いつか数え切れないほどキスをする(前編)

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いつか数え切れないほどキスをする(前編)

「えっ、私も出席ですか?」  函館出張を終えて、数日が経過。  仕事帰りに猫宮と犬島に表参道のブランドショップに連れ出されるという目も眩むようなイベントに遭遇。  どういうことかと聞けば、笑顔の犬島に「明日の金曜日夜の、榛原物産のお嬢さんの誕生日パーティー用ドレスを選びます」と言われてしまった。 「その~、私は不適切では。知り合いでもないですし、秘書さん同伴なら犬島さんがいれば百人力といいますか」 「猫になったら頼りは古河さんだけなんだが」  さっさと店員と話をつけ、何枚ものドレスを台に並べてもらいながら、猫宮が軽い調子で口を挟んでくる。 (それはずるい~~! たしかにそうだけど、そうだけど)  猫になってしまった猫宮を人間に戻すのは、龍子だけが持つユニークスキル。  その能力を挟んで、二人の関係は函館で過ごしたあの夜から、ゆらゆらと揺れている。  帰ったばかりの日曜日は、ついに猫は龍子の部屋を訪れなかった。(もう大丈夫になったのかな、お役御免かな)と、ひそかに朝から晩まで悩み抜いた月曜日の夜。  ――猫だ。  猫が部屋に来た。 (社長、猫のときは「猫宮だ」じゃなくて「猫だ」なんですね。自覚がすごい!)  招き入れると、猫はいつものようにいそいそとコタツに向かった。函館に行く前とまったく変わりないその態度に、龍子がほっとしたところで。  ――自分からするのと、俺からされるの、どっちが良い?  猫がキスについて確認してきた。可愛らしい猫そのものの姿だったので、龍子は気軽に答えてしまった「どっちでもいいですよー」と。  ――わかった。じゃあ、古河さんが寝てからにする。おやすみ。  言うなり、猫はいつものようにコタツで丸くなって寝てしまった。 (……? つまり? どういう?)  不思議に思いながら龍子はいつも通り勉強をしてからベッドに入る。よくわからないままいつの間にか寝てしまい、朝起きたら横で人間の猫宮が寝ていた。  朝方寒かったせいか、すっかり二人で身を寄せ合って。ぬくもりを与え合うように。  あわあわと焦る龍子に対し、目を覚ました猫宮は淡々と説明をしてきた。  ――怖がらせるつもりはないので、さらっと聞いてほしい。悪霊に近くなった存在が、古河さんの操を狙っている。俺に取り憑いて、思いを遂げる気だ。  ――めちゃくちゃ怖いんですが!? えっ、この部屋のどこかにいるってことですか?  龍子が枕を胸にひしっと抱きしめながら聞くと、起き上がったままの姿勢で猫宮がすぅっと視線をさまよわせた。 (ひぃ~!! 猫がときどきするやつ~! 何もない空間を見て、何かいるみたいな反応するやつ……! 何が見えているんですか……。私の操を狙っている悪霊って)  操=貞操。  猫宮に取り憑いて思いを遂げるとは、それすなわち。  ベッドの上で後手をつき、猫宮から距離を取りながら、龍子は慎重に尋ねた。  ――と、と、とと、取り憑かれてはいないんですか? その……、つまり人間同士でひとつ屋根の下で毎晩同衾していて、何かそれらしいことが起きたり。  精一杯。可能な限り踏み込んだ表現で。いま聞ける最大限の質問を、した。  猫宮はその覚悟がわかっているのかいないのか、実にさっぱりとした調子で答えた。  ――いまのところは、猫化以上の悪さはされていない。若干……、まあそれは置いておいて。いずれにせよ、あれがうろうろしている間、俺は古河さんに手を出すつもりはない。それは俺の意志とは言えないから。ただ、離れるよりは近くにいた方が安全だとは思う。  ――それはそうですね、はい。私、見えてないですしなんの対抗手段もないですし。猫チャン社長がそばで見守ってくれるというのなら、その方が。  言いながら、自分の言葉にほんのすこしの欺瞞が混ざり込んだのは気付いていた。それは猫宮にも伝わってしまっていて、くすっと笑いながら指摘されてしまった。  ――起きたら人間になっていて悪かったな。猫でやりあうより人間の姿でいた方が何かとやりやすいんだ。それでも、昨日も力尽きてしまった。朝が来る前に部屋に戻っているつもりだったんだが、うまくいかないな。 (昨晩も戦っていらしたんですか? ということは本当に近くにいるんですか、その悪霊……。寝付きが良くて良かった~。怖いもの目撃したくない)  怖い怖い、と龍子が抱えた枕に突っ伏していると、マットレスが軽く揺れた。  はっと顔を上げたときには、猫宮はすでにベッドを下りてドアに向かっていた。  ――それじゃ、またあとで。朝食のときに。  ぱたん、とドアが閉まる。  それを見送ってから、部屋にひとりで残されたのが急に恐ろしくなって、龍子は身支度をさっさと済ませて食堂へと向かった。  以降、火曜日、水曜日、ともはや夜に猫の猫宮が部屋を訪れるのを心待ちにしてしまい。  気がつくと朝。同衾。 (社長は「手を出すつもりはない」って言っていたけど、何か引き返せないところに来てしまっている……)  何かとまずいと思い悩み始めた木曜日に、ドレス選びイベント。  何着か試着をし、試着室から顔を出すたびに猫宮と犬島に「それも良いな」「何を着ても似合いますね」と歯の浮くようなおだてをいわれ続ける間も、胃がキリキリと痛んでいた。  犬島が離れたところを見計らって、龍子は試着室から身を乗り出すと、猫宮に対して小声で喚く。 「たしかに、社長のいまの状態で婚約というわけにはさすがにいかないとは思いますけど……! 何もお嬢さん本人と私が対面する必要はないのでは!? こう……、私の立ち位置ってなんといいますか、間女……」  ふふ、と猫宮が顔を逸らしてふきだした。  拳を口元にあてているが、肩が震えている上に、目元がくしゃっと笑み崩れている。 「社長、笑い事ではありません! ものすごいヘイトをぶつけられたらどうしようって悩んでいるんですってば。立場的に、私はどの程度の反撃が許されるんですか?」  煙に巻かれている場合ではと、ぎゅっと猫宮の袖を引っ張ったはずなのに、急に手応えがなくなった。どういうことかと思う間もなく、猫宮は忽然と姿を消していて。 (なんということでしょう、猫チャン……!)  綺羅びやかな照明の下、毛並みの良い猫が現れていて、目が合った。  離れた位置にいる店員が、今にも振り返りそうになっている。 「社長、こちらへ」  龍子はとっさに両腕を開いて猫を招き、了解したように三毛猫はジャンプして、龍子の腕の中へと飛び込んだ。  間一髪。そこで、シャッとカーテンを閉めて立てこもる。  三毛猫をぎゅうぎゅう抱きしめながら、龍子は大きく息をついた。  激しい動きに、髪がわずかに乱れる。  猫も、胸の位置でほーっと息を吐きだしていた。 「久々に危なかったな……。古河さんと会う前はよくあったんだが。最近大丈夫かと思っていたんだが、やはりこれでは離れられないな」 「そうですね……。大切な取引先のお嬢様のパーティーで、社長が猫になるわけには……」  これは龍子も覚悟を決めて、パーティーに出席しなければならないようだ。  意気込む龍子に、腕の中の猫がキリッとキメ顔で言う。 「キス良いか?」 「そうでしたそうでした。はい――」  猫が伸び上がって、軽く俯いた龍子の唇にキスをする。  そこには瞬く間に、さきほどと変わらぬスーツ姿の猫宮が。  普段の龍子には縁のない高級店、試着室もそれなりの広さであったが、近距離で向き合うとさすがに照れくさい。  猫宮もそれは気付いているようで、カーテンに手をかけて「外で待ってる」と言った。そのまま出て行こうとして、動きを止める。  目の前には、犬島と女性店員。  試着室の中には髪を乱した龍子。そこから出てきた猫宮。  一瞬の沈黙を果敢に打ち破ったのは女性店員で、「そのドレスもとてもお似合いで、お可愛らしいですね~!」と龍子をほめちぎり、場を盛り上げ始めた。  犬島はにこにこと笑いながら「これはもう、猫まっしぐらですね」と言う。 (絶対わかってるくせに~~! それはフォローじゃないと思うのですが!)  この状況、ひとに目撃されるにはなかなかにまずい。  焦る龍子は助けを求めるように猫宮を見たが、泰然としたもので、何食わぬ調子でしれっと言っていた。 「いま着ているのも包んでおいてほしい。在庫はあたらなくて良い。猫の毛がついているかもしれないから、現物を買う」 「猫宮社長ってば、あら~」 (事実しか言ってないのに、店員さんの誤解が深まっていますが!?)  迂闊に口出しができないまま、龍子はすごすごと試着室の中へと戻っていった。  いたたまれなさが、過去最高。鏡を見ると、真っ赤になった自分が見返してきていて、耐えきれずに目をそらした。  結局、一回のパーティー用には明らかに多い枚数のドレスを買い込み、帰宅。  就寝時間帯になっても人間だった猫宮は「今日は出先で猫になったせいかな。なんだか一晩、大丈夫そうな気がしてきた」とうそぶいていたが、むしろ龍子が必死の形相になって主張してしまった。 「悪霊!」 「わかった。じゃあ一緒に寝よう」  かくしていつも通りの夜を過ごし、翌日。  パーティーの日を迎えた。
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