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木製の杭
第1部 始まり
第1章 始まりの始まり
私は四男坊だった。それで幼い頃から養子に出されることを自分でも覚悟していた。そして実際に父の知人で、遠い親戚に当たる佐藤家の養子になることを10の時に父から聞かされたのだった。
しかし、私が17の時だった。三人の兄が次々と流行り病で亡くなってしまい、男子は私一人だけになってしまった。そこで佐藤家への養子の話は当然白紙に戻されると思っていたのだが、それでも私は23の時に養子に出されてしまったのだった。
佐藤家への養子は、実際には入り婿という形だった。相手は佐藤家の長女のミズさんだった。彼女は才色兼備という言葉がぴったりの人で、どうして私のような学のない者が婿に選ばれたのか不思議だった。それで私は、肝心のミズさんは私のことをどう思っているのかが気になっていた。
そんなある時、私は彼女から重大な相談をしたいと一通の手紙を渡された。私は良からぬ予感がして胸の鼓動が速くなった。そこにはこう書かれてあった。
「今夜零時、私の部屋に一人でお越し下さい。但し、決して他の方には気づかれないようにお願い致します」
私はどんな相談事だろうかと、約束の時間になるまで落ち着かなかった。そして、とうとうその時が来ると、忍び足で彼女の部屋に向かったのだった。
「ミズさん、こんばんは」
私はミズさんの部屋の外からそう声を掛けると、そのドアが開いていたので、その中へ恐る恐る入って行った。しかし中は真っ暗だった。最初は目が慣れなくて壁を伝ってゆっくりと進むことになった。
「ミズさん、どこですか?」
私は囁くようにそう言いながら更に奥に進んで行った。すると次第に目が慣れて来たのか、そこにはきれいに整理された部屋が現れて来た。
「こちらです」
その時奥の方から、ミズさんの声がした。それで、私はそのままその声の方へ進んだ。すると、そこにはもう一つドアがあった。どうやらミズさんはその中にいるようだった。
「ミズさん、入りますよ」
私はそう言ってそのドアを開けた。するとそこには、ミズさんともう一人、私の知らない男の人が立っていた。
(軍司さん?)
その男の人は、一瞬ミズさんの兄の軍司さんではないかと思った。
「ご紹介します。こちらは渡部兵庫さんです」
「渡部です。いつだったか青年会の集まりでお会いしました」
その人は私のことを知っているような素振りだったが、私はその人に覚えはなかった。
「こんな夜分にすみません」
私はいったい何事かと思ったが、二人の距離や、二人の交わす視線から、二人がただならぬ関係であるということを知るのに、そう時間は掛らなかった。それで私が言葉に詰まってしまうと、その渡部という男が話を始めた。
「ミズさんの父上は、あなたとミズさんを一緒にして、この家を継がせようとしているのですよね?」
「そのようですね」
「でも、僕とミズさんは愛し合っているんです」
「それは困った」
「どうかあなたから、ミズさんのお父上に僕とミズさんのことを口添えして頂けませんか?」
「私が?」
「はい」
「何故?」
「図々しいお願いだということは重々承知しています。でもあなたしか頼れる方がいないのです」
「軍司さんはどうなんですか?」
私はそんな話は、先ずミズさんの兄の軍司さんにお願いすべきだろうと思った。しかし、その提案にはミズさんが即座に否定的な反応をした。
「兄ではだめです。勘当になりましたから」
「勘当に?」
「はい」
「そうなんですか。どちらかへ行ってそれでずっと戻って来ないだけなのかと思っていましたが」
「いいえ、違うんです。ですから、もうあなたしか頼れる方はいないんです。父はあなたを信頼しています」
「それは評価され過ぎですよ」
「いいえ、そんなことありません。父はよくあなたのことを言っていますから」
「私のことを?」
「はい。あんな信頼のおける奴はいない。だからお前の婿に選んだんだって」
「そうですか……」
「はい」
私はいつ、どうしてミズさんの父にそれほどまでの信頼を持たれたのか、見当がつかなかった。しかし、ミズさんもいい加減なことを言うお人ではなかったし、私は仕方なく二人のことを彼女の父に話してみることにした。確かに婿として呼ばれた男が、他の男を推挙するなんてことはあり得ない話だった。しかし、彼女のあの光り輝く真剣な眼差しで見つめられ、そしてどうしてもとお願いされたら、とても嫌だとは言えなかった。僕は彼女の父に殴られるかもしれないと思った。軽蔑され、男としての品格を否定されるかもしれないと思った。しかしそれでもいいと思った。それは人の恋路を邪魔するようなことはしたくなかったからだった。そしてその方が寧ろ品格を疑われかねないと思ったからだった。私はそう心を決めると、ミズさんの父にお願いに行った。
しかし、いざ彼女の父に相対すると、緊張した。そして怒鳴られた。しかしそこには笑顔があった。そして、だからこそ私の息子にしたかったのだと肩を叩かれた。結局ミズさんはそれから少しして、美しい花嫁衣装をまとい、渡部兵庫に嫁いで行った。私はその日ほど、自分の失敗を思い知らされたことはなかった。
その婚礼の夜、私はミズさんの父と明け方まで飲み明かした。そしてその時、私もこういうことになったのだから、早くここを出て行かないといけませんねと話をした。そう、私はもう佐藤家の婿ではなくなったからである。すると、ミズさんの父は正式に私を養子として迎える手続きをしたいと言い出したのだ。そして長男の軍司は勘当したので、お前がここの跡取りだと言われたのだった。私はその言葉に私のことをよっぽど信頼してくれていたのだとわかった。
「それほどまでに私を信頼してくれるのはどうしてなのでしょうか?」
「迷惑か?」
「迷惑だなんて、そんなことはありません。たいへん嬉しいのですが、いったいどのような理由かと思いまして」
私は長く思っていた疑問をその日初めて養父となる人に尋ねたのだ。
「人が信頼するに当たるとはどういうことだろうか?」
「それは信念とか人柄の問題でしょうか?」
「そう言ってしまえば簡単だが、お前の信念はなんだ?」
「私の信念ですか?」
「私はお前の中に見たお前の信念でお前を信頼したのだ」
「それは……」
私はその突然の質問に戸惑った。
「まあいいから飲め、さ、飲め!」
その人の目からは涙が流れていた。それは美しい娘がいなくなった寂しさからだったのか、或いは新しい息子の誕生に喜んでいたからなのかはわからなかった。しかし、その夜はそれ以上何も語らずに飲み明かそうと私は決めた。
それからひと月ほどして、渡部兵庫とミズさんが私を訪ねて来た。そして二人の結婚が養父から猛反対をされていたという話を聞かされた。二人は駆け落ちをしようと考えていたが、その矢先、私が入り婿という形でミズさんの家に同居するようになると、さすがに私への手前、それは出来ないだろうと言うことになったらしい。それで後は命を賭して養父に直談判するしかないと思っていたそうだ。しかし、私のことを知るに従って、何故養父がミズさんの夫に私を選んだのかを理解するようになり、それは父の娘への愛情からだとわかったというのだ。
しかしそうなると、どうにも行かなくなり、後は心中しかないと考えていたらしい。しかし、心中こそ養父や私への裏切りになるだろうと考え直し、そこまで恥をさらすのなら、いっそ養父が信頼している私に二人のことをお願いしてもらったらどうかと考えたらしい。そしてもしそれが上手く行けばそれに越したことはないし、失敗すれば仕方ない、心中するしか道はないと思ったのだそうだ。
その話を聞いて、そのどちらに転んでも私が惨めな思いをすることには変わりないと思った。すると突然二人が私の前で土下座をした。そして、あの時は若さ故にそこまでは考えが至らず誠に申し訳なかったと涙を流し始めたのだった。私はそこまでしてもらわなくても良いのにと思った瞬間、私はそれだけのことをしてもらうような恥をかいたのだと、改めて知らされたのだった。しかし、それは迂闊なことをしたというよりも、それが私の性分だと思った。そして何故養父が私を信頼してくれたのかも、その時初めてわかったような気がした。
第2章 拝啓 平野様
「はじめまして。私は渡部ミズの娘の渡部トキと申します。突然のお手紙失礼致します。平野タエさん、あなたに佐藤久伊さんの娘さんだということは、私の母から聞いております。それから、どうして森萬家に断絶したのか、その事情も母から聞かされております。そこで、これはとてもその代わりなどには到底成り得ないということは重々承知しておりますが、せめて私のお詫びの気持ちとして、あなた様に私の遺産を相続して頂きたくこの手紙をお送りしました。直接お会いしてお詫びも申し上げたいとも思います……」
平野タエはその手紙をそこまで読むと、それが元あった封筒の中に収め、そしてそれをいつもの封筒ホルダーの中へとしまった。
第3章 拝啓 渡部様
その依頼人が影山の探偵事務所を訪れたのは、彼が助手の鈴木と初詣に行った翌日だった。その日は事務所の仕事始めの日だった。
依頼人の名前は渡部淳、年齢は40くらいだろうか、財産を相続することになったのだが、いささかやっかいなことになったので、そのことで相談をしたいと言った。
「この方とあなたとのご関係は?」
「私の祖母です。渡部トキといいます」
「と言うことは、あなたはこのトキさんの法定相続人なのですね?」
「はい。私の父の母に当たる人ですから」
「他には誰か相続人がいますか?」
「いいえ。法律上は僕一人だけのようです。僕には兄弟もいませんし、トキには私の父以外に子どもはいないようですから」
「あなたのお父さんは亡くなられているのですか?」
「はい」
「お母さんは?」
「母も他界しました」
「するとあなたを育ててくれたのはもしかして」
「はい。トキです」
「なるほど。では本来ならばトキさんの財産はあなたが全て相続するのですね?」
「そうなります。ところがトキは遺言書で私以外の三人に財産を分けたいと遺したのです」
「その方たちはお知り合いですか?」
「いいえ」
「そうですか。御存知ない方なのですね?」
「はい」
「すると渡部さん、やっかいなことになったとは、その三人の相続人の出現のことですか?」
「それもありますが、ご相談をしたいのは別の件です」
「と言われますと?」
「手紙なんです」
「手紙ですか?」
「はい。その遺言とは別に手紙が届いたんです」
「その手紙とは?」
「トキが亡くなるひと月くらい前に届いたものなのですが」
「その手紙に書かれている内容がやっかいだと?」
「はい」
影山はその手紙と遺言とが何か関係があるのだと思った。
「その手紙と遺言書には何か関係があるのですか?」
「はい」
「どんなふうにですか?」
するとそこで渡部がカバンの中から封筒をひとつ取り出して、影山と鈴木の前に差し出した。
第4章 拝啓 咲森様
「ね、この渡部トキっていう人知ってる?」
「トキ?」
「渡部トキ」
「さあ、何で?」
「あなた宛てに手紙が来てるの」
「誰だろう、渡部トキって」
咲森哲夫は妻からその手紙を受け取ると、それをひっくり返して差出人の名前を見た。するとそこには確かに「渡部トキ」という名前が書かれてあった。
しかし、咲森はその名前に覚えがなかった。それでとりあえずそれを開封し、中から便箋を引っ張り出してみた。すると、そこにはこう書かれてあった。
「石、袖、裏」
咲森はこれは何だろうと思った。
「どなたからだったの?」
「うん……」
咲森は続いて二枚目をめくった。
「以上のヒントを元にして以下の問題を解いてください。問題 『人、貝』」
(何だろう?)
咲森が不思議そうな顔をしているので、それに興味を抱いた彼の妻が彼の横に近づいて、その手紙を覗き込んだ。
「これ、どういうこと? 以上のヒントって何だったの?」
「うん。これなんだけど、なんか、なぞなぞみたいだろ?」
咲森はそう言って妻に一枚目の便箋を渡した。
「ほんとだ。なんだろう……」
咲森は悪戯かと思った。それで妻がずっと一枚目の便箋を眺めて何かぶつぶつと言っていたが、それを取り上げると二枚目の便箋と合わせて封筒の中に戻した。
「きっと悪戯だよ」
「でもどうしてあなたに?」
「さあ」
咲森は自分がまだスーツから着替えていなかったことを思い出した。それでその封筒を持って自分の部屋に行くと、机の引き出しの中にそれをしまった。
第5章 拝啓 波間様
「はじめまして。私は佐藤ミズの娘の渡部トキと申します。突然のお手紙失礼致します。波間コトエさん、あなたに森萬カスミさんの娘さんだということは、私の母から聞いております。それから、どうして森萬家に断絶したのか、その事情も母から聞かされております。そこで、これはとてもその代わりなどには到底成り得ないということは重々承知しておりますが、せめて私のお詫びの気持ちとして、あなた様に私の遺産を相続して頂きたくこの手紙をお送りしました。直接お会いしてお詫びも申し上げたいとも思います……」
波間貞夫はその手紙をそこまで読むと、元あった封筒の中に収め、そしてテーブルの上に放り投げた。
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