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カランカラン、と店のベルの音がして、この時計店に父と母が入ってきた。
母のお腹はふっくらと大きく、父は母を気遣うように優しく手を取ってゆっくりとこちらに歩いてくる。
「懐中時計を探していて」
父の声はまだ若い。
「電車を運転されるのですね……ではこちらなどいかがでしょう。丈夫で長く使えるモデルです」
その声もまた若く張りがあるが、紛れもなく時計屋の主人のものだった。懐中時計は、父の手の中にまるであつらえたようにしっくりと収まった。
「……これにします。生まれてくる子供もいつか使えるように、大事に……」
父が朗らかな笑みを浮かべる。母がお腹を撫でる。そこで視界が暗転した。
微かに体が揺れて、また目の前が明るくなる。運転手の制服を身につけた父が、真剣な表情で電車のハンドルを握っている。時折懐中時計の方に目をやり、うむ、と満足そうに頷いた。
揺れが緩やかになり、ブレーキ音と共に止まる。終点です、の声と同時に父は時計をそっと手に取った。白い手袋をはめた父は、時計を大事そうに撫でて、ポケットに滑り込ませた。また視界が暗くなる。
次に目を開けた時には、俺の顔が目の前にあった。幼い俺の顔。
「父さん、これ綺麗だねえ」
「そうだろう? 大きくなったら、良樹にあげるからな。落とすなよ」
「わかってるよ」
俺が笑う。父が俺の頭を撫でる。ぱちん、と蓋が閉められる。視界が暗くなる。
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