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「いや、まって……待って?」
ありえない。こんな長財布ひとつ入れればはみ出すくらいの小さなポケットに、わたしよりちょっと背の高い洸斗が吸い込まれるなんて。
吸い込まれる、というよりも、ポケットの奥に触れた瞬間空気になって消えてしまったような、不思議な感覚だった。
何度見渡しても周辺に彼の姿はなく、隠れたり悪戯にしては手が込みすぎている。
慌てて近くの喫茶店に入り、コートを脱いで逆さまにしたりポケットの中身をひっくり返して確認するけれど、当然洸斗も、入れっぱなしだったイヤホンの片割れも、すでに存在しなかった。
「どうしよう……」
洸斗は何処に行ってしまったのか。そもそも無事なのか。本当に未来に行ってしまったのか。何もわからない状況に、不安からぐるぐると目が回り冷や汗が滲む。
ぶつぶつと呟きながら俯いていると、不意に店員さんが近付いてきて、透明のグラスに注がれたお冷やを差し出してくれた。
「あの……お客様、大丈夫ですか? ご気分が悪いようでしたら……」
「……、依乃……?」
「みくる? この店に来るの珍しいわね、って……大丈夫!? 本当に顔色が悪いわ……!」
よく確認せず咄嗟に近くの建物に入ったものの、そこは依乃のアルバイト先だったようだ。
制服姿で給仕をする依乃は、きっと喫茶店の看板娘なのだろう、とても可愛らしく華がある。洸斗が惚れ込むのも理解できた。
そしてふと思い出す。今週末、洸斗は依乃とデートの予定があると言っていた。そんな彼を行方不明にしてしまった罪悪感に、わたしの声は震えた。
「あ、の……依乃、洸斗が……」
「……?」
全て話してしまっていいものなのか、葛藤した。未だにこの状況が自分でも信じられないのだ、上手く言葉にする自信もない。
けれどひとりで抱え込むには重すぎる。耐え難い罪の告白をしようとすると、やけに喉が詰まった。
震える手でグラスを掴み、氷の入った冷たい水を一口含んで、わたしは決死の思いで口を開く。
「あのね、洸斗が居なくなったの……!」
「……え?」
「ごめんね、わたしのせいなの! わたしが、ポケットを使ってタイムスリップしたら、なんて言ったから……」
「ええと……みくる、ちょっと待って?」
「ああっ、ごめん……えっとね、ポケットっていうのはこのコートの……」
ポケットの秘密は、わたしと洸斗だけのものだった。
大人っぽい依乃に言ったって信じて貰えるわけがない。そんな言い訳をしながら、その秘密が二人だけの特別だなんて、少し嬉しくもあったのだ。
けれど、もはやそんなことも言っていられない。
わたしが一からポケットのことを説明しようとすると、依乃は困惑したように眉をひそめる。
「ポケットの前に……洸斗って、誰のこと……?」
「へ……? 洸斗は、海藤洸斗だよ、わたしの幼馴染みの……」
「……私の知らない名前ね。それに、みくるに幼馴染みが居たなんて初耳だわ」
「は……? いや、冗談……同じクラスだし、依乃、今週末デートするんでしょ?」
「みくるこそ、何の冗談? ……ああ、タイムスリップがどうのって言ってたものね、漫画か何かの話かしら」
「ちがっ、そうじゃなくて……!」
「そもそも洸斗なんて人はクラスに居ないし……今週末は私、家族旅行に行くのよ」
「……え?」
動揺のあまり、手に持っていたお冷やのグラスをうっかり落としてしまい、依乃は慌てて雑巾を取りに店の奥へと去っていった。
取り残されたわたしは、コートが水に濡れて血のような深い赤になるのを見守るしか出来ない。
「……うそ、でしょ……」
依乃はそんな嘘や冗談を言うような子ではない。慌ててスマホを確認するけれど、洸斗とやりとりしていたはずのメッセージも、一緒に映っているはずの写真からも、彼の存在が消えてしまっていた。
「そんな……」
未来に行ってしまったから、現在の洸斗だけが切り取られたように存在しないのか。
それとも、行き先は未来なんかじゃなく、もっと別の場所なのか。
少なくとも今この世界に、洸斗の存在はなかったことになっている。
得体の知れない恐怖に、わたしは濡れたコートを引っ掴んで店を出た。
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