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喘ぐ人
迫る怪異を前に、ナオは組んだ指の隙間から目だけを覗かせていた。
指で切り取った小さな窓の向こうは、異界。
その窓の中では痛ましい熱傷を負ったカノジョも、真の姿を取り戻す。
「正体見たり」
幾千、幾万という人間の、卑しい目と口、耳が……怪異の姿を借りて蠢いていた。
噂話ほど無責任で醜いものはないと、ナオは舌打ちを否めない。
下卑た異形を引き連れて、二歩三歩と後ずさる。彼が怪異を誘い込むのは、逃げ惑う振りをして床に描いた五芒星の中心だ。首を濡らした血液で描いたそれは、表から射す灯りの下で赫く光って見えた。
星の肚に呑まれた途端、怪異はギャッと悲鳴を上げた。
さる霊山に湧く清水と、混じり気のない塩を糧に、修行を積んだナオの血は、浄めの水と同等だ。その血で描いた結界に仕舞った不浄のものは、祓い清められる。
もがき苦しみながら消滅する異形の陰に、ナオはそのひとの姿を見た。
長い黒髪が美しい女が、哀しくも……どこか安堵するような笑みを口許に浮かべて、ナオに頭を下げている。
彼女は、被害女性──その魂の一部だ。
此度の依頼は、被害者Iその霊魂の救いを求める声からだった。
家族、友人に慕われ悼まれ、手厚い弔いを受けた彼女は、事件のことなど忘れて輪廻の輪をくぐるはずだった。それなのに、何度も何度も繰り返し……事件を思い出させる声が手足に絡みつき、心ならずも現世に取り残されてしまった。
憶測と偏見を纏わせ産み堕とされた怪異に、人々は恐れ慄き、それでも目を向けたがる。怪異の陰で怯え震える者の存在など、好奇の眼差しの前では霞み、見えはしないのだ。
哀れな怪異に出会う度、部外者は黙っていればいいのにとナオは苛々する。そういうナオをカナタは優しいと口にするが、ナオにしたら自分は普通で世の中の大半の人間が何処か麻痺しているのだとしか思えなかった。
「開きます」
組んだ指を躊躇いなく離す。
次の瞬間、ナオの前には異形の姿も女の姿もなく、蛇目を手にした青年が柔らかく笑いかけていた。
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