第58話 うたたねの向こう側

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第58話 うたたねの向こう側

「おう、ショコラ、散歩に行くか。」  夏も終わりに近付き、やっと涼しくなってきた朝、俺はショコラに声を掛けた。くうん、とショコラが返事をする。俺はショコラの首輪にリードを付け、ショコラをイヌ用の乳母車に載せた。相変わらず、クソは外でするという主義を貫いているので、自分で歩けなくてもこうして出してやらざるを得ない。まあ、俺も一人では手持ち無沙汰だし、散歩にはショコラがいる方が良い。のだが、シニアカーを押してよろめき歩く年寄りの図になってしまうので、それが気にくわない。俺は今でも杖なしで歩ける。  ごろごろと乳母車を押して、俺は近所の河川敷を歩く。ここでいったん、排便タイム。俺はショコラを乳母車から降ろして、尻の下に新聞を敷いてやる。よし、健康的な大便だ。腹に問題は無し。ゴミをポリ袋に入れて顔を上げると、川面を流れてきた風がひやりとして心地よい。俺はひとつ大あくびをした。 「ショコラ、ここでちっと休んでいこうや。」  俺はショコラと連れ立って木陰に入った。ショコラの紐を木につないで、ごろりと草むらに寝そべる。時間に追われることなく、休みたいときに休めるのがジジイの特権だ。最高の贅沢だろう。  ショコラがのそのそと俺の脇にやってきて、腹にくっついて寝そべった。随分ハゲの増えた背中をそっとさすってやると、じきに規則正しい寝息が漏れ出す。俺も瞼がだんだんと重くなってくる。ふうう、ふうう、と聞こえるのは俺の寝息かショコラのいびきか。とろりと意識がとろけて、俺は夢の世界に落ちた。 「久しぶり、父つぁん。」  アニメ声が聞こえて、俺は身を起こした。するりと黄金色の髪が俺の頭から流れる。ピチピチの太もも。すべすべの脛。フリフリの衣装。そして隣には、薄桃色のショコラ。まあ、こうなるような気がしていたさ。  目の前に広がっているのは、安っぽい大道具のような住宅街ではない。ついさっきまで見ていた河川敷だ。ただ、人も鳥も虫も、生きているものは俺たちの他にいない。川以外の全てがひっそりと静まり返っている。 「ボク、そろそろお別れみたい。」 「…そうか。」  俺は胡坐をかいて、川面を眺めた。偽物かもしれないが、川はゆったりと途切れることなく流れていく。 「お前が作った世界だったんだな。」 俺が呟くと、ショコラは頷いた。  毛皮に引っ付くオナモミ、肉球にへばりつくガムのゴミ、恐ろしい動物病院の入っているビル、何かと憑りついてくるノミやダニ。あいつが押し付けてくる、臭くて熱くて痛いタバコ。そして、あいつそのもの。この世界に現れる悪役は、全部ショコラの嫌いなものだった。  現実には、俺の女房は人間らしい部分も持ち合わせていた。俺のひいき目ではなくて、女房の遺骨さえ拒絶した娘でも理解はしている。だが、あの巨人にはそれが無かった。仔イヌのショコラから見たあいつは、人間ではなく、破壊と暴力の権化だったのだろう。だから、ショコラはあの時に言ったのだ。あれは俺の知る女房ではない、悪いのは自分だ、と。  俺は黙って、ショコラを両腕で抱きしめた。ふわふわの毛皮のはずなのに、慣れ親しんだごわごわのイヌの肌触りに感じられる。 「お前、プリキュアが好きなのか?」 「父つぁんと一緒に、テレビを見るのが好きなんだ。でも、ニュースは眠いし、ドラマは人間の見分けがつかないし。プリキュアはいつも同じだから、分かりやすいの。」 なるほど、と俺は嘆じた。キャラごとに髪形や服装が明確に区分けされ、固定されているプリキュアは、イヌでも登場人物を判別しやすいのだろう。その上、ストーリーも毎回似たり寄ったりだ。正義の魔法少女が、悪者を倒す。平たく言えばそれだけの話だ。分かりやすい。 「それなら、お前もプリ側になりゃ良かったじゃねえか。そうすりゃ、一緒に闘えたろ。」 「うーん、二本足で歩いたり走ったりって、想像ができないんだよね。宙に浮くのは、抱っこと同じかなって思うんだけど。」  そうか。では、あのイヌのプリキュアは、その高い壁を乗り越えているわけか。まあ、プリ方式の魔法の力なんだろうが。 「ボクの予定では、父つぁんが魔法のアイテムを出して、ボクがそれに魔法の力を注いで、一緒に悪者をやっつけるって流れだったんだけどさ。父つぁん、ちっともそういう感じにならないんだもんな。」 「あー、そういうやつか。そりゃ、すまんかったな。でも、お前の説明もイマイチだったじゃねえか。きゅんきゅんきゅぴーんなんてやり方、分からねえよ。」 「月光仮面の方がよかったのかなあ。でも、ボクそれ知らないし。」  知っている方がおかしい。もう70年近く昔の特撮だ。
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