涅色

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「……華隣(かりん)党が政権を握ったX年以降、犯罪率も自殺率も年々小さくなっていますから。経済的、社会的に日本全体が豊かになったと言っても、過言ではないでしょう」 「世界幸福度ランキングも近年はずっと10位以内をキープしていますしね。私が幼少の時だったら考えられないですよ」  風邪のせいか寒気が止まらないので、冬支度にはまだ早いがこたつを出し、その結果テレビの前から動けなくなっている。眠いのだが、毎日朝7時と夜10時に放送される「シュガーNEWS」は必ずチェックしないといけない。内容も満足度が高い上、視聴率9割越えの人気番組を見逃せば、翌日のたわいない談笑で一人だけ取り残されてしまう。  ピー、と洗濯完了音が1Kの部屋中に轟いた。番組も終わったので、意を決してこたつからもぞもぞと芋虫のように這い出る。人一人通るのがやっとの廊下は夜特有の重い冷気がぎゅっと濃縮されており、ドアを開けた途端せっかくあったまっていた部屋を大寒波が襲った。いそいそと洗濯カゴに下着や服をしわしわのまま放り込んで部屋に戻り、6畳の部屋を横断する物干し紐に大雑把に吊るしていった。よれよれのジーパンを手に取った瞬間、かしゅ、と布ではない何かの音がし、深く長いため息が出て、ジーンズのポケットの膨らみの原因を渋々確認した。  昨日、変なお姉さんから受け取ったポケットティッシュだった。取り出し忘れるのはよくあることで、これしきで失望はしない。洗濯槽の中でポケットから飛び出してしまう大惨事は免れたので、形は保たれていて乾かせば使える。  出してしまった方が早く乾くだろうと、ずぶ濡れのティッシュの束を引き抜く。足の甲に軽い感触があって足元を見下ろすと、名刺より一回り小さい身に覚えのないカードが床に落ちていた。QRコードしか書いていない面が天井を向いていたので、拾い上げて裏を確認する。  なるほどね、と合点がいった。  バイトにしては様子のおかしい女が配っていたのは、風俗店の広告だったようだ。「マジカルピーチ」という絶妙にダサいデザインの店名の下に、営業時間や連絡先が書かれている。多分、QRコードにアクセスすると、公式サイトかあの子のプロフィールにでも飛ぶのだろう。  しかし不可解なのは、わざわざコンタクトの広告を重ねて装ったことだ。昼間にティッシュ配りで宣伝する風俗店なんて、俺の知る限りでは他にない。  斬新な宣伝方法だ、と解釈すればそれまでだが、こそこそする必要があるという見方もできる。行政への申請が通っていないまま営業している、とか……  だが、正直なところ漫才師として稼げるようになってからは満足に遊びにも行けていなくて、欲求不満を思い出したのか風俗店らしい派手なデザインのカードを目にして下半身が疼いた。アクセスもよく、明日の午後のライブ前にちょっと立ち寄るのにもちょうどいい。  欲望が僅差で不信を打ち負かし、スマホを取ってQRコードを読み取った。 「同志よ、『日常』を疑え!」  背筋が凍りつき、スマホが手から滑り落ちた。  足の甲にスマホが落下した痛みよりも、特徴のないゴシック体のインパクトで頭が混乱していた。  風俗店の広告なんかじゃ、ない。  通報すべきか……?  正義感は確かに視界を赤に染めているのに、次のすべき行動に移せなかった。突然のことで、衝撃が、強過ぎたのかもしれない。脇の下がじんわりと濡れる。  通報しなきゃ。  頭ではそう叫んでいるのに、俺の右手はどうしてか、落ちたスマホを再び拾い上げて、熱くなった目は続きの文字を追っていた。
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