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2、在りし日
私の家族は、ポケットの中にいる。
決して他人からは見えない。
だけどその密やかな隙間に手を滑り込ませると、必ず指に触れてくる。向こう側から手を伸ばしてくる。それはいつ、いかなる時も。私が望む時も、望まない時も。
小さな彼らを私は決して手放せない。
東京郊外の一戸建て。周辺に田んぼが混在するのどかな町で、私は生まれ育った。大学二年生の夏に実家を出るまでは、その閉じられた環境になすすべもなく、当たり前と信じて息を潜めていた。
毎日のように聞く母の金切り声、幾度となく流された母の涙は、私の青春時代をマーブル模様にかき回す。
兄の障害を受け入れることができなかった母は、端的に言うと感情を抑えられない人だった。よく言えば感情表現豊かだが、それゆえか流されやすく、他人の評価に左右される人生を送っていた。
小学校の中学年あたりから、私はもう知っていた。兄も私も、母の期待には応えられない。特に、兄に対する母の態度は常軌を逸していたように思う。
「なんで普通のことができない」
母はそう繰り返し兄を責めたが、小学生の私にだってわかる。責めたところで即座にできるようになどならない。兄には、兄のペースがあり、世界がある。
なぜできないことばかりを責め立てるのか、ありのままの兄を認めないのかと、私は母を冷ややかな目で見つめていた。愚かしくさえ思っていた。そして、なるべく息を潜めて過ごした。できるだけ母の逆鱗に触れることがないよう、母の目線の先が、兄へ向くよう。
自己保身のために、私は兄を利用したのだと思う。
そのころから頻繁に見る夢がある。
兄が地面に空いた大きくて深い穴の底から、こちらを見上げているのだ。
なぜ兄がそんなところにいるのかはわからない。誤って落ちてしまったのか、はたまた最初からそこにいるのか。
困ったように眉毛を下げて、兄は私を見上げてくる。そして、右手を伸ばしてくる。
私は茶色い地面に手をつき、兄へ向かって手を伸ばす。懸命に、指の先までピンと張るようにして。
助けなきゃ、助けるんだ、それしか考えつかない。
兄も一生懸命に手を伸ばす。私もできうる限りの力を振り絞って、穴へ身を乗り出す。そして指先が届くか届かないか、その瞬間にいつも目が覚めるのだ。
たいてい決まって、兄を穴から助けだすことはできない。
目が覚めてしばらくのあいだ、重いまぶたの裏に、兄の困ったような顔が張り付いて離れなかった。
家族と離れて暮らし始め、夢を見る頻度は減った。だけど、忘れた頃に、忘れさせまいと夢を見る。
家族のことを忘れてしまったわけじゃない、忘れたいわけでもない、それなのに、夢は私に何かを自覚させる。忘れることを許さないのは、私自身なのかもしれなかった。
なぜなら、私は兄ごと、家族を捨てたのだから。
家を出たあの日、心の底から清々とした。もう振り返らないと決めた。
大学に合格して、バイトで生活費を賄う約束で一人暮らしを始めた。実家を出ることを許されるまで丸一年かかった。
家を出る日、
「どうせ三日ももたないでしょ」
母は吐き捨てるようにそう言った。
「あんたなんてどうせ泣いて帰ってくるに決まってるんだから」
意地っ張りはお互い様で、私はそれから大学卒業まで一度も実家に帰らなかった。母からも、電話をかけてくることはなかった。
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