第六話

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第六話

 俺と母さんが住んでいた、市営住宅。二DKの部屋。  母さんが、リビングの掃除をしていた。鏡に映し出されているのは、天井から見たような風景。母さんの頭頂部が見える。  母さんは綺麗好きだった。だから、俺が家の掃除をしておくと、喜んでくれた。  リビングは相変わらず綺麗に片付いていて、小まめに掃除をしていることが分かる。  もしかして、母さんに彼氏でもできたのかな。彼氏は、いい奴かな。いい奴だといいな。せっかく俺が――邪魔者がいなくなったんだから、幸せになってほしいな。  母さんは掃除機を止めると、大きく息をついた。少しだけ漏れた声に、違和感を覚えた。伸びをして、天井を見上げるような格好になった。  部屋の掃除をしていたのは、母さんじゃなかった。母さんの妹――俺の叔母だった。母さんとは年子だが、双子のようによく似ている。  叔母さんは掃除機を片付けると、台所で料理を始めた。作っているのは、お粥だった。卵と少量の塩を入れて、味を整えていた。できたお粥をお盆に乗せて、運んでいた。  叔母さんが向かったのは、生前の俺の部屋だった。俺のベッドがある部屋。  鏡に映っているのは、相変わらず天井から見たような光景。  叔母さんが部屋をノックして、(ふすま)を開けた。  ベッドの布団が盛り上がっている。誰かが、布団の中で体を丸めている。それが誰かなんて、考えるまでもないだろう。  母さん、体調でも崩したのかな?  遠くに住んでいる叔母さんが面倒を見に来るほど、調子が悪いのかな?  心配になって、俺は鏡に顔を近付けた。 「姉ちゃん、お粥持ってきたよ。少しは食べて」  叔母さんの呼び掛けに、母さんは返事をしない。眠っているんだろうか。  叔母さんは、ベッドの布団をめくり上げた。中には、横を向いて体を丸めている母さんがいた。 「少しは食べて。無理して全部食べろとは言わないから。食べないと、どんどん体力なくなるよ」 「……いらない」  蚊の鳴くような声で、母さんは返事をした。その声はかすれていて、喉が潰れているようだった。  ひどい風邪でもひいたのかな。ちゃんと体調管理してくれよ。これから幸せになれるんだから。母さんみたいな美人なら、いくらでもいい男を見つけられるんだから。 「そんなこと言わないで。ねえ」  お粥が乗ったお盆をベッドの端に置くと、叔母さんは、母さんの肩を掴んだ。横になっている母さんを動かして、自分の方に向かせた。  鏡に――俺の目に、今の母さんの姿が映った。 「母さん?」  疑問形で呼び掛けたのは、俺の知っている母さんとはあまりに違っていたからだ。目は虚ろで、顔は痩せこけていた。腕の中に、何かを抱えている。  じっくりと、母さんの姿を見てみた。  母さんが抱えているのは、骨壺だった。  誰の遺骨が入った骨壺なのか。  そんなことなど、考えるまでもなかった。 「ほら、姉ちゃん。ちゃんと食べて」  叔母さんの呼び掛けに、母さんは、駄々をこねる子供のように首を振った。 「いらない。食べたくない。正樹と一緒に寝てるの。正樹と一緒にいるの」  かすれた、母さんの声。弱り切った声。涙の混じった声。 「そんなこと言わないで。ね?」 「嫌だ。正樹と一緒にいる」 「お願いだから」 「食べたくない。正樹と一緒に寝るの。仕事ばっかで、一緒にいられなかったんだから」 「じゃあ、(そば)に正樹君を()()()、ね? それならいいでしょ?」 「嫌だ! 離れない! 正樹と一緒にいる!」  母さんは、骨壺を強く抱き締めた。 「ずっと一人にして、寂しい思いをさせたんだから! だから、ずっと一緒にいるの! 離れないの! 抱き締めてあげるの! 一緒に遊んであげるの!」    徐々に、母さんの声が大きくなっていった。声に混じる涙の色が、濃くなっていった。 「一緒にいて、守ってあげるの! 一緒にいて、助けてあげるの! 正樹は痛かったんだから! 苦しかったんだから! 恐かったんだから! 悲しかったんだから!」  涙が混じっているのは、声だけじゃない。母さんの目から、ボロボロと涙が流れていた。もう水分なんてなさそうなほど痩せ細っているのに、驚くほど大量の涙が流れてきた。 「だから一緒にいてあげるの! 正樹のところに行ってあげるの!」  痩せ細った体のどこに、そんな力があるのか。そう思うほど、母さんの口から大きな声が出た。 「一緒に死んであげるの!!」  大声を出して疲れたのか、母さんはハァハァを息を切らした。呼吸が落ち着いてくると、今度は大声で泣き出した。 「正樹! ごめんね! ごめんね! 母さん、気付いてやれなくてごめんね! 守れなくてごめんね!」  泣き叫んで、体を丸めて、ギュッと骨壺を抱き締めた。 「ごめんね正樹。ごめんね。ごめんね。こんな母さんでごめんね。一人にしてごめんね。助けてやれなくてごめんね。我慢させてごめんね。ごめんね。ごめんね」  叔母さんの作ったお粥が、冷めてゆく。立ち昇る湯気が、薄くなってゆく。  叔母さんは、何も言えずに立ち尽くしていた。壊れた姉を、泣きながら見ていた。  かすれた声で繰り返される、「ごめんね」という言葉。流れ続ける、母さんの涙。俺の耳に届く、母さんの嗚咽。  悲しいだけの時間が過ぎて。苦しいだけの時間を過ごして。冷めたお粥からは、もう湯気も立たなくなって。  いつの間にか、俺も泣いていた。死んでいても、体がなくても、涙は出るんだ。漠然と、そんなことを思った。自然と声が漏れた。 「なんだよ、これ」  俺は昔、母さんと彼氏の仲をぶち壊した。二人が別れたのは、俺のせいだった。俺せいで、母さんは、女としての幸せを逃してしまったんだ。  二人が別れたとき、子供心にホッとしたのを覚えている。反面、胸に痛みを感じたのも覚えている。  あの痛みは、罪悪感だ。  心のどこかで、当時から理解していたんだ。俺が、母さんの幸せを壊したのだと。  だから俺は、母さんを笑顔にしたかった。  綺麗好きな母さんのために、学校から帰ったら毎日掃除をしていた。  仕事で疲れた母さんのために、家事をやった。  晩飯だっていつも用意した。  無駄な心配をかけたくなくて、いじめられていることを言わなかった。 「どうして、そんなふうになってんだよ?」  俺がいなければ、母さんは幸せになれると思った。美人だし、優しいし、しっかりしている。女手一つで、俺みたいな子供(ガキ)をちゃんと育てている。  そんな母さんから邪魔な子供(ガキ)が消えたら、幸せになれると思っていた。  俺は、母さんにとって、邪魔者だと思っていた。母さんの人生の足手まといだと思っていた。  それでも俺は母さんが好きだから、心配をかけたくなかった。 「ごめん、母さん」  俺は、母さんのことを何も分かっていなかった。 「悲しませてごめん」  母さんは、俺のことを愛してくれていた。 「苦しませてごめん」  俺を失って壊れてしまうほど、愛してくれていた。 「嘘ついてごめん」  いじめられていると伝えたら、心配させただろう。でも、どんなことをしてでも守ってくれただろう。 「いなくなってごめん」  でも、知らなかったから、守ることさえできなかった。 「死んじゃって、ごめん」  心配さえできずに俺を失って。こんなふうに、心を壊してしまって。 「ごめんな、母さん」  俺の声は、母さんには届かない。  母さんはずっと泣いている。悲しくて、苦しくて、辛くて、心を壊してしまって。ずっと、ずっと、泣き続けている。  俺の体が震えた。気持ちが、急速に変化した。  今すぐ、母さんのもとに行きたい。駆けつけたい。 「……神様」  呼ぶと、神様は、すぐに目の前に現れた。 「どうしたの?」  鏡の中から、母さんの泣き声が聞こえる。  母さんには幸せになってほしいのに。それなのに、不幸の底で泣いている。  だから俺は、伝えたい。  でも、今のままじゃ、俺の声は届かない。母さんに伝えられない。  だから。 「俺、転生したい」  転生して、母さんのもとに駆けつけたい。 「どういう心境の変化?」  母さんの姿で、神様は聞いてきた。  俺は素直に、理由を説明した。俺が死んだことで、母さんが壊れてしまった。だから、俺が母さんを助けたい。母さんが幸せになる手助けをしたい。  神様は少しだけ、複雑な顔を見せた。 「そんなこと言っているけど、分かってるでしょ? 転生したら、前世の記憶は失われる。記憶を失うからこそ、前世の続きじゃない新しい人生を歩めるんだ。だから、新たに学んだり、新しい挑戦もできる。前世の記憶は自覚できない深層心理に閉じ込められて、無意識に自分の手助けをする補助でしかなくなる」  神様の言葉に、俺は、なんとなくだが納得した。  前世の記憶があると、次の人生は有利なように思える。周囲の人がこれから学ぶことを、あらかじめ知っているのだから。  けれど、あらかじめ知っているということは、その知識に縛られるということだ。既存の経験に執着するということだ。だから、新しい発想が生まれない。経験に即した安全な道ばかりを選択し、未知の世界を知らずに終わる。  でも、そんな世界の摂理なんて、どうでもいい。 「転生させてくれ」  俺は絶対に、今の記憶を失わない。  たとえ忘れたとしても、絶対に思い出すんだ。  必ず、母さんに伝えるんだ。  神様は小さく息をついた。 「僕の姿はね、人によって見え方が違うんだ」  母さんの姿で、少しだけ困ったように笑った。 「()()()にとって一番大切で、一番愛していた人の姿に見えるんだよ」  俺の方に手をかざす。神様の手から、温かい光が出てきた。  光は俺を包んで、飲み込んでゆく。自分の姿が薄れてゆくことが、はっきりと分かった。  今から、転生するのだろう。 「君にはきっと、僕の姿が、君のお母さんに見えてるんだろうね」  姿とともに、俺の意識が薄れてゆく。眠りに落ちてゆくときのように。  当たり前に、想定通りに転生するなら。  このまま意識がなくなり、目を覚ましたときには記憶を失っているのだろう。まったく新しい人間として、まったく新しい人生を歩むのだろう。  でも、俺は忘れない。中川正樹のままでいるんだ。中川正樹のままで生きるんだ。  ――母さんのところに行くんだ!  どうしても会いたいから。  どうしても、伝えたいことがあるから。  薄れていく記憶の中で、俺は何度も繰り返した。決して忘れないように。何かを覚えようとする子供のように、声に出して繰り返した。 「ごめんな、母さん」  止めどない涙のように溢れてくる、「ごめん」を。 「ありがとう、母さん」  山のように積んでもまだ足りない、「ありがとう」を。 「幸せになってよ、母さん」  決して忘れたくない願いを。  絶対に、母さんに伝えるんだ。  (終) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 最後に。 本作は、はっきり言って完全なバッドエンドです。 正直なところ、書いている本人も好みとして書いたお話ではありません。 ただ、今「イジメ」の名を借りた暴行等を受けている方がいて。 陰惨な目に合っているにも関わらず声を上げられなくて。 そんな方が、この物語を読んで声を上げるきっかけになってくれたら。 よくある転生モノのように「どんなに前世が悲惨でも、生まれ変わったら幸せになれる」なんて現実はないと思ってくれたら。 そんなことを思いますm(_ _)m
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