薄墨

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薄墨

 漫才披露、MCとの短いアフタートークと、俺たちの収録はたったの10分で終わった。打ち合わせの時間の方が長かったが、俺たちに課せられたテレビの仕事は大体こんなもんだ。  午後は大阪難波での劇場舞台が二つ控えているので、楽屋弁当は持ち帰りにして新幹線の中で昼食を取るしかない。それなのに、ササキがわざと俺の視界の隅に入り込みソワソワしていており、ちっとも出て行こうとしない。いつもならとっくに楽屋から消えているはずなのに。 「……何か用?」  不自然なアプローチに耐えかねてササキに真意を問う。ササキはレッサーパンダのような健気な目を少しだけ狭め、ひたひたと俺の耳元までその分厚い唇を接近させた。 「『なかまたち』のオザキ、の構成員だったらしいぞ」  耳の奥がざらりとした。  思わず周囲を見回す。芸人もスタッフも、己の仕事に対して脳みそをフル稼働させており、ササキの発言は俺にだけ届いているのだと、安堵と不安が入り混じった奇妙な感触を覚えた。 「いつからそうだったのかは分からないけど、ほら、最近あいつ劇場でも見かけなくなったろ。俺仲良かったからずっと気になってたんだが、お前、オザキの行方気にならないの?誰も何も言わないけどさ」  そりゃあ、構成員だったからだろ。  国家転覆を目論む輩はいずれ警察が捕まえてくれる。だから平和な日常から自然に除外されていく。それだけのことだ。  誰だってそんな当たり前のことをわざわざ口にするはずないのだし、そもそも俺はオザキのことなど今の今まで忘れていた。  だからササキがどこかから証拠をみつけてそれを元に推測したかのような発言が、不気味で不快で、漠然と恐ろしかった。  今までこんなことなかった。ササキはおかしくなってしまった。願わくば、居心地が悪いからすぐにでも元のササキに戻って欲しい。  視界が歪に点滅しながら暗転していく。 「そうだとしたら、ゆるせないよな」  はっと驚かされたのだが、暗転の先には深紅があった。楽屋中を焼きつくさんばかりの赤は、オザキを介して脳裏に現れたフクロネズミの悪行に対する憎悪そのものだった。今やササキのことは眼中になかった。  フクロネズミはほとんど若者で構成された反政府組織で、彼らの残虐な行いの数々を糾弾するニュースが連日耳に飛び込んでくる。何の罪もない公務員一家を幼い子供諸共殺害し、猛毒を井戸に垂れ流して村人を大量に虐殺、あげく旅客機をハイジャックし、傲慢な思想を謳い旅客機ごと東京オーシャンタワーに突っ込んだ。  いずれも遠くで起きた出来事だが、もしあいつらの行動が俺の大切な人たちの命を奪っていたらと想像すると、やり場のない悔しさと憎悪で衝動的に叫びたくなってしまう。 「ああ、俺も憎いよ」  良かった。ササキと俺の感情は今、同じ方向を向いて美しく整列している。ササキは綺麗に切りそろえたばかりの爪で腕を掻きむしり始めた。  感情の共有が終わってからは、ササキの口からオザキの名前が出てくることはなかった。普段通りテキパキと荷物を纏めて楽屋を飛び出して行く。仲が悪いわけではないが特筆するほどの関係というわけでもなく、いつも新幹線の席は各自で取るので、次にササキに会うのは現場だ。移動中の彼の姿、行動を、俺は知らない。  なんばグランド風月に楽屋入りし、真っ先にササキの姿を探した。奥のパイプ椅子に背中を丸くして腰掛け、差し入れのミニバームクーヘンをちまちまと食べているササキを確認できた瞬間、肩回りにあった違和感がすっと昇華した。違和感が何に起因していたのか、少し疑問に思ったけれど、この時は深く考えずに仕事の疲れが出たのだろうと思い直し、早速漫才衣装に着替え始めた。
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