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3-1秘書生活一日目
龍子がお金を必要としている理由。
それは、人手に渡ってしまった、地元函館の祖父母の屋敷を買い戻す為であった。
函館山の麓の、少し入り組んだ未舗装の道の先にぽつんと建っている一軒家。
屋敷自体はさほどの大きさではない木造平屋だが、庭がとにかく広く、ざっと二百坪。
山との境目には一応塀があり、敷地として区別してはいるが、遠目には実質山の一部のような木立が庭の中にあった。
そして、積み重なった岩の間から澄んだ水が滝となって迸っており、川となって池に流れている。そこには弁柄色に塗られた橋がかかっていて、桜や紅葉といった季節を彩る木々に囲まれた四阿へと続いていた。
(春の、猛烈に桜が散る中で見上げた青空とか、夏の夜の草の匂いとか。秋に聞いた虫の声、満月。池に静かに雪が振り続ける冬。いま思うと、あそこで目にした光景はいつも現実離れしていて、異世界にでも通じているんじゃないかって思っていたなぁ……)
屋敷は、数年前に祖父母が相次いで亡くなった後、龍子の母が相続していた。
だが、龍子が大学四年生の頃、遠方に暮らす父方の祖母の体調が悪化。介護のために行き来をしたり、そのうち同居となってバタバタしているうちに、屋敷の管理に手が回らなくなり、声をかけてきたひとがいて売却してしまったというのだ。
龍子が話を聞いたのはすでに手続きがすべて済んでからのことで、両親から聞き出した売値は学生の龍子がすぐに用意できるようなものではなかった。
(気持ちの上では「なんで」だったけど……。おばあちゃんと同居するために、家のリフォーム資金が必要だったって言われたらだめなんて言えないし。受け取ったお金は使った後だし、すぐに返して契約を無効に――なんて無理なこともわかっていたから)
幸い、不便な場所ということもあってか、すぐに解体等手を入れている様子はないという。龍子は可及的速やかにお金を用意して、買い戻すことを現在の第一の目標としている。
もちろん、どうにか買えたとしても、今度は維持費の問題が出てくる。
二百坪の庭に、季節ごとに年数回造園業者を頼んで草木の剪定。龍子自ら屋敷の管理に行けないときには、ひとにお願いして風通しをしてもらう必要がある。
買うまでも、買ってからも、お金はかかり続けるのだ。
だからこそ、貧乏アパート住まいを続け、生活も切り詰めてきた。
社長とその秘書からの怪しげな誘いにも、「手当は出る」と聞いてしまえば、諸々言いたいことを飲み込んで引き受けてしまう。
たとえそれが「あやかし」絡みという摩訶不思議な案件で、位置づけはお猫様係で公私ともに社長と過ごすのが業務内容だとしても。
かくして龍子の社長秘書生活が始まったのだった。
* * *
秘書生活一日め、退勤。
犬島の運転するポルシェの後部座席で、龍子は青い顔をして俯いていた。
はあ、と溜息をついたところで、助手席で犬島と会話をしていた猫宮が気づき、振り返る。
「疲れたのか」
目を瞑って聞けば、この上なく麗しい美声。
(これで、目を開けてそこにいるのがお猫様だったら言うことないんだけど……)
人間型の猫宮には聞かせられない本音を押し隠し、龍子は顔を上げる。
「高級車、後部座席狭いんですね……。高いのに乗り降りしにくくて、座り心地悪いってどういうことですかこの車」
「見た目にステータスガン振りしてるんだ」
「見た目になんの価値があるっていうんですか。車なら見た目より安全性と乗り心地、人間なら見た目より中身、猫宮社長なら人間より猫」
「最後のはなんだ。余計なことを言ってるぞ」
怒られるかと思ったか、一言咎めただけで、猫宮は前に向き直った。
窓の外は、夜の闇に煌めく光の流れ行く首都高。
なめらかなハンドルさばきで運転しつつ、犬島が控えめに口を挟む。
「社長が猫のときは、こういう誰が乗っているかよくわからない車、使い勝手が良いんですよ。猫なら後部座席でも狭くないですし。昨日はこたつがあったので、違う車を使いましたが」
「ああ……、社用車とプライベート用と、会社と自宅に複数あるんですよね。高級車ばかり」
秘書として得た知識を呟いて、龍子は苦笑した。
(社長が猫のときは運転手も頼めないから、運転は秘書……って聞いたけど。秘書さんの仕事もやっぱりすごく大変)
突然の秘書抜擢。そして異動。
前触れのなかった人事に社内がほのかにざわついているのを肌で感じつつ、龍子は朝から社長室に隣接した秘書室での仕事をスタートさせた。
手ほどきは犬島で、社長のスケジュール管理など細かい説明や、電話の取り方等初歩的なところから確認があった。そのやりとりの中で、場合によっては運転も業務に含まれる、と説明を受けたのだ。
免許は持っていてもペーパーで、東京の道路を運転したことがない龍子はそれだけで怯んだ。扱う車がずらりと高級車揃いであったのも頭が痛い。一事が万事その調子で、これまで末端として関わっていた会社の、まったく見えていなかった一面を目の当たりにすることになった。
猫宮に関しても。
今日一日、「猫化したらすぐに対処」ということで龍子は猫宮のすぐそばに控えていたが、打ち合わせ、部下への指示、電話対応、そのすべてにおいて実に如才なく的確で、最高ランクの仕事ぶりというのが龍子にもよくわかった。
(あれだけ優秀なら、実家の後押しがあるにせよこの年齢で社長というのも納得。猫にして遊ばせておくのは惜しい人材というのも。私は、猫の社長推しだけど)
猫宮の後ろ姿を見ていると、前を向いたまま、猫宮が穏やかな声で話しかけてくる。
「古河さん、今日はありがとう。猫化が始まったのはここ二、三ヶ月で最初の頃はそれほど頻繁でもなく、短時間だった。だけどここ十日ほどで頻度が激増して、しかもなかなか人間に戻らないとあって。どうなることかと思ったが、古河さんの猫化抑止能力は本物だ。今朝のキ……のおかげか、久しぶりに日中フルで仕事ができた。かなり助かったよ」
「御役に立てたなら良かったです。仕事の方では全然だったので、引き続き頑張ろうと思います」
「一日目だからな。急な異動だったのもあるし、自分のペースで覚えてくれれば」
猫宮の話しぶりは優しかったが、龍子も一年半以上の社会人生活を経てよくわかっている。
(優秀なひとの考える「自分のペース」は非常に過酷……! お言葉に甘えてえのんびりやろうとすると痛い目を見る。早く仕事、覚えよう。元々抱えていた案件は気になるけど、うまく割り振ってくれたんだろうし。そこは私も「自分が急にいなくなったときに、周りが困る」ことにはならないように仕事進めてきたから、心配しすぎないようにして)
「異動が一時的なものとして、戻ったときに場所があるかどうかは、いまここでどれだけきちんと仕事をするか、ですよね。せっかくの機会ですし、会社のいろいろな面を知ることは、長い目で見て自分のためになると思っています」
仕事の話だけに真面目に返事をしたのに、犬島がくすくすと笑いながら声をかけてきた。
「社長のいろいろな面も見られますよ。ご興味は」
「猫ならば」
「どういうことだ。古河さんは俺の猫化解決に協力する気はないのか。解決しなければ君はずっと俺のそばにいることになるのに」
(猫ならなぁ……)
思ったけど、言ってしまえば猫宮が落ち込むと思ったので龍子は口をつぐんだ。
運転中ゆえ前を向いたまま、犬島が「うーん」と笑いの混じった唸り声をあげた。その横で、「あっ」と思い出したように猫宮が声を上げ、肩越しに振り返ってくる。
「朝の件、聞きそびれていた。古河さんの財政事情だ。夕食のときにでも、差し支えない範囲で構わないから教えてほしい」
「面白い話ではないですが」
「給料の査定額に影響する」
「わかりました、ぜひ詳しくご説明させてください!」
隠すようなことでもないからと、龍子は猫宮に対して、人手に渡った祖父母の屋敷について話すことにした。
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