私はセミリンガル

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私はセミリンガル

私(紀美世)は、子どもの頃から、 「上を目指すのよ」と常に母から言われていた。 父は大学の教員(その頃はまだ助手)をしていたし、海外の大学に留学したり、豊かではなかったけれど、貧しい生活ではなかった。 母の実家は、確かに貧しい家だった。 周りも貧しい家が多く、半島から流れて来た人も多い地区らしかった。 母の実家は違うといっていたけれど、 本当のところは分からない。 母は、とにかく貧しさから抜け出すために東京に出て、夜働きながら短大に行った。しかも、お嬢様短大と言われる学校に。 それは、そういう学校の学生は、他の有名な大学の男子学生と親しくなれる機会が多いことを知っていたからだ。 思惑通り、学者の卵の父と知り合い、何くれと面倒を見て結婚にこぎ着けたのだ。 母は、そのように元々上昇志向の強い人だった。それが一層強くなったのは、父がアメリカの大学に留学したことによると思う。 アメリカは豊かな国だが、日本より貧富の差が激しい。危なくて近寄れない場所もあるという。 母は、アメリカで貧しいことは悪なのだと、だから上を目指さなければと なおさら強く考えたようだ。 父の教育方針で、家でも日本語は使わず英語で会話した。父は英語を流暢に話すが、母は日常会話が少し出来る程度。 いきおい、家での会話が少なくなるのは仕方がなかった。 しかし、この教育方針が間違っていたのだ。会話には不自由がなくても、 読み書きが不充分な年齢で、私は日本に帰国した。そして、アメリカンスクールではなく普通の小学校に入ったため、 今度は日本語が分からないので 授業についてゆけなかった。 母は、英語が得意な学生を連れてきては、私と弟(2歳年下)に英語を教授させて、英語の力が落ちないよう気を付けていた。 しかし、所詮学生アルバイトの英語教師など、いくら英語が得意とは言ってもキチンと教授法を学んでいるわけでも、カリキュラムもないのだから、 キチンと英語の読み書きが出来るように教えるわけではなくて、日常会話でお茶を濁して終わるのだ。 だから、何人“先生”を変えても、 いっこうに私の英語力は伸びず、 日常会話それも小学校低学年程度のままだった。 私はある時母に 「英語より日本語を教えてくれる先生を連れてきて」とお願いした。 母は、 「どうして日本語の先生が必要なの? 国語は学校で教わるでしょ?」 と言った。 子どもなのだから、日本に帰って 小学校に入れば自然と日本語は覚えるだろうと深く考えていなかったようだ。 「あのね、お母さん。 先生が話す授業が分からないの。 友だちがしゃべっている事も、時々分からないし。自分の気持や考えも日本語だと上手く話せないし。 おはようとか毎日言う言葉は大丈夫だけど、授業が分からないのに座ってなきゃいけないのは、嫌。」 その頃、私はまだ“つらい”とか“疲れる”とか“難しい”と言う言葉さえ使いこなせていなかったから、“嫌”としか表現できなかったのだ。 我が家には父の方針でテレビもなかった。 「下らない日本語ばかり覚えてしまうから」と。 テレビでアニメでも見ていれば、 楽しみながらもう少し語彙も自然と増えていただろうに。 しかし、結局日本語の先生が付くことはなく、公立の小学校から、父の勤める大学の附属小学校に転校することになった。 その学校は私立だから、小学校から日常英会話の授業がある。その時間だけは、分かるので楽しかった。それでも、週に1時間だけだから、やはり英語力の向上にはならなかった。 お母さんは、 「分からない時は無理に答えないで、 首を傾げてニッコリ笑っていれば良いの。 そうすれば、物静かな品のあるお嬢様に見えるし、相手が〇〇でしょ?と言ったら、そうですね。そう思います。と答えればいいのよ。分かった?」 私は、そうなんだと思って 「分かりました。そうします。」 と答え、それからはお母さんの言う通りにしていた。 確かに、授業で先生に質問されたら「分かりません」と言い、友だちとの会話で分からない時は笑って凌ぐようになると、 紀美世(きみよ)さんは物静かで、 いつも微笑んでいる大人しい人というイメージが定着した。 だが、母は知らなかったのだ。 9歳までに核となる母語を身に付けないと、しっかりと深く物を考える事が出来ないセミリンガルになってしまうということを。
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