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第一話
気が付くと、知らない場所にいた。
白い霧がかかったような空間。
そこで俺は、横になっていた。
頭の中に「?」を浮かべながら、上半身を起こした。周囲を見回してみた。
何もない場所だ。地面はまるで、雲のような見た目だった。柔らかくて、弾力性がある。
「何だ、ここ」
無意識のうちに、口から疑問が漏れた。頭を押さえて記憶を辿ってみた。どうしてこんなところにいるのか。
俺は何をしていたのか――
「――!!」
直前の記憶が頭の中に蘇って、俺は吐き気を覚えた。忌々しく、痛々しく、おぞましく、腹立たしく、悔しく、悲しく、辛い記憶。
体が痛みを思い出した。思わず、左腕に触れた。骨折した左腕。
でも、左腕には傷一つなかった。
「……あれ?」
おかしい。何か変だ。
俺は、体の色んな部分に触れてみた。左腕だけではなく、体中に怪我をしていたはずだ。顔は腫れ上がっていたし、そこら中に擦り傷もあった。
ところが、俺は無傷だった。
無傷だと気付いた途端に、体の痛みが消えた。
「どうなってるんだ?」
自問する。考え込むと、頭の中がどんどん鮮明になっていった。
俺は十一歳の小学校六年生。家から近い学校に通っている。学校のすぐ近くには、海まで続くような長い長い川がある。太股くらいまでの深さの川。あまりに汚いドブ川なので、子供達の遊び場にはならない。
俺は母子家庭で育った。父親の顔は知らない。母さんは三十二歳。クラスの奴等の母親よりも若い。息子の贔屓目抜きにしても、美人だと思う。綺麗好きで、家の中はいつもピカピカだ。
俺の頭の中に、どんどん記憶が流れ込んでゆく。六年生の現在から、過去に遡ってゆく。五年生、四年生、三年生、二年生……。
一旦、記憶の逆流が止まった。小学校一年の頃を思い出した。
あのとき母さんは、二十七歳だったはずだ。照れ臭そうな顔で、俺に、男の人を紹介してきた。ちょっとだけ恥ずかしそうに、俺に聞いてきた。
「この人がお父さんになったら、嫌?」
胸が痛む、過去の記憶。
そこからまた、記憶が逆流していった。
五歳、四歳、三歳……。
頭の中が真っ暗になった。光を失い、声だけが聞こえてきた。母さんの声。
「大丈夫。私一人でも、ちゃんと育てるから。大切にするんだから」
現在よりも若い、母さんの声。
「一緒に頑張って、幸せに生きようね」
腹の上から撫でられる感触。母さんの中にいた頃の記憶。
また時間が逆流してゆく。前世の、昭和と呼ばれていた時代。死に物狂いで勉強して、死に物狂いで働いた。また真っ暗になって、前々世では戦地にいて。また真っ暗になって、今度は刀を手にして戦って……。
一通り思い出して、俺の意識は現在に戻った。雲のような地面。霧がかかった空間。
俺は理解した。現世の自分は死んだのだと。
中川正樹、十一歳。小学校六年。前世や前々世よりも、はるかに平和な時代。それなのに、あんな死に方をした。死んだから、前世のことも前々世のことも思い出した。
不思議な気分だった。中川正樹としての俺も、その前世も、前々世も、間違いなく俺なのだ。それなのに俺自身は、中川正樹としての意識が強い。前世や前々世が、まるで他人事のようだった。
「どう? 色々と思い出せたかい?」
声を掛けられた。
ほとんど条件反射で、俺は振り向いた。
目の前には、母さんがいた。いつも綺麗にしていた母さん。同級生の母親の中でも、一番綺麗だった。俺の、唯一人の家族。叔母さんや爺ちゃんや婆ちゃんもいたけど、離れたところに住んでいて、滅多に会うことはなかった。
俺は、母さんが大好きだった。母さんにとって俺は足枷だったかも知れないけど、大好きだった。
だから俺は、母さんを心配させたくなかった。
「……」
目の間の、母さんの姿をした奴。でも、俺には分かる。こいつは母さんじゃない。声が違うし、何より、感じる雰囲気が違う。
「誰だ、あんた」
母さんの偽物は、腕を広げて見せた。表情は穏やかだ。優しいと言っていい表情。そこにあるのは、表面上だけの優しさ。厳しさも強さもない、上辺だけの優しさ。
「これまでの人生を思い出したなら、もう分かるだろ? 僕は神様――って言うべきなのかな? 神様ってほど万能じゃないけど。命を失った魂を、新しい命に導くのが僕の仕事。そうやって君は、前回は中川正樹として生を受けたんだ」
薄らとだが思い出した。確かに俺は、前世で死んで転生した。こんな雰囲気の奴に導かれて、中川正樹に生まれ変わった。
「ってことは、また俺を転生させるのか?」
「そのつもり。まあ、君の意思次第だけど」
俺は首を傾げた。
「転生を拒否もできるのか?」
「まぁね」
母さんの姿で、神様は頷いた。
「っていうより、生きる意思のない人を転生させても、生きて誕生しないんだよ。流産したり、死産になったり。それでも転生させる神様もいるけどね。でも、最悪の場合、生きた状態で子供を産めなかった母親にも心の傷を残しちゃう。だから僕は、転生したくない人は転生させないようにしてる」
「ふーん」
俺は再び、中川正樹としての人生を思い出した。
母さん以外に、大切な人なんていなかった。ただ虚しいだけの人生。凄惨で、陰湿で、無慈悲な最後を迎えた人生。俺がいたことで、母さんの自由すら奪っていた。
もしかしたら、またそんな人生を歩むかも知れない。
それならもう、転生なんてしなくていい。
「じゃあ俺は、転生なんてしなくていいや。このまま死なせてくれ」
「本当に?」
「ああ」
「なんでまた?」
俺は小さく溜め息をついた。
「なんかさ、生まれてもいいことなんてないかな、って思うからだよ」
「そんなふうに思うような人生だったのかい? 中川正樹としての人生は」
「そうだよ」
俺の家は市営住宅だった。
近所に住んでいたのは、たぶん、普通の家族達。
それに加えて、仕事を退職して暇を持て余した老害共。
俺の口から、自然に愚痴が漏れた。
「近所に住んでいた老害共は、母子家庭ってだけで俺達親子を蔑んだんだ。悪評を流して、俺達を貶めて、迫害しやがった」
老害が吹聴した悪評のせいで、俺は、近所に友達がいなかった。どこの家の子供も、俺を避けた。一緒に遊んではいけない子供として。
でも、それだけならまだマシだった。孤独なだけだった。危害を加えられなければ、傷付くことはない。怪我をすることも、命を落とすこともない。
死んで怪我はなくなったのに、苦痛を覚えた。体と心の両方に。どうしようもない怒りと悔しさに、俺は舌打ちした。
あまりに不快だったので、俺は別のことを考えた。母さんのこと。俺が唯一、幸せになってほしいと思う人。
俺は神様に笑顔を向けた。
「とりあえず、俺は生まれ変わるつもりなんてないよ。それに、死んでよかった。俺がいなければ、母さんだって、もう少し幸せに生きられたはずだしな」
母さんの姿で、神様は首をひねった。
「どうしてそう思うんだい?」
俺の笑顔は、自然と苦笑に変わった。
「六歳の頃なんだけどさ。母さんには、彼氏がいたんだ。結婚も考えていたと思う。『この人がお父さんになったら、嫌?』って聞かれたし」
「お母さんは再婚しなかったのかい?」
「……」
後悔しかない記憶。母さんの幸せを、壊してしまった記憶。
「俺が邪魔したんだよ。母さんの彼氏を徹底的に嫌ったんだ。たぶん、嫉妬してたんだろうな。彼氏に、母さんを取られる気がして」
母さんの彼氏は、俺に歩み寄ろうとしていた。母さんと同じで、優しさも厳しさもある人だった。今さらながらに思う。あの人と結婚していたら、母さんは幸せになれていたのだろう。
でも、俺のせいで二人は別れた。
俺のせいで、母さんは苦労しかない人生を歩むことになった。
「だから、さ。母さんはまだ三十二歳だし、美人だし、今からでもいい男は見つけられるだろうからさ。結婚して、子供ができたら、俺と暮らしていたときよりも幸せになれるだろうな」
ごめんな、母さん。声に出さずに呟いた。
母さんの姿をした神様は、どこかあっけらかんとしている。俺に同情するわけでも、共感するわけでもない。下手に情を向けられるより気が楽だから、俺にとってはありがたい。
「そんなわけで、俺は死んだままでいいし、死んでよかったし、生まれ変わらなくてもいい。まあ、殺したいくらいムカつく奴等は大勢いるけど、もうどうでもいいかな」
「でも、生まれ変わらなかったら、ずっとここで暮らすことになるんだよ? 死んでるから何も食べないし、飲まないし、眠ることもない。死者同士が会うこともないから、孤独だし。何もない時間を送ることになるけど」
「いいんじゃないか。ただボーッとしたまま永久に生き続けるのも。あ、でも、死んでるのに『生き続ける』って言うのもおかしいな」
ははっ、と俺は笑った。可笑しくもないのに出した、笑い声。
神様は少し考え込むと、何かを思いついたように「そうだ」と声を出した。
「じゃあ、君に、いい物を貸してあげる」
「?」
神様が、手の平を上に向けた。まるでCGのように、手の上に鏡が出現した。十五センチ四方ほどの鏡。
「鏡?」
「ただの鏡じゃないよ」
ふふん、と神様は鼻を鳴らした。今さらだけど、やっぱりこいつは母さんじゃない。母さんは、こんな笑い方なんてしない。
「これはね、君が見たいものを映し出してくれる鏡なんだ。君が死んだ後の世界も見れるはずだよ」
「…………」
「うわ。興味なさそうな顔」
「うん、興味ない」
「そう言わないでよ。暇になったら使ってみるといいからさ」
神様は、俺に無理矢理鏡を渡した。
俺の手に持たされた、不思議な鏡。
「じゃあ、僕はしばらく姿を消すから。君以外にも、死人はたくさんいるからね。転生したい人は転生させてあげないと」
「ふーん。お疲れ」
「もし気が変わって転生したくなったら、僕を呼んでよ。君の声は、いつでも僕に届くから」
「はいはい。そんなことはないと思うけど、覚えておくよ」
「うん。それじゃあね」
手を振って挨拶をすると、神様はフッと消えた。まるで幻だったかのように。
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