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いつだって、ポケットに入れておいて失くなるのは、わたしにとって要らないものばかりだった。
いつだって、ポケットに入っていたのはわたしにとって欲しいものや喜びを与えてくれるものだった。
ポケットに入ってしまった洸斗は、コートから要らないもの認定されてしまったのだろうか。
それとも、わたしが無意識の内に『依乃を好きな洸斗』を否定していたのだろうか。
もしそうだとしても、存在ごと消えてしまうなんて、そんなこと望んでいなかった。
ぐるぐると考え込みながら家に戻り、わたしは濡れたコートをハンガーにかけて、何も入っていないポケットを眺める。
「どうしよう……洸斗……」
もし、このポケットが未来に繋がっているのなら。このポケットの先に、未来があるのなら。わたしも吸い込まれてしまえば、洸斗が戻ってきた先の未来に出られるのだろうか。別世界だとしても、洸斗の居る世界に行けるのだろうか。
そんな思い付きをするけれど、現実問題、現時点で海藤洸斗の存在自体が世界から消えているのだ。わたしもそうなってしまえば、このコートを買った事実も消えてしまう。取り返しのつかないことになりそうで、どうしたって、そんな勇気は出なかった。
「……洸斗が依乃とデートしなくて済むのは、正直嬉しい。……でも、こんなこと、望んでない……洸斗が消えちゃうなんて、望んでないよ……」
わたしは濡れたコートをタオルで拭いながら、ポケットを上から撫でる。
「お願い、洸斗を返して……」
一度ポケットの向こう側に行ってしまったものは、二度と返ってくることはなかった。それでも、わたしは泣きながら願った。わたしが今一番欲しいのは、洸斗なのだ。
ふと、願いに応えるように目の前のポケットが小さく動く。中に何か居る。……手だ。人の指先が、ポケットの中で何かを探すように動いている時の、もぞもぞとした様子。
本来なら恐怖するであろうその光景も、今のわたしには希望でしかなかった。
「洸斗……?」
声をかけると、ややあってポケットから手が出てくる。少し大きな男の人の手だ。
そしてどう考えても狭いその空間から、物理的な法則を一切無視するようにずるずると身体を捻れさせながら、やがて一人の人間が現れた。
「え……」
ポケットから出てきたのは、わたしの知っている洸斗より少し成長した彼だった。予想外の姿に、わたしは面食らう。
やはりこの先は未来に繋がっていて、彼は未来の洸斗なのか。それともここから旅立った彼がポケットの中で未来に触れて、成長したのか。
「あれ、みくる……?」
そんなことは、もうどうでもよかった。呼ばれた瞬間、どんな形であれ洸斗が戻ってきたことに安堵し、わたしは彼に抱きつき泣きじゃくる。
「洸斗……! ごめんね、ごめんね……わたしのせいで……」
「ああ、いや……みくるは悪くない。俺がみくるにくっつきたくて、勝手にポケットに手を入れたのが悪いんだし」
「え……? いや、何を言って……」
「……ところで、今日は何月何日だ?」
「えっと、一月十二日……」
「そっか。いやあ、さすがに三日も経つとは思わなかった……でも、週末のデートにはギリギリ間に合ったな」
こんな状況になっても、洸斗は依乃とのデートのことは忘れていないのだ。そのことに、安堵と共にやはりモヤモヤとした気持ちになってしまう。
「……って、ちょっと待って、三日? 洸斗がポケットに入ったのはさっきだよ! それに……その見た目、どう見たって数年は成長してるし……」
急成長を遂げて時差ボケでも起こしているのではないか。思わず困惑しながら、わたしは背の伸びた洸斗を見上げる。
「成長? 何言ってんだよ、俺は三年でみくるは一年だろ。元からこんなだって」
「……は? わたしたち、クラスメイトでしょ? わたしも洸斗も依乃も同い年で……」
「いやいや、俺のが年上でいつも勉強見てやってるだろ。……それに、依乃? 誰だそれ、みくるの友達か?」
彼の言葉に、わたしは呆然とする。これはもう、時差ボケでは済まされない。
「え……何、言って……洸斗はいつも、同い年と思えないくらい幼稚で、勉強ダメで、頼りなくて……。えっと、週末デートするってのは、覚えてるんでしょ? その相手の依乃だよ……忘れてるわけないよね!? 洸斗、あんなに依乃のこと好きで……」
「なんだそれ。今後頼りないなんて言わせないし……俺が好きなのは、みくるだよ。だから、デートの相手もみくる」
宥めるように頭を撫でてくれる大きな掌。優しい温もりと、身に覚えのない洸斗の言葉の数々に、思わずわたしは硬直した。
やはり彼は、成長したことを除いても、元々ここに居た洸斗とはどう考えても別物だ。喜びが一転、絶望に変わる。
「あなた……誰……?」
「みくるの幼馴染みで、頼れる年上で、みくるの恋人の海藤洸斗」
「……」
絶対に違うと、わかっているのに。彼がここに居た洸斗と別物なのは、分かりきっているのに。
このポケットからは、わたしの望んだものが出てくるのだ。つまり、目の前の彼は、わたしの理想の未来の洸斗だ。
わたしのことを好きで居てくれて、わたしの望みを叶えてくれる。わたしとデートしてくれる洸斗。
そんな都合のいい存在を出されて、わたしの心は当然揺らいだ。
「みくるは、俺のこと好き?」
「あ……」
もしこのまま彼を受け入れれば、幸せになれるのかもしれない。
でも、そうしたら、ここに居たあの洸斗は、どうなってしまうのか。
しばらくの葛藤の末、わたしは首を振る。
「……違う。あなたは、洸斗じゃない……!」
わたしが好きになったのは、自分の理想じゃない。思い通りにならなくても、お馬鹿でも、他の子を好きでも、わたしはあの洸斗を好きになったのだ。
甘くて優しい誘惑を振り払い、わたしは目の前の彼を突き飛ばす。
「そっか……」
すると、寂しそうに笑った彼は、そのまま再びポケットに吸い込まれるようにして、あっという間に消えてしまった。
彼を吸い込んだコートが、反動でハンガーから落ちる。わたしが拾い上げようとすると、そのコートの下から、今度こそ見慣れた姿をした洸斗が出てきた。
「……!?」
床から生えてきたのではないかと思えるほど自然とそこに居た彼。驚くわたしと対照的に、洸斗は目覚めたばかりのように不思議そうに辺りを見渡す。
「あ……れ? みくる? ここは……」
「洸斗!? 今度は本物!?」
「今度はってなんだよ……」
「……わたしの幼馴染みで、依乃が好きで、テストは万年赤点の洸斗!?」
「最後急にディスるのやめろ!?」
洸斗だ。本物の彼が戻ってきたことに安堵し、わたしは力が入らずその場に座り込む。
未だに寝起きのように前後の記憶が曖昧な様子の洸斗は、それでもわたしの様子に何かあったのだと理解したようで、ぽつりと呟いた。
「……俺は本物だけど、依乃にはとっくにフラれてるから、もう好きとかじゃないし……普通に友達」
「え……!? いや、でも、週末デート……」
「デートなんて、俺は言ってないぞ。週末遊びに行くのは……みくるの誕生日プレゼント見に行くんだよ。依乃なら、おまえの好み分かるかなって……」
「……え」
「あーもう、サプライズしようと思ったのに!」
「え、え……? いや、確かにわたし、誕生日近いけど……」
「……ちなみに依乃にフラれたのは、俺が赤点取ったりでダメだからじゃないからな。俺には他に好きな奴居るんだろって依乃が……」
「洸斗好きな子居るの!? あの依乃より!?」
「……うっせー。まだ内緒だ!」
「えー? まだって、いつまで!?」
何よりも衝撃的な言葉に、思わず目の前の彼も偽物なのではとまじまじ見詰めてしまう。けれど、照れた時に顔を背ける癖は、幼馴染みの彼そのものだった。
「……おまえの誕生日に、話す」
「えっ」
欲しいと望んだり、嬉しくなるようなものは、未来のものでもポケットから出てくる。
けれど、わたしは目の前の彼が誕生日にくれるであろうプレゼントを、未来から取り寄せる気にはなれなかった。
*******
それから、不思議なことにコートのポケットが未来と繋がることはなくなって、物が消えることも出てくることもなくなった。
コートのポケットに繋いだ手を入れても、もう彼が消えてしまうこともない。
その内わたしたちは成長して、洸斗はあの日見た彼のように背も伸びて、けれど勉強は苦手なままだった。
サイズアウトして着られなくなった赤いコートは、気付くとお母さんに古着屋さんに売られてしまっていた。
けれど惜しいとは思わなかった。わたしはもう、手を伸ばすべき欲しいものは、未来ではなく今ここにあるのだと知ることが出来たのだ。
「みくる? さっきからポケット撫でてるけど、何かあったのか?」
「ううん、何にも! 欲しいものは、ポケットじゃなくここにあるから」
「……? なんだそれ」
「ふふっ、内緒!」
あの不思議なコートのポケットは今もどこかで、いつかの何かを求める誰かの未来と、こっそり繋がっているのかも知れない。
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