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早朝だというのに、降り注ぐ陽光には夏の熱気が含まれている。
青々とした若竹の青葉を透過した光が、足下に無数の粒となって散らばる。
一人、竹林にたたずむネムは、焦っていた。
もっと荒々しく。
もっと力強く。
もっと恐ろしく。
絵筆を握る手に力がこもる。
息を止め、腰を落とし、腹に力を入れて、なめらかに筆を動かすと、スムーズに描かれた朱墨の龍が顕現する。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。
幼い頃から、描いて描いて描きまくって、習得した龍だ。
目をつぶっていても、利き腕をもぎ取られても、完璧に描く自信がある。
ネムが手にする絵筆は、ただの筆ではない。たった一本で、朱・藍・緑・黄・桃・橙・金など、多彩な色を塗り分けることができる、特殊な忍者道具だ。
見習い忍者のネムは、特殊武器である絵筆を使って発動し、宙に龍や虎など描き、顕現させる忍術「動植綵絵」の使い手だ。
動植綵絵は簡単な忍術ではない。
戦況に合わせて技のスケールをイメージし、イメージの通りに瞬時に描ききることが求められる。
戦況を見極めるセンスと、圧倒的な描写力の両方をを持ち合わせる者にしか使うことができない、高等忍術といえるだろう。
ネムが早朝の竹林に描いた朱墨の龍は、創造主の思惑通り巨躯をうねらせて縦横無尽にとびまわっている。
ぎょろりとした丸い目玉に、立派な口ひげ、飛び出した長い牙に、猛々しい角が生えた・・・・・・いつもと同じ龍。
ネムは音も無くため息をつく。「いつもと同じ」ではダメなのだ。
かつてネムは、動植綵絵を安定的に発動させるため、描写の書き順を研究した。
描き順を決めたことによって、最も早く確実に描くことができるようになり、動植綵絵の成功率は飛躍的に安定した。
龍を描く際にはまず、まずは目玉から描き始める。鼻の位置を決め、口ひげを描いてから、顎につなげていく。頭骨を意識しながら、耳を描き、角を生やし、たてがみを描くことで龍の背中心を決めてゆく。
しかし、描き順に頼ってるようでは、子供が絵描き歌でコックさんやドラえもんを描くのと同じだ。
忍者のネムは技の完成を喜んだが、心の内のもう一人のネムが、絵師の立場から不満を訴えた。
絵師としてのネムが叫び続ける魂の欲望。
同じ描き順で描く龍に、強い生命は宿らない。
心臓の鼓動、血液の熱、筋肉の隆起!!
龍の苛烈な生命を絵描き切れ!!!
しかし、落ちこぼれ忍者のネムは、魂の叫びをもみ消した。
心の声を無視し続けた結果、今朝も竹林に現れるのは、いつもと同じ空洞の龍。
創造主の自信のなさが、龍に伝わったのだろうか。それとも、創造主のため息で竹林の空気が濁っていくのが耐え難かったのだろうか。
不服そうなネムの姿を見て気を悪くした朱墨の龍は、長い尾を一振りし、創造主を見限るように一筋の光線となって消えてしまった。
「あっ、待って・・・!」
顕現した龍が創造主の命令を無視して消えてしまったのは初めてのことだった。
慌てたネムが、再度絵筆を振るが、墨の線が出てこない。
非常事態に、ネムは小さく息をのむ。
焦って何度も絵筆を振り回したが、線はおろか、墨の一滴も出てこない。
青ざめたネムは、竹林の真ん中でぺたりと座り込んだ。
「どうしよう、動植綵絵がつかえなくなっちゃった・・・」
ネムは、人生最大級のスランプに落ちいった。
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