いつか数え切れないほど恋をする(後編)

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いつか数え切れないほど恋をする(後編)

 都内某高級ホテルにて、立食パーティー。 「この時代に、娘の誕生日にこれだけのパーティーをする企業って本当にあるんですね。まごうことなき社交界……」  照明をほどよくおさえ、盛大に花で飾り付けられた会場。  中央のテーブルに並べられた、数々の豪勢な料理。着飾った紳士淑女の皆々様に、お盆にドリンクをのせて歩き回るスタッフの姿。龍子ははやくも人酔いをしてしまっていた。お腹がすいているせいかもしれない。  猫宮が挨拶にと離れようとしたので、龍子は「何か食べてます」とすかさず言ってテーブルへと近づく。  ローストビーフやテリーヌくらいなら龍子にもわかるが、装飾過多でいったいなんの料理かもわからないものも多い。そのどれもが美味しそうで、溜息が出る。  冷菜まわりなど、そこだけプチ雪祭りであるかのように大胆にも氷像が飾られていた。 「……ねずみ?」  氷像はねずみだった。なぜねずみ? と思いつつ、龍子は取皿を探す。  そのとき、視線を感じた。  辺りを見回すと、クリムゾンレッドのドレスを身につけた美女が、少し離れた位置から龍子に強い視線を投げかけていた。  豊かな茶色の髪を結い上げていて、そのせいか目がつり上がってみえる。  いかにも勝ち気そうな印象。 (出たー! 写真で見た通りの、茜お嬢様だー!)  相手の顔がわからないわけには、ということで龍子は日中に茜をはじめとした参加者の写真に一通り目を通していたので、すぐにわかった。  これは敵視されている気がする。絶対に敵視されている、と緊張を高める中、茜はつかつかと龍子の前まで歩み寄ってきた。 「あの! 猫宮社長のところの、秘書さんですよね!?」 (ん? 思ったより当たりが優しい! 敵視されてない!?)  ここは自分から名乗っておこう、と龍子も大きく息を吸い込んでひといきに言った。 「はい! 入社二年目の古河と申します! 最近営業部から異動してきました! 至らぬところもあるかと思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします!」 「それはたぶん無理! 違う会社なので! 仕事は先輩に教わってください!」  緊張しすぎて口が滑り社内的な挨拶になったら、ど正論で返された。  反論の余地なし。龍子は心の底から「大変失礼しました」と謝った。  初手、おかしなことになって緊張した空気が霧散したところで、茜が距離を詰めてくる。  注意をひいてしまったせいか、周囲には「なんでもないです」というように微笑みかけ、龍子に歩くように促してきた。  二人で連れ立って、会場内のひとけのない隅へと移動する。 「突然声をかけてごめんなさいね。古河さん?」  そこで改めて、ちらっと龍子の全身に視線をすべらせ、茜は感じよく微笑む。  龍子が身につけていたのは、ラベンダー色のワンピース。肩から首周りが上品なレースになっていて、スカート部分は短すぎない丈で、ふんわりとフレアになっている。髪も出掛けに美容院で飾っていて、自分では到底できない完成度になっていた。  それでも、生まれたときから正真正銘のお嬢様なのだろう、茜の醸し出す華やかさに及ぶべくもない。  龍子は目を奪われつつ、頭を下げた。 「こちらこそ騒いですみませんでした。茜お嬢様」 「いえいえ、私が悪かったわ。びっくりしたのでしょう」  やはり思った以上に、話しやすい。腰が低い。  しかしなにしろ茜は本日の主役、かしこまらせている場合ではないと、龍子もまたさらに態度をあらためて応じる。 「いえいえいえいえ、私の反応が過剰で。緊張すると何言ってるかわからなくなっちゃって」 「いえいえいえいえいえ、そんなことないわ。若いのに堂々としてたいしたものよ」 「いえいえいえ、そんな、精進します、もったいないお言葉です」 (あ、これ、なんだろう? どうしてこうなってるんだろう?)  明らかに、変なことになっている。  首を傾げる龍子をよそに、茜はにっこりと笑って小声で言った。 「社長、最近、猫?」 「ええーっ!?」  不意打ち。  龍子の反応が予想外だったのか、きゃ、と茜は手で自分の口をおさえる。 「ごめんなさい。知ってるとばかり思って。社長が猫なこと」 「それは……、茜お嬢様はどこまでご存知で」 「だいたい、全部」 (事情通なんだ!?)  そうは言われても、龍子から失言はできないと様子を伺うと、空気を読んだのか茜から話を再開した。 「私の父が、猫宮社長と私の婚約を進めようとしているのは、知っているわよね? だけど私……、どうしても猫が無理なの」 「無理とは」 「その……、猫って凶暴でしょう?」 「それはどちらの猫さんのことですか?」  少なくとも猫宮社長はなかなか行き届いた猫さんですよ、と言いそうになったが寸前で飲み込む。猫と認めて良い場面なのか。  茜はもじもじとしながら、だってね、と続けた。 「私、以前ラビットファーを持っていたことがあるのだけど……。出先で、匂いに反応した猫に襲われたことがあって。もう、いきなり飛びかかってきて、鼻にシワを寄せ、唸り声を上げて、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……。まるで自分がされているみたいで恐ろしかったわ。それで思ったの。猫は無理だって。できれば父には思い直して欲しいのよね……。うちは、猫とは無理なんだから」  その茜の視線の先。  どこを見ているのかと龍子もそちらをうかがうと、ねずみの氷像に行き着いた。 「……もしかして……、榛原一族はねず」  ぎろり、と。  それまでふわふわとした話しぶりだった茜が、龍子をにらみつけた。 (図星だ……! もしかしなくても、たぶんこのひと、ねずみ) 「古河さん。いま何を考えたの?」 「いえいえいえ、何も。あの、親が婚約を持ち出すとか、なかなか日常では聞かないので興味深く」 「ねずみについてあなたはどう思う?」 「え~と……、猫よりは犬のほうがまだ良いのかなって思います。相性的に」  特に何か思惑があったわけではない。  ただ、頭をよぎったことを素直に言っただけだ。猫とねずみは相性最悪かもしれないが、犬ならまだましかな、と。  茜の反応は目覚ましかった。顔から火を吹く音が聞こえるかと思った。  ちょうどそのとき、「ここにいたんですね」と知った声が響く。 「犬島さん。すみません、本日の主役のお嬢様と話し込んでしまって」 「そうですね、隅にいるのはあまり感心しません。茜お嬢様? そろそろ人の輪に戻りませんか。ご一緒しますよ」 「……はい」  消え入るような声で答える茜。 (猫だけじゃなくて犬島さんも怖い……?)  二人をちらちらと交互に見比べて、龍子は首を傾げそうになった。  目の前を、真っ赤になって俯いた茜が通りすぎる。助けた方が良いのかな? と心配になったところで、「古河さん」と猫宮の声に呼ばれた。 「社長。あの、お嬢様……犬島さんと」  この二人は放っておいて良いのですか? と目で尋ねてみたが、猫宮は茜に対してにこにこと如才ない笑みを向けて言った。 「こんばんは、茜さん。お誕生日おめでとございます。うちの犬島でしたら、貸し出しますよ。本人了承済なのでお気になさらず。どうぞご自由に。一晩でも」  含みのある物言いに、龍子は(んんん?)と真顔になり、猫宮と茜を見る。茜はすがるような視線を猫宮に向け、真摯な態度で尋ねた。 「猫宮社長、こんばんは。父は、あの……」 「ご挨拶させて頂きました。秘書とはいえ女性連れとは珍しいと言われたので、そのへんのご説明も一緒に。ようやく婚約の話も諦めてくれそうですよ。お互い良かったですね」 「ありがとうございます……。助かります」  茜は、丁寧に猫宮に頭に下げた。  事情がよく見えていない龍子にも、この二人は恋愛的な意味では何もなさそうな上、本当に婚約も迷惑がっているんだ……と理解できた。 「そういうことですので、貸し出されたわけですけど、借りてくれますか。茜さん」  もじもじとしている茜に、笑顔の犬島が余裕たっぷりに話しかける。はい、と茜が小さく答えるのが聞こえた。  そのまま、軽く挨拶をして立ち去る二人の後ろ姿を見送り、龍子は「はぁ~」と間抜けな声をもらしてしまう。 「お似合いですね、あのお二人。あそこが婚約した方が自然じゃないですか」  それは何気ないただの感想であったが。  目を細め、口角を持ち上げた猫宮が視線を流してきて、声を低めて言った。 「だろ? 俺はずっとそう言っているんだ。時間の問題だと思うが」 「え……、じゃあ本当に!? え、そうなんですか? 犬島さんが!?」 「茜さんもバレバレだからな。さすがに二人で戻ったら、榛原社長もわかるだろう。犬島が相手でも不足はないはず」  言うだけ言って、猫宮はゆっくり歩き出す。  龍子が追いかけると、肩越しに振り返って言った。 「挨拶はあらかたすませた。義理は果たしたし、帰ろう。猫になる前に」  * * *  危なかった。  駐車場にたどりつき、車に乗り込んだところで、猫宮が猫になった。  周囲にひとがいなかったことに胸をなでおろしつつ、龍子はふと気になっていたことを尋ねた。 「どうして簡単な接触だけじゃなくて、キスが有効なんでしょうね?」  今はまだ、微妙な緊張感のある二人。こうして不意に猫になったとき、どちらからキスをするか、うかがいあう空気になってしまう。  ひとまず後部座席に身を隠した三毛猫の猫宮は、ぴしっとエジプト座りをして龍子を見て言った。 「俺の猫化に関わっているのはまず間違いなく例の悪霊みたいなもの、なんだが。解呪方法がキスであることを、気に入っているんだ。おそらくあの存在の中で、それが霊的な意味を持つ契約となり、君を俺の【花嫁】だと認識するに至ったんだろう」 「……? もう少しわかりやすく言うと?」  首を傾げながら顔を近づけると、三毛猫はシートの上で前足をふみふみとした。首を伸ばそうとして届かず、シートから落ちかけて踏みとどまった仕草。  キス失敗。  ふたたびうかがいあう空気になったとき、三毛猫が切なげに目を細めて龍子を見つめた。 「古河さんのキスはファーストだけではなくセカンドもサードも俺に欲しい。叶うことなら、その先もぜんぶ」 「猫のときならもうたくさん……」  冗談めかして笑った龍子に向かって、猫がジャンプする。  唇が触れた瞬間、人間の青年が姿を現して「この後部座席の狭さはどうにかならないのかな」とぼやいた。 「せ、狭いですよね!」  狭すぎて、いまにもぶつかりそうなほど顔が近い。  間近な位置で見つめ合った人間の猫宮に動揺しつつ龍子は即座に言ったが、猫宮はくすりと笑って言った。 「人間の俺にはまだ慣れない? そろそろ慣れて欲しい。毎晩一緒に寝ている仲だ」 「そ、それは……やむをえず」 「やむを得ない事情がなくなっても、俺はずっと一緒が良い。古河さんは?」  真面目な声で尋ねられて、ごまかしきれず。  龍子は、観念して頷いた。  猫宮の腕が伸びてきて、龍子の首にまわされる。  引き寄せられて体を倒し、目を閉ざした。  ――古河さんのキスはファーストだけではなくセカンドもサードも俺に欲しい。叶うことなら、その先もぜんぶ  猫化現象がいつまで続き、どういう終わりを迎えるのか。  未来を見通すことはできないけれど。  いつか彼と数え切れないほどのキスをする。  龍子の中には、たしかな予感があった。
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