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第十八話 とある二人の物語
――それから、三年の時が流れた。
かつては新米書記だったチェティも、今では熟練の役人となり、父と同じ上級書記の仲間入りをしている。今年からは部下もつけられて、いっぱしの仕事を任されるようになっていた。
その部下、――卒業試験に何度か失敗したせいでチェティよりも年上の新米書記のヘンレクは、今日も何か計算に失敗をしたらしく、帳簿を前に腕を組んで唸っている。
「どうしたんだ。まだ、完成してないのか」
「あっ、チェティさん! すいません、どうにも帳尻が合わなくて…。」
「ん?」
チェティは、若者の手元の帳簿を覗き込む。
「ここの合算間違えてるよ。九キテと三キテと十五キテで二十七キテ。だから二デベン七キテだよ。それで合うはずだ」
「すごっ! 相変わらず早いですね…どうやって計算してるんですか、それ」
「慣れだよ。慣れ」
自分では、それほど特殊なことをしているつもりはないのだが、どうも他の者に同じことをやるのは難しいらしい。
しばし、尊敬の眼差しで年若い上司を見つめていたヘンレクは、はたと気づいて卓の端に置いてあった丸めた紙を取り上げた。
「っと、そうでした。忘れないうちに――これ。大神殿からの言伝です」
「ああ、ありがとう」
「チェティさんのところ、よく大神殿から手紙が来ますよね。確か、身内の方がお勤めなんでしたっけ」
「それもあるけど、幼馴染が神官をやってるんだ。最近お勤めが忙しいらしくて、こうして手紙で連絡を寄越すんだよ」
「へえー。」
自分の机に戻って手紙を開いてみると、中から、見慣れたネフェルカプタハの文字が表れた。
最初の部分は、いつもどおり神官の仕事に対する愚痴。
今では神殿奥の至聖処への立ち入りさえ許された高位神官の一人だというのに、相変わらず境遇に対する文句が多いのだ。
もっとも、それは半分はただのお約束だ。何だかんだ、最近では神殿での仕事も板につき始めている。それに愚痴っている内容も、「貴族の葬式で長時間のお祈りをするのがキツい」とか、どうでもいいことばかりだ。
長々と書かれた愚痴のあと、ようやく本題が始まる。
『――で、最近神殿に持ち込まれた相談事で、気になってるやつがいくつかある。書き出しておくから、怪しいのがあったら調書を用意しておくから返事をくれ。
まず一つ目。税金未払いの未亡人。彼女は支払いはきちんと済ませたと言っているが、目方不足で追加が必要。だが絶対に足りているはずと主張して支払い拒否。徴税人が盗んだと訴えでた。
二つ目。相続人が判らない神殿所領内の貸し畑。子供に先立たれた老人が死亡後、自分が孫だと二人が名乗り出た。血縁者なら相続権はあるが、どちらが本物か不明で裁判所預かりになった。
三つ目――』
いつもどおり、神殿に訴え出られた案件の中から、揉めそうなものや、弁護の必要そうなものを書き出してきている。
ざっと一読したあと、チェティは朱色の墨をつけた筆を取り、文字の上から印をつけて、元通り丸めた。
「ヘンレク」
「はい?」
「帳簿の続きは私がやっておくよ。ひとっ走り、大神殿まで返事を届けに行ってくれないか」
「へえっ、もうお返事書かれたんですか。早いですね…」
手紙をうやうやしく受け取って、若者は、何も聞き返さずに外へ駆け出していく。
(そんなに急がなくてもいいんだけど。まあ、早いほうがいいか…。)
苦笑しながら立ち上がると、チェティは、さっきまでヘンレクが座っていた場所に近づいた。そこには、何度も書き直されて真っ黒になってしまった帳簿が置き去りにされている。
(…全部書き直したほうが早いな、これ。あーあ…。)
もちろん、自分で全部やるのが一番早いに決まっている。でもそれでは仕事にならないし、ネフェルカプタハの持ち込む厄介事の調査に出かける時間もなくなる。
そう、あれから二人は、迷宮入りしそうな事件の調査や、冤罪で訴えられた人たちの弁護をしてきた。
人知れず――と言いたいところだが、知っている関係者は意外と多い。立場上、表立っては手助け出来ないジェフティやプタハヘテプに、困った時の相談役のイトネブ。チェティの父も、あまり余計なことに首を突っ込むなよとは釘を刺しつつも、事実上、黙認してくれている。
最初の事件では知恵が足りず、力不足を痛感する結果となったが、今は少しは世の中のことも分かり、あの頃よりは満足のいく働きを出来ることも多くなった。
ただの自己満足かもしれない。何か大きな意味のあるものでもない。
助けられた人がいても、多くはない。――ただ、感謝されたくてやっていることではないから、それでもいい。
地位も財産も、権力も無い、名もなき人々のために。
これは、詮索好きな二人の若者が始めた、真実を探す物語なのだ。
―了
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