逃。

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 よし、片付けは粗方終わったわね。私は、綺麗になったアパートの一室を見回した。  この部屋は、身重で複雑な事情を持っている事を知った大家さんが、同情して貸してくれたのだ。不動産屋さんは、特殊な経歴から部屋の契約はすんなり受け入れてもらえるか分からないと言われていたため、とても助かった。  確かに、身重の女性一人で契約を取るなんて困難の何者でもない。しっかりした保証人はいないし、赤ちゃんが産まれたら夜泣き等で騒音トラブルにもなりかねない。  そんな障壁を大らかに受け止めてくれた大家さんには、感謝の念しかない。朗らかで、気さくな調子で話しかけてきた大家さんの後ろから、光が漏れ出ていた。まだまだ優しい人も、いるんだな。  そうだ、引っ越しの挨拶も込めて、お礼を言いに行こう。私は徒歩10分程度離れたスーパーで、ちょっとお高めの和菓子を買い、大家さんの家へ赴いた。アパートの玄関にはインターホンがないから、ノックと声かけを同時にして大家さんに私が来た事を知らせる。 「大家さーん! 最近引っ越してきた……」 私が名乗り終える前に、大家さんの玄関が勢いよく開いた。あまりにも急だったので、あと少しで我が子がいるお腹にぶつかりそうだった。 「あーあーあー! ごめんねぇ! 奥さんがいるなんて知らなかったわぁ!」 白髪に染まった七十代後半の女性が、開け放たれた扉の隙間からひょっこり顔を出す。私がお腹を庇う姿を見て、全て察したのだろう。大袈裟に謝る大家さんを見て、煮える怒りより不意に漏れ出た笑いに染まっていった。 「ふふっ……いえ、私も離れていませんでしたから」 「もお~、優しい人ねぇ。おばさんトキめいちゃうわ!」  あ、もうおばさんっていう年じゃなかったわね!  そう付け足して、からりと笑う。大家さんのこの豪快で、優しい性格が私は……。 「あ、そうそう。丁度良かったわ。あなたにね、会ってほしい人がいるの」 「え、私に、ですか?」  急に触られた話題に、私は戸惑いを隠せなかった。大家さんは相変わらず微笑みを崩さず、私のところへ手を伸ばした。 「こちらへ、いらっしゃい」  大家さんの皺くちゃの手が、私の腕を掴む。その途端、私の背中に冷たいものが走った。赤ちゃんが入っているお腹の底から湧き出てくる震えに、じっとりと汗が伝う。なんで……大家さんは日差しを浴びるような暖かな笑顔を浮かべ、掌は冷たくも寒くもない適温だ。それなのに、何故、こんなにも悪寒が走るんだろうか。  ともかく離れなきゃ……。私は大家さんの元から離れようとした、その時。  大家さんの部屋の奥から、床を大きく踏みしめる足音が聞こえた。その音は アパートを震わせる勢いで、こちらに近づいている。 「会ってほしいって言ったのは、実は私の甥なのよ。とても優しい子なんだけど、最近ね、お嫁さんに逃げられちゃったらしいの……ちょうどあなたが引っ越してきた時と同じタイミング」  大家さんは、淡々と話し続けている。その間にも、ミシリミシリと木を踏みつける音が聞こえ、徐々に迫る。私は、大家さんに握られていない手で、反射的にお腹を守った。手を振り切って逃げればいいだけの話だが、今私は足が震えて動けそうにない。だからせめて、この子は……この子だけは……。  私の必死な姿は 「本当に良かったわあ、初めての甥っ子を見られそうで……ね、貴方もそう思うでしょう?」  大家さんは、ふと後ろを振り返った。私はその視線を辿っていき、そして密かに絶望した。  歪な笑顔を浮かべた夫が、玄関先に立っていた。
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