第一話 祭りの前夜

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第一話 祭りの前夜

 青白い星ソペデトの瞬きがナイル(イテルゥ)の増水の季節の始まりを告げる。太陽の最も輝くこの季節、人々は新年(ウェプ・レンペト)祭で新しい一年を迎える。  この国の中心を流れる大河は人々の生命線でもある。川の水位が上昇すれば、川べりに広がる畑に水が行き渡り、乾いた大地は再生される。  豊穣の神々の恵み、神秘なる水源より齎される恩寵。  一年で最も心楽しく、同時に、とてつもなく暑い季節が、今年もまた、やって来た。  ここは、その大河の中程にある古い街、メンフィス。白き城壁の町(イネブ・ヘジュ)の別名を持つこの街は、その名の通り神域を中心とした石積みの白い壁を持っている。  この国が創始された時いらい長きに渡って王都として栄えてきた歴史を持ち、王都としての機能を失った今もなお、首都に次ぐ人口と財力を誇る。  要するに大都市である。  城壁の中心部には街の守護神プタハの大神殿があり、外側には、それを取り巻くように職人街や商人街と住宅街が軒を連ねる。  この街で行われる新年祭も大変に盛大なもので、この季節には、近隣の街や村からも大勢の人々が訪れている。  普段なら日没とともに閉ざされる白い城壁の門は、祭りの季節だけは開かれたまま人通りは絶えない。神殿前の広場には明日から始まる新年祭のための飾りつけがされ、城壁の外側や街には屋台が並ぶ。  街の東側、川に面した場所には大きな船着き場があり、隣接する宿場街のあたりでは、客引きが、遠方から訪れる旅人たちに盛んに声をかけていた。  そんな大賑わいの雑踏の中を、一人の少年が、慣れた足取りで城壁の方に向かって歩いていた。  年の頃は十二、三といったところ。簡素だが粗末ではない貫頭衣を纏い、肩に掛けたかばんには墨の染みが薄く染み込んでいる。出で立ちと指に染み付いた墨を見れば、文字を書く職業なのだとすぐに見当が付くだろう。  彼が向かっていたのは、城壁の外側に沿って大通りへと続く道だった。  道の脇には書記の守護神であるトトの小神殿がある。神殿づき書記たちが定期的にお参りにくる場所で、それ以外の職業の者にはあまり用事がない。  逆に言えば、書記ならお参りの口実はいつでも作れるので、待ち合わせにはうってつけの場所なのだった。  果たして、神殿の裏の物陰を覗き込んでみると、待ち合わせの相手は既にそこにいた。  「おまたせ、カプタハ。」 声をかけると、見習い神官の格好をした、同じくらいの年頃に見える少年が、明るい表情でぱっと顔を上げた。  「やっと来たか、チェティ。」 幼馴染で、大神プタハに仕える見習い神官の一人。かつて、書記学校で一緒に文字の読み書きを習った仲間でもある、ネフェルカプタハだ。  学校を卒業していらい、チェティは街外れにある州役人の詰め所で新人の下級書記として働いていた。ネフェルカプタハのほうは神殿で神官の修行だ。お互い、父親と同じ職業に就いた結果だった。  顔を合わせる機会は減ったが、それでも、たまにはこうして待ち合わせをし、特に何をするでもなく、街をぶらぶらしたりしていた。  ましてや今日はお祭りだ。  冥界の神に仕えていながら賑やかな催事が大好きな幼馴染は、何日も前から祭りを楽しみにしていたはずで、チェティにも、仕事が終わったら「いつもの場所」で待ち合わせしようと手紙を送ってきていた。  それが、今日なのだった。  合流した二人は、並んで大通りの方へ歩き出す。  そろそろ夕方になろうという時間だというのに、人通りはまだ途切れる気配はなく、屋台や店も、夜の営業に備えて燭台や蝋燭を用意している。  「ごめん、待たせちゃったよね」  「先にぶらぶらしてたから気にすんな。それより、ずいぶんと遅かったんだな。役所って、祭りの日まで残業あんのか?」  「うん…、例の遠征の件で、物資の計算とか手配とかが大変でさ」  「ああー、あれな」 遠征、というのは、はるか上流にある今の首都におわす、”生ける神”なる王陛下(ネスゥ)の命じた、東方の国々ヘの威嚇行動のことだった。どうも東の砂漠に住む盗賊が王のための物資を送る商隊を襲っているとかで、討伐隊が組まれたらしい。  その討伐のために組まれた遠征隊は、この街の近くに作られた仮の駐屯基地を集合場所にしている。そして、川の増水の始まりとともに、船で東の砦まで送られることになっていた。  「そのせいか。最近このへんにも、兵士っぽい連中が増えてきたと思ってた。」 言いながら、ネフェルカプタハはちらちらと人混みのほうに視線をやった。  通りを行き交う人々の中には、時々、この辺りの住人よりも黒い肌の色をした、引き締まった体つきの人々が混じっている。  川の上流、はるか南のクシュかワワトあたりから来た弓兵だろう。縮れた髪に、背が高く、人混みの中でも頭ひとつぶん上に突き出して見える。  彼らは寡黙で働き者という話だった。だから優秀な兵士として重宝され、こうした軍事遠征の時には大量に雇用されて、弓兵隊として軍に組み込まれるのが慣習になっている。  「駐屯基地に、将軍の一人が来てて、兵糧の手配とか、宿場とか、とにかく色々と要求してくるんだ。それで忙しかったんだけど……カプタハ、知らないんだ?」  「知るわけないだろう。神殿の仕事と関係ないし」  「でも、遠征前に大神のご加護を貰うとか、側近を連れてお参りに来てたはずだけど。」  「聞いてないな…いや、誰か言ってたか? 忘れたなあ。まさかそいつ、祭りを見たくてわざわざ、この街の近くに陣を張ったとか?」  「それはあるかも」  「ま、お参りはどうでもいい。ついでに寄進してくれりゃ、なお良しだ。」 身も蓋もないことを言って、見習い神官の少年はにやりと笑う。  この不良神官ときたら、昔から、ちょっとばかり口が悪いのだ。正直者で、思ったままを口にする性格でもある。  そのせいで、書記学校時代は何度、年かさの生徒たちと揉め事になりかけたことか…、何度けんかの仲裁に入ったことか。一年前までの学生時代のことを思い出して、チェティは苦笑した。  「カプタハこそ、神殿のほうはいいの? 新年祭では祈祷とか、神官の仕事もあるよね」  「ああ、輪番の仕事は真面目に、ちゃちゃっと終わらせてきたぞ。問題ない」  「良かった、サボりじゃないんだ」  「当たり前だ。俺は真面目にやってるぞ。その、…まあ。クビにならない程度には」  「……。」  「あーっ! 何だよ、その目はぁ。信用してないな?!」  「いや…うん。君の父上がこの間、うちの父上のところに愚痴りに来ててさ。祈祷の最中に居眠りをしたとかいう話を…」  「そ、それはだな! 真夜中までお清めの儀式が続いて、後ろでぼーっと聞いてるだけなのも退屈で…」 なんだかんだと言い訳しているのを、チェティは、笑顔で聞き流していた。  歴史ある神殿に仕えるようになってからも、ネフェルカプタハはちっとも変わっていない。  悪ふざけをしていた頃のままだ。お互い父親と同じ職に就き、別々の道を歩むようになったが、この関係だけはずっと変わらないでいて欲しいと思った。  ――たとえ彼が、大神官の一人息子で、将来はプタハ大神殿の首席神官となるべく期待されているのだとしても。  大通りのあたりには、祭りの時期ならではの屋台が沢山出ていた。  小腹を満たすための串焼きや干し魚、温かい豆のスープに干したイチジクを売る店。蜂蜜入りの甘いビールや大麦ビールを出す立ち飲み屋。葦を編んで作った「大河の花嫁」と呼ばれる縁起物を売っている店もある。それを川に投げ込んで自分の畑の豊穣を祈願するのだ。  他にも、日用品や、この地域の特産物などを売る店も、今が商機とばかり道行く人々に声を張り上げている。  隣のネフェルカプタハは見るからに浮き浮きとしていて、見ているこちらまで楽しくなってくる。  「今年も賑やかだね」  「そうだな。――おっ、焼き鳥売ってる。あれはウズラか?」  「神官の格好のままじゃまずいよ。祭りの間は、肉食はご法度だろ。」  「まあ、そうなんだけどさあ。匂いだけでも…ううーん。よし、潔斎終わったら肉食おう、肉!」  「相変わらずだな…。君が一人前の神官になるとこが想像できないよ。」 くだらない会話でも、言葉を交わしているだけで楽しい。話すことは沢山ある。何しろ最近では、そう頻繁に会えるわけでもないのだ。  「そういや、エムハトはどうしてるの。あの人も確か、神殿に就職したよね」 エムハト、というのは、二人の書記学校での同級生で、三、四歳は年上だが、卒業は同時だった。  書記学校は、試験に合格して一定の水準を満たした者でなければ卒業出来ないため、卒業まで何年かかるかは人によって違う。中には覚えが悪く、二十歳を過ぎるくらいまで勉強してようやく一人前と認められる生徒もいるくらいだ。  その点でいえば、チェティとネフェルカプタハは一度目ですんなり試験に合格した、優秀なほうなのだった。  「あいつは今、聖牛(アピ)の世話係だなあ」  「聖牛? 何でまた」 聖牛というのは、この街の主神であるプタハの聖獣である。  神々にはそれぞれ、象徴となる聖獣が決められている。冥界の色、黒い色の体色をして額だけに白い印があるという外見のものが聖なるものとされ、より見目麗しい一頭が選ばれて、神殿で世話をされる。聖牛の世話係は、名誉な職業だが汚れ仕事である。  「なんつーか、どんくさい奴だったじゃん? それで、高価な香油をひっくり返したり、書庫でボヤ騒ぎを起こしかけたりして、本殿に出禁食らったんだよな。仕事熱心で、真面目な奴なんだけどさ、色々危ないから」  「…聖牛の世話は、大丈夫なんだ?」  「むしろ適職だな、あれは。牛もよく懐いてる。」  「なら良かった」 会話しながら、いつしか二人は、大通りの端のほうまで来ていた。  港が近い。  いつしか日暮れから少し時間が経ち、新たに船着き場に来る者の途切れて、いつしか客引きの声は聞こえなくなっていた。  静まり返った暗がりと、川から漂う青臭い水の匂いとで、ネフェルカプタハは時間に気づいたようだった。  「――っと。そろそろ戻らないと」 空を見上げ、星の角度で時間を測っている。  何気ない仕草だが、その技も、神殿で教えられている神官ならではの知識だ。  「今日はここまでかな。明日は前夜祭だね」  「おう、楽しみだな。じゃあな、チェティ。明日も、例の場所で」  「ああ」 二人は、大通りのいちばん端のところで別れた。  祭りの本番は、明日の前夜祭とその次の日の本祭、そして後夜祭の三日間だ。  明日は神殿で夜通しの祈祷があるから、真夜中でも人は多いはずだ。今日はまだ、前夜祭の前日に過ぎない。本番に向けて早々に床に付く者も多いのか、大通り以外の小道では、人はまばらになりはじめている。  チェティは慣れたもので、その裏通りの小道を、家に戻るべく足早に横切っていく。この時間なら、まっすぐに西へ向かうよりは、いちど船着き場沿いの人少ない通りへ出て、街の外へ回ったほうがいい。  と、その時だ。暗がりから誰かが勢いよく飛び出してきた。  「わっ」 ふわりと漂う上質な香料の匂いに、チェティは、思わずその人物の顔を見上げる。  だが、匂いの繊細さとは裏腹に、それは女性ではなかった。  綺麗にヒゲを剃りこみ、上等な布でこしらえた貫頭衣を纏った体格の良い男。どう考えても貴族か、それなりの地位にある裕福な役人だと思われるのに、奇妙なことに、頭からすっぽりと、粗末な布切れだけの外套を被っている。  「すいませ…」 謝ろうとして言葉を口にしている間に、その男は、振り返ることすらせずに通りの反対側の暗がりに姿を消した。まるで、チェティの姿など全く見えていなかったかのように。  彼は、ぽかんとして男の消えた暗がりのほうを見やったままだった。  些細なことだが、――気になってしまった。ほんの一瞬のすれ違いの中で、五感の得たものは違和感とともに記憶に刻まれた。  だが、それだけだった。その時はまだ、何も起きてはいなかった。  行く予定だった方角へ向けて再び歩き出すチェティの思考は既に、明日の仕事をどうやって早く切り上げるか、そのことのほうに集中しはじめていた。
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