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涅色
昨日の夜感じた喉の違和感が、今朝起きたら完全に風邪だと分かるくらいの鈍痛に進化していた。休日に風邪を患うとは、ついていない。秋コートの下に薄手のダウンを着込み、駅前のスーパーを目指す。本当は家で寝ていたいところだが、こんな時に限って冷蔵庫にビールしか入っていなかったので、やむを得ず、というところだ。
ずず、と粘り気のある汁を鼻の奥へ引き戻す。外に出てから気づいたが、喉のみならず鼻もやられたようでさっきから数秒おきに啜り続けている。でないと間抜けな顔面を世間に晒すことになってしまう。生憎ティッシュは持ち合わせてない。横着せずマスクをしてくれば、万一鼻水が垂れたとしても隠れているから問題なかったのに。
「コンタクト割引してまーす」
雑音の一部でしかない女の声が、鮮明に意図を持って脳内に流れ込んできた。顔を上げると数メートル先、歩道の真ん中に堂々と立つ女の手に、大衆にシカトされ続けてしんなりしているポケットティッシュが握られていた。
まさに天からの恵みだった。
歩行者がカーブを描いて避けて行くティッシュに、俺は真っ直ぐ吸い寄せられた。女の正面で歩速を緩め右の手の平を上に向けると、女はにこっと愛想よく微笑んだ。
ギョッとして身ごと女から一歩遠ざかった。
女はティッシュごと、俺の右手を両手で上下から包みこんだのだ。空気の冷たさをものともしない、温い手だった。
驚いた拍子にティッシュを握りつぶしてしまっていた。別にどんなにグシャグシャだろうと使えはするけれど。
どのくらいの時間女を怪訝な目で見つめていたのか分からないが、前後からすり抜けていく歩行者を意識した途端、歩道内のルールから自分が逸脱しているような心地がして急に恥ずかしくなり、早足でその場を後にした。
奇妙な女だった。たかがティッシュ配りで、あんな事するか、普通。まだ、あの女はにこやかに俺の背中でも見て笑っているのだろうか。だが、もう一度振り返る根性は、持ち合わせていなかった。
上唇がひんやりとした。ついに鼻水が外へ繰り出し、到達してしまったのだ。もらったばかりのティッシュを一枚引き抜いて、ぞぞー、と排水を絞れるだけ絞り落とす。安物のティッシュは固くて、だけどほんの少しだけ温かかった。
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