もちろん、返事はない。
その場で、ふと龍子は天井を見上げた。
寄せ木細工のような幾何学模様の刻まれた面に、年代もののシャンデリア。一見して昔の状態を保ちながら、リモコン操作等可能なように、すべてLEDなどを取り入れ、使い勝手が良いように作り変えているようだ。
大切に住み続けていくために。
(明治大正期のものって言っていたけど、この保存状態すごいな……)
ちょうど明治政府が日本人建築家による西洋風の建物を必要とし、外国人建築家を招聘して建築家の育成に力を入れるなどして、日本中に西洋館が広まりを見せた時期のものだ。
龍子の出身地である函館も、江戸時代末期から長崎や横浜と同じく対外貿易の港として発展し、外国人が多く居住した経緯により、こういった建物は多くあった。
自然と興味を持つようになり、独学で勉強していたことから、目の前にあるとつい見入ってしまう。
さすがに、公開された博物館ではなく人様の家なので散策というのも気が引けたが、通り道を見て歩くくらいなら構わないかと、天井から視線を下ろして玄関ホールを見回す。
そこで、ふと視線を感じた。
いつの間にか、正面の階段の途中に三毛猫が忽然と現れていた。
「社長!?」
「にゃあ」〈違うわよ。アンタ昨日も間違えていたでしょ。あの若造と私は似ても似つかないはずよ〉
速攻で、言い返された。
二重音声で、「にゃあ」という猫の言葉の他に、意味のある言葉がしっかりと聞こえた。
「え……? 本物のお猫様の方ですか? あれ? いま何か聞こえ……」
「にゃあん」〈そりゃ、アンタ猫の言葉わかるんでしょ? あの若造ともふつうに話しているし〉
「!!??」
(えーっ!? もしかして、猫状態の猫宮社長と話せるようになったことで、本物の猫さんとも話せるようになったってこと!? すごい!! 夢みたい!! これがあれば猫さんと仲良くなれる……!!)
思わぬ副産物に喜ぶ龍子に対し、階段上の三毛猫は「ふん」と鼻を鳴らしてくるりと背を向けた。
「にゃあ」〈ちょっとアンタ、ついてきなさい〉
「はいっ。何かご用事でも?」
「にゃあ」〈つべこべ言わずに、来ればわかるわよ。この家の連中ときたら、いくら私が手間がかからないからって、放置しすぎなのよ。使えない人間どもね〉
(あれ? 気のせいじゃなければ、このお猫様かなりお口が悪いんじゃ……。いやいや、可愛いお猫さまに限って、まさかそんな)
「にゃ」〈ぐずぐずしない!〉
「はいっ」
反射で返事をすると、三毛猫は軽やかに階段を上って小走りとなる。龍子は見失わないように後を追いながら、(猫って……)と若干割り切れない気持ちになっていた。
可愛い猫と話せるのは嬉しい。
しかしこんなキツイ話しぶりとあらば、本当に聞こえて良かったと言えるのか。
いや、考えすぎだ、と頭を振る。
せっかく猫に必要とされ、何かお願いされているのだ。
この家では一番手が空いている自分が力になってあげなければどうする。
その一心で、猫の後に続いた。
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