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第14章 系図
それはまだ洵子がトキの息子の嫁として、トキの近所に居を構えていた頃だった。その日は自治会の新しい役員の集まりで、町を5つの地区に分けた地区長と、更にその地区を10ずつに分けた班の班長と、自治会の三役と言われる会長、副会長、会計が集まっていた。洵子は夫の龍一から早く地域に馴染んで欲しいと促され、その班長に立候補したのだった。集まりの目的は、新しい役員の紹介とその年の事業計画の説明だった。時間にして1時間半ほどでその会が終了すると、それから打ち上げということになった。
「洵子さん」
洵子がお酒とおつまみをそこに集まった人たちに配っている時だった。洵子はそう呼ばれてその声の方を見ると、知らない男性が何か巻物のようなものを持ってそこに立っていた。
「あんたがトキさんのとこのお嫁さんだって?」
「あ、はい」
「私はトキさんの遠縁のもので、吉野といいます」
「宜しくお願い致します」
「私も結婚式に呼ばれましたが、あの人数では覚えていないのも当たり前ですね」
「あ、そうなんですね。ご挨拶が遅れてすみませんでした」
洵子はこの吉野という人に上手く取り入っておけば、自治会の中でも動きやすいのではないかと思った。
「実はこれね、今日あんたがここに来るって聞いたから持って来たんだけど」
すると吉野はその手にあった巻物を洵子の方に突き出した。
「何でしょう、これは」
「系図だよ」
「系図、ですか?」
「うん。トキさんの系図」
その時洵子は何故こんなものを吉野が自分に見せるのかわからなかった。洵子自身、そんなものには興味がなかった。しかし、無碍に断ることも出来ず、吉野の話に付き合うことにした。
洵子はその役員会がきっかけで、吉野から家系図研究会に誘われた。そして年に一度開かれた家系図研究会の集まりにも数度誘われて出席したことがあった。それは龍一と離婚するまで続いた。それ以降はその会に顔を出すことはなかったのだが、依然そこからは会報が送られて来ていた。その会報は洵子の父の大友泰が、何故か関心を持っていた。それである時洵子がその訳を聞いてみると、年を取ると先祖だとか出自だとかそんなものに関心がわくのだと言っていたが、洵子にはそれが理解出来なかった。
「ごめんください」
大友が吉野の家を訪れるのは初めてだった。正直顔もよくはわからなかった。同じ島の人間だから顔くらいはわかりそうだと思ったが、どうにも思い出せないような学校の同級生が一人や二人はいるものである。大友にとってその吉野という人物はそれくらい印象の薄い人物だった。
「どちらさまでしたか?」
大友を出迎えたのは吉野の妻だった。吉野が去年亡くなったことを大友は家系図研究会の会報で知っていた。
「家系図研究会でお世話になった加賀と申しますが」
「加賀さん?」
大友はその加賀という人物を例の会報で知っていた。その加賀はこの島の人間ではなく、神戸から特別に参加をしていた人だった。それでその名字を使えば自分がこの島の人間ではないと思われるのではないかと考えたのである。
「はい、加賀と申します」
しかし一方で自分がこの島に住んでる大友だとばれるかもしれないという不安もあった。ただ大友と吉野との付き合いが全くなく、この妻にしても最近は外出を一切していないということを大友の知り合いのヘルパーから聞いていたので、その可能性は極めて低いと思ったのであった。
「近所まで来たので、ついでと言ったら失礼ですが吉野さんの仏前にお線香を上げさせてもらおうと思いまして」
「ああ、そうですか。それはわざわざありがとうございます」
大友は近所の目をなるべく避けて日が落ちるのを待ってそこを訪れた。そして吉野の妻にどうぞと言われると、素早く仏壇のある居間まで歩を進めたのであった。
「吉野さんには家系図研究会で本当にお世話になりました」
「主人は、なんかどうでもいいことに没頭していました」
「いえいえ、そんなことはないと思いますよ」
「いいえ、お宅様みたいに趣味の程度だったら宜しいのですが、主人はそればっかりになってましたから」
大友の手記が毎回会報に掲載されていたのは、そういうことだったのかと思った。
「吉野さんが最後に会にお見えになったのはいつでしたか?」
「亡くなる直前ですから、去年の春だったと思います」
「そうでしたね。春でしたね」
すると吉野の妻が仏壇に置いてある吉野の位牌を見た。その悲しげな様子を見て大友はこの計画を実行するか一瞬迷ったが、乗りかかった船だと決心して言葉を続けた。
「奥さん」
「はい」
「その時なんですが」
「その時?」
「ええ、去年の春の会でなんですが」
「はい」
「吉野さんから系図を貸して頂けると言われまして」
「系図を、ですか?」
「はい」
「そうだったんですか」
「はい。なんでも渡部トキさんという方の系図があるというお話を聞きまして」
「あの巻物ですね」
「あ、そうです。巻物です」
「主人がよく持ち出していました」
「はい。私も拝見させて頂きました」
「あら、そうでしたか」
「それでそれをお借りするということになったのですが」
「そうだったんですね」
「ええ」
そこで暫く沈黙が流れた。大友はそれを今日借りたいという話をどう切り出そうかと考えた。すると吉野の妻はすっと立ち上がったかと思うとそのまま台所の方へ行ってしまった。きっと大友のためにお茶でも出そうと思って、それを取りに行ったのかと思った。大友はそれで話をするタイミングを逃したと思った。
「これかしら」
ところが台所から戻った吉野の妻の手には巻物があった。
「あ」
「恐らくおっしゃってるものって、これだと思いますが」
大友は奥さんからその巻物を受け取ると、それを恭しく広げた。するとそこには膨大な人の名前が樹形のように描かれてあった。
「それで間違いないかしら」
大友はそう問われてその絵のような図表をよく見ると、その中に「渡部トキ」という文字を見つけることが出来た。
(これだ!)
「はい。これに間違いありません」
「では持って行ってください」
「お借りして宜しいのですか?」
「ええ、主人が約束したものですし、私が持っていても何の価値もないものですから」
吉野の妻はその巻物を貸すというよりも、くれると言わんばかりの様子であった。
「それに、それを見てるとなんとなく憎らしくて」
「憎らしい?」
「ええ、主人はそればっかりでしたから」
「それではお預かりして行きます」
第15章 咲森と大友
咲森が大友から連絡を受けたのは、遺言書公開の二日後の夜だった。咲森はホテルの部屋で一人、なぞなぞの答えを探していた。しかし全く何も思い浮かばなかった。正直お手上げ状態だった。それでなんとなくこのまま徒に時が過ぎ、約束の一週間が経っても回答ができないという不安に襲われていた。そんな心境での大友の電話だった。
「咲森さんですか? 大友です」
「大友さんて、トキさんのお屋敷で会った大友さんですか?」
「はい、その大友です」
咲森は大友が何の用かと思った。大友と言えば、平野をわざわざ捜し出してこの小豆島へ連れて来て、他の人の相続分を減らした張本人である。
「その大友さんが私にどんな用ですか?」
「咲森さん、なぞなぞの方は解けましたか?」
咲森は渡部からの連絡で平野が東京に戻ったことを聞いていた。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
「正直な話、咲森さんのことが心配になりましてね」
「私のことが心配に、ですか?」
「ええ」
咲森は大友の胸中を測りかねた。そこでどう話を切り出したらよいか思い悩んだ。
「咲森さん、私からの電話はおかしいですか?」
「ええ、だって大友さんは平野さんとお仲間なのかなと思っていたので」
電話の向こうで大友の笑い声が聞こえた。
「参ったなあ、咲森さん」
大友の笑い声は続いた。
「確かにそうですが、それは昨日までの話ですよ」
「昨日まで?」
「はい」
「だって平野さんが東京へ戻ったことはもうお聞きになってるでしょう?」
「はい。渡部さんから聞きました」
「平野さんは財産を諦めたわけじゃないんですよ」
「え?」
咲森は渡部から聞いた話とは違うと思った。
「東京へ戻ったのは、私とペアを解消したかったからなんですよ」
「そうだったんですか?」
「ええ、それで東京で一週間が過ぎるのを一人で待ちたいと言い出したんです」
「そうなんですか」
「だから私、パトロンを失っちゃってね」
咲森は大友が自分に電話をして来たわけがようやくわかった。
「それで咲森さんのお手伝いが出来たらなあと思いましてね」
しかし、大友にあのなぞなぞを解く策があるのかと思った。
「大友さん、何か思案があるのですか?」
「お力になれと言われれば、こちらにも策がないわけではありません」
「具体的にはどういう策ですか?」
「あのなぞなぞは人物の名前を言い当てるというものでしたね?」
「はい」
「咲森さんは、トキさんの関係者の名前など皆目見当がおつきにならないでしょう」
「ええ」
「私ならトキさんの幼馴染ですから、その点は大丈夫です」
「あなたの策は幼馴染だということだけですか?」
咲森は合点が行かなかった。
「それだけでは不足ですか?」
「幼馴染だっていうことくらいでわかるようななぞなぞなのでしょうか?」
「ご心配なく」
「と言いますと」
「私には心強い味方がおります」
「心強い味方?」
「ええ」
「それは誰ですか?」
「それはお話出来ません」
「それを教えてくれないものには何とも」
「いいえ、それを教える前に私と約束をしてもらいます」
「どんな?」
「なぞなぞを正解して頂ける10億の半分を私の取り分とすると」
「5億円も?」
「はい」
「それはいくらなんでも多すぎないですか?」
「何をおっしゃいますか。咲森さんは何もしなくても5億円が手に入るんですよ。その額はなぞなぞとは関係なくあなたのものです。それになぞなぞが正解出来れば更に10億円が手に入るんです。ですから、なぞなぞの正解は棚からぼた餅みたいなものではないですか」
「それはそうですが」
「ですから、そのうちの半分くらい私に譲って頂いても、罰は当たらないと思いますが、どうですか?」
咲森は少し考えた。そして、このままではとてもあのなぞなぞが解けそうにないのは確かだし、大友の力を借りて、もしそれに正解出来れば、大友の言うように棚からぼたもちであることには違いないと思った。
「わかりました」
「では契約成立ですね。今からそちらのホテルのお部屋に伺いますから、そこで一筆お願いします」
「今からですか?」
「善は急げと言いますから」
「わかりました」
咲森は大友からの電話を切ると、何故か急に力が湧いて来た感じがした。先ほどから妻からの電話がひっきりなしに掛って来たが、それには一切出なかった。それは今の自信のない姿を妻に気取られないためだった。妻はそういうことにやけに勘が働いた。しかし今は違うと思った。そこで咲森は一旦置いた受話器を再び取ると、自宅に電話を掛けた。
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