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第3部 東京
第31章 波間と平野
波間が東京へ戻ったのは、特段理由があったわけではなかった。ただ、ホテルでの缶詰状態にいささか飽きて来て、夕方町へ繰り出そうとロビーまで降りた時に、たまたま咲森の出掛ける姿を目撃したからだった。
(やっこさん、どこへ出掛けるのだろう?)
波間にはそのホテルでやることがなかった。波間の取り分は既に決まっていたからだ。ただ、渡部と咲森がトキから出されたなぞなぞが解けない場合に、彼らがもらえるはずだった額を平野と按分して分配されるだけだった。
(咲森のやつ、なぞなぞのヒントでも掴んだのかな?)
しかし、咲森の格好はちょっと出掛けて来ますというような軽装ではなかった。スーツケースこそ持ってはいなかったが、これからどこかへ旅行に出掛けるというような出で立ちだった。波間はそれを見て、これは何かあると考えたのだった。波間はちょっとした暇つぶし気分で咲森の後を追い掛けてみることにした。
咲森は逆手港からフェリーに乗り、神戸港から三ノ宮を経由して新神戸に向かった。そしてそこから山陽新幹線に乗り込むとそのまま東京まで行った。波間もまさか咲森が東京まで行くとは思っていなかったので、財布は持っては来たが、衣服などはまるごとホテルに置いて来てしまっていた。時計を見ると午後11時を過ぎていた。
(まさかこのまま東京に戻ってしまうんじゃないだろうな。取り合えず今夜はどこかのホテルへ泊まるしかないな)
波間は平野のことがあったので、咲森もこのまま東京に居座ってしまうのではないか思った。咲森はフェリーに乗るまでは後ろを気にしてはいたが、神戸に到着するともう誰も尾行する者がいないと安心したのだろう、特に周りを気にすることもなく自然に振る舞っていた。波間は一時興信所の探偵まがいのことをしたことがあったので、尾行には慣れていた。それで咲森には気付かれずに、とうとう渋谷まで彼を尾行することに成功したのだった。
(渋谷? 誰かと会うのだろうか)
咲森は最近閉鎖された東横線の渋谷駅改札口に着くとそこでまるで人を待つように立ち止まった。
(やっぱり待ち合わせだ)
波間は咲森からは死角になる場所で、波間の下半身だけが見える位置に立った。それなら自分が咲森を尾行しているとは気付かれないと思った。それからどれくらい待っただろうか、そろそろ日付が変わろうとした頃だった。咲森の前で誰かが立ち止まった。そして次の瞬間その誰かと咲森が並んで歩き始めた。波間は二人の後を慎重に追い掛けることにした。
(あれ! あれは平野じゃないか)
ちょうど二人が歩道橋の階段を昇り切った時だった。二人の横顔が斜め上の照明に照らされてはっきりと波間の位置から確認することが出来た。
(咲森と平野が何故?)
波間は平野がとっくに降りているのだとばかり思っていた。しかし、今日二人がこうして並んで歩いているのを見ると、どうやらそういうわけではなかったようだと思った。しかし、二人の利害関係がどう繋がるのかは即答出来なかった。咲森にとって必要なことはなぞなぞの答えを知ることだった。しかし、なぞなぞの答えを平野が知るわけがないと思った。仮にその答えを知っていたとしても、それを咲森に教えてしまえば、平野の取り分が減るのである。では、平野がその答えを知らないとした場合、咲森が平野に近づく必要性があるだろうか。いやそれはないはずである。波間はそう思った。
(まさか平野が相続を放棄するかどうかを確認しに来たんじゃないだろうな。そしてもし、放棄をしないのであれば、放棄するように説得に来たとかいうんじゃないか)
しかし、それも考えられなかった。そんなことをするために、わざわざ咲森が、まるで人目をはばかるようにして東京まで来る意味が見い出せなかった。確かに平野を説得出来れば儲けものだが、その可能性がどれだけあるかは全くの未知数だったからだ。
(わからん)
波間は二人の後を尾行しながら、二人が会っている意味を必死になって考えた。しかしなかなか納得出来る答えを見つけられなかった。
(もしかしたら平野が咲森に相続を放棄すると連絡したのだろうか。そこで放棄するくらいなら、平野が一旦相続をした後でそれをそっくり自分にくれと頼みに来たのだろうか)
波間はこれが答えなら、わざわざ咲森がホテルを抜け出して東京まで来る意味があると思った。しかし、そうだとすると何故平野はそんな連絡を咲森にしたのかという疑問が生じた。
(そこまで二人が親しくなる時間はなかったはずだ)
気が付くと二人は神社の境内に入って行った。
(こんなところでどんな密談を?)
波間は二人の姿を見失ってはいけないと思いながらも、あまり近づき過ぎて自分が尾行していることがばれてもいけないと思った。それで彼らがどの辺りにいて、そして自分がどこからその様子を伺えばいいかとあれこれ迷っていた時だった。神社の境内から素早く出て来る人影が見えた。
(平野だ)
それは一瞬で平野だとわかった。しかし咲森の姿はなかった。彼はどうしたのかと思った。平野を尾行しようかと思ったが、咲森の行方が気になった。わざわざ島から追って来たのである。ここまで来て見失ってたまるかという気持ちになった。まさか自分の尾行に気が付いて、二人が落ち合う場所を決めてから二手に分かれたのではないかと思った。
(しまった!)
波間は焦った。もうこうなってはばれても仕方ないと思い、二人が入っていった境内にズカズカと入り込んでみた。すると少し先に社があって、その奥は林になっていた。あの林を抜けてどこかへ行ってしまったらもう見つからないと思った。波間は早足から小走りになり、その社の裏へ回った。すると案の定そこから先は行く手を遮るように木が覆い茂っていた。
(やられた)
しかしそう思っても後の祭りだった。今更平野を追い掛けても無駄だと思った。やはり彼らは波間の尾行に気が付いて二手に分かれたのだった。
第32章 東の隠れ家
「まさか波間に尾行されているとは思いませんでしたよ。平野さん、よく気が付きましたね」
「私たちはこうやって隠れて会っているんだから、それくらい注意をしないと」
「全くですね」
咲森と平野は平野の機転で波間の尾行をかわすことに成功した。そしてあの神社に隣接する戸建ての家で落ち合っていたのだった。
「波間のあのしまったという顔は愉快でしたね。あの社の裏の林を抜けて逃げたと思ったのでしょうね」
咲森はまだその時の興奮から冷めないようだった。それは出されたアルコールのせいかもしれなかった。
「まさか神社のすぐ鼻先の、しかもこんな一戸建てがあなたの家だとは夢にも思わないでしょうね」
平野は咲森の話をはにかんだような笑みを浮かべながら、じっと聞いていた。
「しかも表札が平野ではないから、とても気が付きませんよね。でも、どうして平野ではなく森、ええとなんでしたか」
「森萬です」
「そうそう萬という字が読めなくて、その森萬なんですか?」
「旧姓なんですよ」
「お母さんの?」
「いいえ、祖父のです」
「祖父の旧姓? なんか複雑ですね」
「そうですか?」
「ということは、おじいさんが養子だったということですか?」
「そうですね」
「そうなんだ。でもどうしておじいさんの旧姓をわざわざ?」
「祖父の意思を継ごうと思いましてね」
「お祖父さんの意思?」
「ええ」
「なんかよくわかりませんが偉いですね」
「偉いですか」
「ええ、偉いですよ、両親の意思というならまだわかりますが、おじいさんの意思を継ぐなんてなんか凄いって感じがします」
「ところで平野さん、これがそのヒントなんですね?」
「はい。それが川本があなた宛ての封筒から抜き取ったもののコピーです」
「この三つのヒント、これがなければきっと解けないのでしょうね」
「だと思います」
「平野さんは何かこのヒントで思い当たることはありませんか?」
「私もそれを波間さんから見せられた時、少し考えたのですがわかりませんでした」
「実はね平野さん、私はトキさんの系図を手に入れたんですよ」
「系図?」
「はい。渡部家の千年にもわたる膨大なものです」
「それをどこから?」
「それは言えませんが」
「それで?」
「トキさんのなぞなぞはある人物を言い当てるものです。ですからその中にその人物がいるのではないかと思いましてね」
「それでわかったのですか?」
「いいえ。それで平野さんからヒントを頂こうかなと」
「なるほど」
「でも、電話で平野さんが言ってたじゃないですか」
「え?」
「千の一って」
「ああ、それはここに書かれているヒントの二番目ですが」
「はい。実はあれが大きなヒントになったんですよ」
「どういうことですか?」
「あれは壬生の上の字です」
「なるほど。壬という字は千という字と一という字が組み合わさってますね」
「はい。それでその系図の中に佐藤壬生という人物を見つけたんです」
「佐藤壬生?」
「はい。トキさんの祖父に当たる人です」
「そうなんですか」
「きっとトキさんがそのおじいさんに可愛がられたとか、財産をその人が築き上げたとか、そういうことじゃないかなって思ったんです」
「なるほど」
「直感ですがね。それでその確信を得るためにここに来たんです」
「それでその確信は得られましたか?」
「はい。見てください」
そこで咲森は平野から受け取った手紙のコピーを広げた。
一、出るものは打たれる
二、千の一
三、恩があるということは、その方に借りたということである
「この二番目のヒントは、千人の人物が書かれている中から一人を選べ、つまり系図を参考にしろという意味と、その中の千という字と一という字を組み合わせた壬という字が名前に使われている佐藤壬生を表しています」
「なるほど」
「更に三番目のヒントはその祖父にトキさんは可愛がられた。或いはトキの財産はこの祖父が築いたものだろうと思います」
「なるほど、辻褄が合いますね。ではこの一番目のヒントは?」
「出るものは打たれる、これは今考えているのですが、ちょっと……」
「それから、そもそもこのなぞなぞですが」
「人、貝でしたね」
「はい。それとトキさんのおじいさんとの関係ですが」
「おじいさんが人を使って海産物で儲けたとか……」
平野が笑った。
「咲森さん」
「はい」
「その人は、なぞなぞの答えではありませんね」
「え? ですか?」
「はい」
「私はこの人だと思うのですが」
「でしたら、私や波間さんはその人とどんな関係があるのでしょうか?」
「うーん」
「あなたはまるで何もわかってない」
「どういう意味ですか?」
「この相続はそんな幸福の分配ではないということです」
「え?」
「その真逆なんですよ」
「どういう意味ですか?」
「あなたが恩があるのはこの私だという意味です」
「どういう意味ですか?」
「出るものは打たれる。あなたは出過ぎましたね」
「平野さん、意味がわかりませんが」
平野は川本の一件から何か自分の中で違う人格が生まれて来るのを感じていた。それは新たに生じたものというよりも、何かずっと自分の中に潜んでいて、それがあの事件をきっかけに自分の中で大きく育ったようなそんな感じがしていた。
それはあの人物の心ではないかと思った。無念のうちに世を去った思いが、自分に伝わったものではないかと思った。そしてそうであるなら、自分はあの人の意思で、感情で、立場で動かなくてはいけないと思い始めていた。
「まだ気付かないのか?」
「気付かない?」
「あの人があるからお前は今ここにあるんだ」
「あの人?」
「お前には一生かかってもそれがわからないだろう」
「なぞなぞの答えの話?」
「あんたバカ?」
「なんだよ。バカとは」
「だからバカはバカでしょ」
「話にならん、帰る!」
その時咲森の足元がふらついた。急に酔いが回ったと思った。それは興奮しすぎたからだと思った。しかし、それにしてはいつになく眠くなったと思った。確かビールをコップ一杯ほど飲んだだけだった。しかしどうしてもこの眠気を追い払うことが出来なかった。
「申し訳ない、平野さん、ちょっとだけ、ちょっとだけ寝かせてください」
咲森はそう言うとその場に崩れ落ちた。
「いいんですよ、咲森さん、あなたはこれからずっとおやすみになるのですから」
咲森がその場に倒れ込むのを平野は静かに待った。そしてとうとうビールに混入した睡眠薬の効果が表れると、前もって準備していた便箋を咲森のズボンのポケットに四つ折りにして忍ばせた。その便箋にはこう書かれてあった。
―杭は打たれる。そして悔いは残った―
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