降り積もる想いを胸に

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降り積もる想いを胸に

 折り重なって、絡み合う手足。  背中に感じるぬくもり。  効果範囲、面積。体の上に腕がまわされていて、状況としては抱きしめられている。そういったすべてが、龍子の背後にいるのは「猫ではない」との判断を促してくる。であればそれはつまり。 (心臓が……、バックバク鳴ってんですけど……! だってこれ社長、となりに寝ているよね……!? いつ人間に戻っ……)  もう無理。心臓の音が聞こえてしまう。  現実から逃げ出すために、目を瞑って寝直そうとした。そのとき、ふっと体の上から腕の重みは消えた。  衣擦れの音ともに、冷えた空気が背に触れる。後ろにいた猫宮が、起き上がっていた。 「古河さん、起きてる?」 「はいっ、起きてます!」  突然のご指名、龍子は四の五の言う前に跳ね起きた。  距離が近くて。  顎に頭突きしそうになった。回避できたのは、猫宮の反射神経のたまもの。危なかった、と言わんばかりに目を見開いた猫宮と視線がぶつかる。  光に透ける茶色の髪。なぜか少し気難しげな表情。目元が渋い。 「社長?」 「昨日、俺は古河さんにキスをした」 「あっ、ええと、はい。昼間の……」 「夜も。そのときに、猫から人間に戻った。寝ているときに勝手に悪かった」  心臓が、ぎゅうっと痛む。  同時に、全身から力が抜けていった。 (わかっていたんだ。そうだよね。最初から、勘づいているっぽい雰囲気はあった。話題にしなかっただけで、全部気付いている。私が毎晩、猫の社長にキスしていたこと……。コタツ効果ではなかったこと)  前夜がたまたま猫宮からのキスだったとして、そこに罪悪感を抱くことがあるのなら、それは龍子だって同じだった。これまでに何度も、繰り返してきたことなのだから。  そのことを詫びようとした龍子に対し、猫宮はさらに低い声で続けた。 「人間に戻ってからも、キスをした。古河さんが意識のないときに」 「えっ……それってつまり、人間の社長と、人間の古河さんがキスをしたって意味ですか。あ、つまり私が」  確認しつつ、呆然と猫宮を見上げる。 (古河さんってなにー!? 古河さんって、古河さんって。動揺して一人称が三人称になってしまった)  龍子の問いかけに対して猫宮ははっきりと頷き、小首を傾げて龍子の顔をのぞきこんできた。 「古河さん、人間とのキスは」 「いやあの、恥ずかしいので聞かないでください。初めてなので。あ、ああ~、初めてって言っちゃった。余計恥ずかしい……」  頬に血が上ってくるのがわかる。両手で顔を覆って、龍子は俯いた。穴があったら入りたいとはこのこと。それなのに、猫宮はさらに追い打ちをかけてくる。 「意識がないときはノー・カウントとして。意識があるときにもしておきたい、と考えているんだが。どうだろう」 「それって、いまこの状態でってことですか?」  聞き間違いかと、顔を上げて尋ねる。猫宮「そう」と首肯した。 「猫から人間に戻るとか、そういう理由何もないのに?」 「ファーストキスのやり直し。やり直しというのは違うか、取り戻すため? ただのキスをいま、俺と古河さんでする。どう? イエスかノーで」 「……………………はい」  幾分不明瞭な返事。自分でも聞き取りづらかったそれは、「はい?」と聞き返したつもりだったかもしれない。それで「本気にした?」なんて言われたら、「いえいえ」と笑ってごまかして。  そこで終わり。それでも良かったのに。  猫宮の骨ばって長い指が龍子の顎を軽く上向ける。さらりと間近な位置で茶色の髪が揺れて、伏せられた睫毛の長さに、綺麗な目元だなと思いながら目を閉じた。  唇と唇が触れた。  想定より長い時間が過ぎて、やがて猫宮の気配が離れて行く。  夢から醒めるように目を開ければ、猫宮のガラスのように透き通った瞳が龍子を見ていた。 「いまのを、古河さんのファーストキスにカウントするということで。相手は俺だ。忘れないように」  忘れられるはずのないことを、一言一言区切るように、告げてきた。  * * *  函館出張、二日目も満喫。 「旧函館区公会堂に行けなかったのは残念ですね。ドレスを着て館内散策できるんですよ。大広間で夜会ごっこしたかった」  次に来るときはあれもしたい、これも食べたい、行きそびれたあの場所にもと言い合いながら午後の便に乗って東京に戻り、猫宮の運転で都心にある屋敷へと帰り着く。  自由に出入り権限の与えられている犬島が今日も来ていたようで、玄関まで出迎えに来て、二人が持ち込んだ土産品の数々に苦笑していた。 「ずいぶんな収穫ですけど、おじいさまのお屋敷の件はあまり進展なかったみたいですね」  ぐさりと胸に一撃を受け、龍子は心臓を手で押さえて「すみません」と即座に謝罪する。  その横で、猫宮が悪びれない様子で答えた。 「少なくとも、買った人間が普通の理由で買っていないだろうことはわかった。そちらも詳しく調べた方が良いだろう。近いうちにまた行くことになる。古河さんのご家族にも挨拶しそびれた」 「あ~、すみません……」  犬島に続き、猫宮にまで平身低頭謝り、龍子は聞けない問いを胸に抱え込んで少しだけ居心地の悪い思いをする。 (家族に挨拶って、どういう意味合いの……。社長はふつう平社員の家族にわざわざ挨拶しに行かないと思うんですけど。同居の件かな?)  気にはなるが、確認するのが少し怖い。今はまだ。  ホテルで迎えた朝、人間同士で「ただのキス」をした。その意味や理由を言葉で確認することができなかったため、龍子にとっては謎のままになっている。  猫宮から荷物を受け取りながら、犬島が流れるように続けた。 「颯司(そうじ)さん。榛原(はいばら)社長の件でご報告があります。来週、(あかね)お嬢さんの誕生日パーティーがあるそうで、ぜひ出席をとのことです」 「ん~、そう来るか。社長はお嬢さんの件さえなければ、仕事ぶりも人柄も言うことないんだけどな。わかった。逃げ切れる気もしない。出席で」  直感的に。その会話だけで、龍子はそれが何の件かわかってしまった。 (「茜お嬢さん」って、社長の婚約者候補だ……! 会うんだ。お誕生日に。それはやっぱり、相手の方も期待するはず。社長はそういう気のもたせ方、どう考えているんだろう)  ちらっと見た拍子に目が合う。  猫宮は落ち着いた様子で龍子を見下ろして、やわらかな口調で行った。 「土産品、冷蔵庫に入れるものは入れておく。今日は早く休んだ方が良い。疲れただろ」 「はい、お言葉に甘えて。それでは二日間ありがとうございました。犬島さんの手配にも感謝しています。おやすみなさい」  龍子は二人に対して頭を下げて、自分の荷物を持って階段を足早に駆け上がり、部屋へと向かう。胸がいっぱいで、うまく口をきくことができなかった。  函館観光、あやかし屋敷と化していた祖父の家。  会えなかった両親。  二人で過ごした夜と迎えた朝。  たった二日で、溢れるほどの思い出を抱えてしまった。  ――忘れないように (忘れられないけど、忘れられなくて良いんでしょうか。私は社長にとって何なのでしょう……。あのキスの意味は)  龍子が立ち去った後、犬島はくすり、と人の悪そうな笑みをもらした。  それを耳にして、猫宮は顔をしかめる。 「わざわざ古河さんの前で、茜お嬢さんの話を出さなくても」 「すみません。実は今日出先で、茜お嬢さんにばったり会ってしまって。なんか言いたそうだなって思って聞いたらパーティーの話が。やぶ蛇でした」 「柚希(ゆずき)のせいか。目に浮かぶよ、どうせ面白がって追い詰めたんだろ。もう、お嬢さんの相手は俺より柚希で良いんじゃないか」 「お嬢さんと社長が納得するなら、俺は別にそれで構いませんよ」  どこまでが本音なのか。  つかみにくい受け答えに、猫宮は横を向いて息を吐き出した。犬島はふと笑みをおさめて「それと、調べていた件ですが」と固い声音で告げる。 「古河さんのご先祖さま、たどれるだけたどりましたけど、『秋津(あきつ)』さんはいなかったですよ」 「そうなのか? 似ていたぞ。血縁に見えた」 「まあ、調べたと言っても今はまだ戸籍をたどっただけなので……。どなたかの通り名とか、蝦夷地に渡ったときに名前を変えたとか。何かしらの理由はあるのかもしれませんが」  あやかし屋敷にいまも住み着いている、異界の住人。  猫宮家の先祖、紗和子が執着を見せている相手。子孫である颯司を動かしてまで、会って思いを遂げようとしていた。その思いは危ういほどに重く、颯司の力をしても、抑えきれずに暴走の兆しを見せた。  話しながら歩き出し、二人でキッチンへと向かう。  土産品のつまった常温のショッピングバッグをのぞきこみ、犬島が顔をほころばせた。 「いいですね、じゃがポックル」 「好きだと思った。夜食にしよう。今晩も少し調べ物を」 「休めばいいのに。昨日一睡もできなかったんじゃないですか、青少年。ホテルの部屋取り直したでしょう。請求書確認するまでもない、わかっていますから」 「柚希」  とがめるように名を呼ばれ、犬島は声を上げて笑い出した。
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