第6話

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「……分かった」  そう答えた星野くんがそっと離れる。  穏やかながら隙のなさを感じさせる、不思議な声色だった。  カッターナイフを持つわたしの手を包み込むように握り、顔を傾けて淡く微笑んだ。 「きみが望むなら」  するりとそれが彼の手に渡ると、かちかちと刃が押し出される。  その音は異様に大きく響いて聞こえた。 「え……っ?」 「どんなことでもするよ。こころのためならね」  外灯の光を鈍く弾く薄い刃。  それと彼を見比べ、わたしは呼吸を忘れる。  恍惚(こうこつ)としてさえいるような星野くんの微笑に、ぞくりとした。 (どんなことでも……?)  恐怖にも似た危機感が背中を滑り落ちていく。  ────人殺しでさえ(いと)わない、という意味だろうか。  “まさか”とは思うものの、それが飛躍(ひやく)し過ぎた考えだとは言い切れないように感じた。  とても冗談とは思えないのだ。  星野くんの表情は柔らかいけれど、その眼光は鋭く本気そのもので。    すっかり気圧(けお)され、怯んでしまう。  逃れるように手を引き後ずさった。 「……こころ?」 「い、いい。忘れて!」  力なく首を左右に振る。  自分の心音が耳元で聞こえるような気がした。  動揺を隠せていないのは自分でも分かったけれど、どうにか平静を装う。  そうしていないと彼に圧倒されて飲み込まれてしまう。 「わたし、帰るね」  (きびす)を返して足早に歩き去った。 「え……。待って、こころ」  星野くんの声にも振り向けないで、半ば逃げるように公園を後にする。  ゆらゆら定まらない感情が波立って、わたしを揺さぶっていく。  踏み出す一歩一歩が重くて、着地のたびに目眩(めまい)がするようだった。  彼はわたしが望めば、愛沢くんを殺してしまうつもりなんだ。  それくらいのことをしてのける覚悟があるんだ。 (おかしいよ……)  異常だと言わざるを得ない。  いくら好きだという気持ちがあったって、普通そこまで出来るものじゃない。  “何でも”にも限度がある。あって(しか)るべきだ。 (殺すなんて────)  ぎらつく刃と狂気じみた笑みを思い出す。  ……星野くんは優しい。  けれど、倫理観や恋愛観がどこかずれているのかもしれない。  信じて頼っていいものか、分からなくなってきた。  少なくとも愛沢くんのような直接的な凶暴さはないけれど。  単にその矛先が、わたしではないところに向いているというだけかもしれない。 「どうしよう」  立ち止まると、思わず呟いた。  愛沢くんから逃れたい、と思ったのは事実。  それで星野くんに(すが)ったのも事実。  だけれど、わたしは決して愛沢くんを害したいわけじゃない。  星野くんにそうして欲しいわけでももちろんない。
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