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その日の夜。
今宵は満月。
ネムは朝と同じ竹林に華奢な三脚を立て、スマートフォンで中継を始める。
若竹の青葉の間から明るい月光が幾筋にもなって零れ落ち、手元を照らしている。
足下には、大きな和紙の束と、バケツいっぱいに入った墨汁。
墨汁の芳醇な香りがネムの鼻をつく。
リアルの紙に絵を描くのなんて、いつぶりだろうか。
振り返れば、忍術以外ではデジタル端末で絵を描くことが多くなっていた。
スタイラスペンや指で描く作品には、デジタル独特の筆触がある。
キャンバスの拡大や縮小が自在にできるため、細部までこだわった描写ができるが、線のストロークが短くなり、筆圧やにじみ・ぼかしなどのに作意が入りすぎてしまう欠点がある。作品を見る端末の液晶画面の大きさにも限りがあり、こぢんまりとした印象になりがちだ。
墨を含んだ筆をしごくと、若竹のみずみずしい香りと土のあたたかな香りが混じり合う。
筆からしたたり落ちる墨汁は、紙に吸収され、美しい偶然の造形を生み出す。
紙に落ちたしずくが繊維を伝ってにじんでいき、広がりを止めるまでのタイムラグに目が釘付けになる。
この筆触の心地よさを、長い間失念していたことに気がつき、ネムは深く反省した。
月を仰いで大きく息を吸って呼吸を整え、最初の一線を引く。
不思議と心は落ち着いていた。
書道とは異なる。
絵を描くときの筆遣いは自由だ。
姿勢も、筆の持ち方も、線の描き方も、決まりごとは何も無い。
最初にネムが描いたのは、若竹であった。
この世の不条理をまだ知らないであろうつややかな葉、成長の余地を残したみずみずしい節。
ネムの筆は勢いを増し、目の前の竹を描き続ける。次々と紙を変えて、いくつものドローイングが仕上がっていった。
輪郭線を正確に追って仕上げた一枚。
墨の濃淡を出してふんわりと陰影だけを描いた一枚。
群生した竹林をシルエットで簡略化して表現した一枚。
気に入った一本の美丈夫を心ゆくまで視姦ししつこく筆を重ねた一枚。
どのドローイングにも五感を研ぎ澄まし、涼やかな初夏の夜の風と、揺れる葉音、土壌の湿度まで描ききる。
心の赴くままに目に入った美しい若竹を模写し続けるのは、とても楽しかった。
一心不乱に描き続け少々疲れたころ、カメラのほうに人影があることに、ネムは気がついた。
「あっ、みんな来てくれたの?」
ネムの一人修行を見守るように、咲耶とシャオラン、そして甲賀の頭領で咲耶の祖父にあたる岩爺の三人が、竹林にいた。
「ネム、あの龍を描いてみよ」
岩爺が指さす先、竹林の上空には、今朝方ネムが動植綵絵で顕現させた朱墨の龍がいた。ネムはハッと息をのむ。龍はいつからそこにいたのだろうか。
「龍の動き表現してみよ。正確に描かずともよい。動きを描け」
ネムは、岩爺の指導にうなずき、新しい紙に取り換える。
筆に墨をしみこませ、上空の龍を仰ぎ見る。
月光に輝くうろこや腹の肉感がなまめかしい。
筆の動きに呼吸を合わせ、一心不乱に線を描く。
筆の運びを早くしすぎると、線が粗雑になることが分かった。
墨を枯らせばゆっくりとした筆致でもかすれを出すことができ、線の勢いを殺すこと無く力強い印象の線を引くことができる。
指先や手首を小さく動かすだけでは足りないと感じた。
ひじや肩、体幹、下半身。全身を使って、龍の動きを追い求めた。
にじみ、かすれ、水の割合、紙のぬくもり、墨の香り、呼吸、胆力、関節の動き、筋肉の踏ん張り。
息が荒くなり、体が熱くなる。服が汗で肌に張り付いて気持ちが悪い。
五感は鋭く研ぎ澄まされているのに、理想の描写ができなくてもどかしい。
うねうねと動き続ける龍を捉え、表現することは、動かぬ竹を描くよりもはるかに難しかった。
「ネム、そろそろ終わりにしたらどうじゃ」
書き終わった紙を引き剥がして次の紙を手に取ろうとしたとき、岩爺が声をかけてきた。
「でも、まだ足りません」
「だいぶ疲れがたまってきて、体が思うとおり動いておらんじゃろう」
岩爺の見立ては当たっていた。無心に描き続けていたネムは、急に疲労を感じ、体が重たくなった気がした。
「あのぉ、これ、フルーツサンド。コンガ師匠からの差し入れですぅ」
シャオランが紙箱を取り出す。甲賀シティで最近流行のスイーツ店のロゴが入っている。
「私たちも片付け手伝うからさ、一緒に食べよう。お腹すいてるでしょ」
咲耶がネムの肩に手を置き、やさしく声をかける。
「うん、そうだね、続きは明日。みんなありがとう」
絵の修行は自分一人でしかできない。わかりきったことなのに、親友が様子を見に来てくれたことがうれしかった。
「コンガにも礼を言っておきなさい。心配しておったぞ」
忍術の修行ではないため、コンガ師匠を頼るつもりは無かった。それでも、甲賀の頭領である岩爺が来てくれたということは、コンガ師匠がなにか言い添えてくれたのだろう。「はい」とネムは素直にうなずく。
月明かりの中、みなと一緒に食べた差し入れのフルーツサンドは、優しい味がした。
「ネムよ、絵の修行じゃがな。あの龍がおぬしに心を開くまで続けてみよ。たぶんあれは、すねているだけじゃ。たいして時間をかけずに、おぬしのもとに戻ってくるじゃろう。そうしたら、動植綵絵はさらにパワーアップして、使えるようになる」
「うん、あたし、がんばってみます」
それから毎日、ネムは竹林で修行を続けた。
咲耶とシャオランは配信の手伝いをしてくれるようになった。
撮影補助を得たことにより、ネムの動画のクオリティは格段に上がる。引きの全体の動画だけでなく、ネムの真剣な表情や筆遣いのアップが撮られることにより、より魅力的になった。
岩爺が言ったとおり、へそを曲げた龍がネムの元へ戻ってくるまでに、時間はかからなかった。
ある雨の日。咲耶とネムとシャオランの三人で傘を差して画材と機材を抱えながら、今日の修行はどうしようかと話しながら竹林へ向かうと、龍は自発的に地上に降りていたのだ。
龍に向かって駆け出すネム。咲耶とシャオランはすかさずカメラを回す。
「あなたを強く、かっこよく描くために、がんばったよ。また一緒に戦ってくれるかな」
ネムが朱墨の龍に優しく声をかけると、月光をまとった龍は光の粒となり、ネムの周りを高速でぐるぐる周回し、絵筆の先に吸い込まれるように消えていった。
その様子を編集してアップロードすると、雨降る竹林のしずけさと神々しい龍の印象的なサムネイルの効果もあり、瞬間再生数一位を獲得した。
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