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第38章 人、貝
本間刑事は自分の発言に酔っていた。今まで捜査に加えられることはあっても、その中心にいたことは一度もなかった。この事件にも参加はさせてもらったものの、三日月という漢字オタクとわざわざこんな遠い島まで追いやられて、こんな探偵の相手をさせられていた。三日月は本庁のお偉いさんの御子息で無碍には扱えなかった。それでそのお守役として自分に白羽の矢が立ったのだった。使えない刑事にあと数年で定年を迎える刑事。このデコボココンビは警視庁では笑いの種として有名だった。
本間は、今頃事件のあった渋谷署管轄ではうちの敏腕職員が大活躍していることだろうと思った。犯人を追い詰めて、逮捕して、そして出世して、自分よりずっと後に入って来たやつらが自分より偉くなって、そしてこうしてどうでもいい仕事を自分に命令するようになったのだ。だから、この探偵との暇つぶしでも、その中で自分の閃きが捜査の核心を突くようなことになれば、何か嬉しい気持ちが込み上げて来たのだった。
「それに探偵さん、この壬という漢字は、このなぞなぞのヒントの二番にも該当しますね」
「千の一ですね」
「ええ」
「千の一?」
しかし本間がそんな思いにふけっていると、途端に周りの話について行けなくなってしまうのが常だった。
「千の一、この系図を見せられた時に、うわあ、この中になぞなぞの答えの人がいるって思ったんです。恐らくここには千人近い人が書かれているでしょう。すると千人のうちの一人、という意味で、系図が参考になるというヒントかなと思ったのですが、今の話で、この佐藤壬生のことを言ってるのかなとも思いました」
本間は探偵にそう言われて更に嬉しくなった。
「では、そうだとして、その佐藤壬生をなぞなぞの問題に当てはめてみましょうか」
「はいはい」
本間はいよいよ核心に迫ったと思った。
「人、貝、そして佐藤壬生、何か共通しますか?」
「これらは共通するんですか?」
「はい。そういう問題ですので」
三人はそれら三つの文字を写した別の紙を暫く見続けた。しかし、これといった閃きはなかった。
「これは佐藤壬生さんの人柄とか生い立ちとかそういうことを知らないと解けないのではないでしょうか」
「それだとなぞなぞとしては成立しにくいですね。相続人にどなたもその方を存じ上げないのですから。それはいくらなんでも酷ですよ」
「では、そもそも解けない問題だったとか」
「それも考えられません。トキさんのこの相続にはその人物の名前を知らせることが本当の意味だったような感じがするんですよ」
「なるほど」
「ですから、わかりませんでしたと言われて、それでは遺産は別の方に、ということではないと思うんです。そうじゃなくて、その人の何かを知ってもらって、そしてありがたく遺産をもらってもらう、というのがトキさんのこのなぞなぞに込められた意味だと思うのです」
本間は影山の話に黙って頷いた。
「では人、貝という文字を佐藤壬生さんと結びつける作業はここまでにして、その壬という漢字がその二つの文字に結びつくかどうかの作業をしてみましょうか」
「あ、そうですね」
影山がそう提案すると三日月は気持ちをすぐに切り替えてそれに従った。一方本間は自分が閃いた佐藤壬生が端に追いやられたので少し不満な顔をした。
―人、貝、壬―今度は三つの漢字が並んだので、影山は漢字博士である三日月に話を振った。
「三日月さん、人、貝という漢字と、壬という漢字は何か関係がありますか?」
「この三つがですか?」
「三つというか、二つと一つが、ですが」
「三つなら、そうですね、ある漢字が思い浮かびます」
「人と貝に共通する文字が壬かと思ったのですが、三つが共通するのですか?」
「ええ」
「何ですか?」
「賃という字が三つを組み合わせた字です」
「賃?」
「ですよね?」
確かに人というにんべんと貝と壬を組み合わせれば、賃という字になると影山は思った。
「あれ、ちょっと待って下さい」
すると続けて三日月が何かを思い付いたような表情をした。
「どうかしました?」
「ああ、なーんだ」
そして三日月はその場で急に笑い出した。
「人と貝に共通する字ってわかりましたよ」
「なんですか?」
「この壬っていう字と杙っていう字ですよ」
「杙?」
「実際にはこの木へんがつかない字ですがね。読みは同じ『くい』です」
「くい!」
「つまり、賃貸ですよ」
「ああ!」
「人と貝はその壬と杙という字が共通しているのです」
その時影山は雷に打たれたような衝撃が体に走るのを感じた。
「探偵さん、どうかしましたか? 大丈夫ですか?」
三日月が探偵を心配してそう声を掛けたが影山にはその声は一切聞こえてはいなかった。その時影山の頭の中は出来上がったパズルが恐ろしい速さで積み上げられて行った。
(壬は、ミズの兄とも言う)
(ミズの兄はすなわち、佐藤久伊である)
(そして杙という字も、「くい」と読む字である)
(つまり、人と貝に共通したものは、「佐藤久伊」だった)
(そして更に、人と貝に「くい」を当てはめた単語は、「賃貸」である。これはなぞなぞの三番目のヒントと適合する。つまり恩があるということは、その方に借りたということである、ということである)
(あ)
その時、影山は渡部から、トキの話す言葉や手紙は助詞の「が」を「に」にするという癖があったと言っていたことを思い出した。そしてトキの唯一の友人だった前島という老婆のところで聞いた話。
―気に入らないけど仕方がない―これは正確には「木がいらないけど仕方がない」だったのだ。つまり、杙という字の木へんが不必要だということではないかと思ったのである。以上のことから、影山はこの自分の推理に間違いないと確信したのだった。
「刑事さん、トキさんのなぞなぞが解けましたよ」
「ほんとですか?」
「答えは、佐藤久伊です。その理由は久伊がトキさんに何かを賃貸したということです」
「賃貸?」
「はい。ですからその借りを返すという意味で平野さんと波間さんを相続人に加えたんですよ」
「なるほど」
「するとこれがそちらの事件とどう結びつくかですね」
「結びつきますか?」
「ええ、何を賃貸したかがわかれば」
「なるほど」
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